見出し画像

 日本語の「常識」は英語では、common sense(一般的な・共通の認識・感覚)と訳されます。

 独立の機運が高まるアメリカ合衆国では、1776年にトマス・ペインによって発行されたパンフレットのタイトルにも使用され、アメリカが独立することが、いかに当時のアメリカの人びとにとって「常識的なものであるか」を、平易な英文で世論に訴えています(個人的には、常識という言葉を用いて新たな国家を生み出そうとするレトリックが面白いなとも思いますが)。

 私が現在行っている活動において、「常識を疑え」を信条としています。常識という感覚は、思考を制限し、創造性を失わせ、最悪の場合、システムの奴隷にしてしまう恐れがあるからです。

 一方、多様な価値観が生まれる中で、常識という言葉が徐々に崩れつつある今、個人的にも「いや、それはどうなんだ」と思うこともあります。例えば、東京都知事選の選挙ポスターの問題然り。

 京都大学大学院教授の藤井聡氏は、

「だから、公職選挙法の見直しなんてしなくたってね、常識でアウトですよこんなもの!普通の国だったら常識でアウトなだけで。しょっ引くと言ったら大げさかもしれないけど、絶対許せないですよ! だからこんなものを許してる日本国家は世界に対して恥ずかい!!」

 と述べています。

 私のパートナーはしばしば、「程度の問題」という言葉を用います。それは一見、当たり前のように聞こえますが、それは実は奥が深い。いかなる場合にも、「極端」は決して良い結果を産まず、だからこそ、バランスを保つことが大切であることを示唆しています。

 私たちは何かしら社会と関係を持ちながら生きています。既存のものに束縛される「常識」ではなく、自らの意思を持って社会との整合性を保つ「程度」を意識することの大切さを思います。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?