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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第2回:『機動戦士Zガンダム』

はじめに:『Z』に対する賛否両論について

 『機動戦士Zゼータガンダム』(1985~1986年、以下『Z』と略称)は、放送直後から賛否両論のあった作品らしい。アニメスタイル編集長の小黒祐一郎はコラム「アニメ様365日」のなかで、次のように複雑な思いを吐露している。

 『機動戦士Zガンダム』は年齢によって評価が分かれる作品だ。大雑把に分類すると、先のブームで『機動戦士ガンダム』第1作に触れたファンには否定派が多かったはずだし、『Zガンダム』で初めて『ガンダム』を観た人には肯定派が多いようだ。僕はこの作品を肯定できない。ただし、色々と複雑な思いもあり、「こんなのは『ガンダム』じゃないよ!」と頭ごなしに否定する事もできない。そのあたりが自分でももどかしい。

 『Z』に対する当時の反応は、アニメ評論家の藤津亮太による「ドキュメントZガンダム」のなかで詳しく取り上げられている。藤津は『Z』が嫌悪感を抱かれる要因として、スタッフや視聴者のコメントを拾い上げながら、「見えない全体状況」、「感情移入しづらい主人公」、「殺陣の魅力に欠ける戦闘シーン」、「カタルシスのないドラマ」を挙げている。

 確かに、『Z』は『機動戦士ガンダム』(1979~1980年、以下『ファースト』と呼称)の正統後継作品でありながら、まったく毛色の異なる作風をしている。そのため、『ファースト』に特別な思い入れを持つ人が、『Z』の全編に満ちた険悪なムードに直面して、かけがえのない思い出を踏みにじられたような気がしたであろうことは想像に難くない。しかし、「ガンダム」に対して「かくあるべし」という先入観やこだわりを持っておらず、齢三十を過ぎて初めて「ガンダム」に触れた私のような人間からすると、(あまりこの言葉は好きではないが)是々非々で考えてもよいのではないかと思えた。『ファースト』には『ファースト』の、『Z』には『Z』の魅力がある。『Z』を全否定する必要はないし、かといって全肯定するのもおかしい。そういうことだ。
 なお、『ファースト』のTVシリーズから『Z』までのあいだに、富野由悠季は『伝説巨神イデオン』(1980~1981年)、『戦闘メカ ザブングル』(1982~1983年)、『聖戦士ダンバイン』(1983~1984年)、『重戦機エルガイム』(1984~1985年)という四本のTVシリーズを手掛けているが、これらの作品と『Z』を関連づけて説明することは現時点での私の能力を超えている。あらかじめご容赦いただきたい。

「悲劇」としての『Z』

 『Z』というアニメに対する印象は、視聴時の体調や精神状態、前日の睡眠時間などに大きく左右される。そんなことはどんなアニメに対しても言えることで、当たり前のことだろうと思われるかもしれない。しかし、絵の質感や精細な書き込み、ストレスのない筋書きによって視聴者を気持ち良く酔わせ、快楽の奔流で押し流そうとするアニメ(「ウェルメイド」なアニメと言ってもいいし、「クソデカ感情」を揺さぶるアニメと言ってもいい)が量産され、そればかりが支持されている現状に鑑みて、視聴者を挑発して不愉快な気持ちにさせる『Z』というアニメが稀有な作品であることは疑いない。ここで言う「不愉快な気持ち」とは、何の脈絡もなく登場人物(特に少女)を惨殺するような露悪的な作風によって引き出される悪感情のことではない。『Z』は、ロシアのウクライナ侵攻のような緊迫した局面で無邪気に「ガンダム」から教訓を引き出そうとする愚かな視聴者に対して、「ガンダム」など現実の政治的決定手続においてまったく使い物にならないジャンクであるという事実を突きつける。「ガンダム」に夢中になっているお前らはバカだ! と言わんばかりの批判(しかもこの批判は『ファースト』の総監督自身によってなされている!)に視聴者はたじろぎ、居心地の悪さを感じる。これこそ、『Z』が喚起する「不愉快な気持ち」なのである。
 『ファースト』と『Z』の関係は、叙事詩と悲劇の関係に似ている。ギリシャ・ローマ研究者の木庭顕によると、叙事詩というフィクションは「放っておくと実現しないでもないイメージに特殊な加工を加え、決して実現しえないものに変えてしまう」ものだ(木庭顕『クリティック再建のために』講談社選書メチエ、2022年、26頁)。この引用箇所の直前で、木庭は次のように述べている。

叙事詩において、出来事のイメージは、常に、何か行為の指針を与える、つまり(最も典型的な場合)全くそのようにさせる、ということとの間において鋭い緊張関係に立っている。何らか特定の状況において個人がどのようにすべきか、という価値原理や規範と密接に関わっていながらなお、しかしそのとおりにするわけには到底いかない、というようなものになっている。深く問わせ、立ち止まらせる。

(同書25頁)

 木庭はこの「出来事のイメージ」を「パラデイクマ」と呼ぶ。叙事詩は「特定の過去の出来事、特定の物語にすぎない、というふりをしながら、実は森羅万象に相当する全てのパラデイクマについてヴァージョン対抗極大化作業を実演して見せる」(同書26頁)ため、そこから特定の状況における教訓を引き出そうとしても、直ちに使い物になるものは引き出せない。しかしそれでも、人はフィクションに依拠して、そこから現実に適用できる原理・理念を抽出しようとする。自然言語を駆使して、どの原理・理念を当面の現実に適用すべきかを論じ合う。かかる政治的決定手続は、原理・理念をどこから抽出してくるかについて制約を設けないため、論拠の素材となりえないジャンクが政治的決定の背後に紛れ込む危険性を孕んでいる。
 この危険性を低減する手続の一つが悲劇である。悲劇とは「政治的決定の方向を初めから遮断する知的営み」(同書41頁)であり、「政治的決定の論拠たる原理を間接的に提供することさえなく、もっぱら(一見全く無意味に)人々の意識を培養する」(同書43頁)ものだ。悲劇は既存の叙事詩(あるいは口頭伝承)を下敷きにしながら、そこにいっそう極端な逸脱処理を施すことによって、叙事詩への熱狂を冷ましてしまう。一例を挙げると、ソポクレスの悲劇『ピロクテテス』はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』に登場する英雄オデュッセウスを悪役として描く。この悲劇のなかでオデュッセウスは、傷病兵となったため島に捨て置かれた弓の名手ピロクテテスから、戦争に勝利するために必要だという理由だけでヘラクレスの弓(これはピロクテテスにとっての生存権の比喩でもある)を奪おうとする嫌な役回りを演じる。木庭は別の著書で『ピロクテテス』を取り上げ、「悲劇はどれもシャープなホメーロス批判を含んでいます。この作品におけるオデュッセウスの描き方などは典型です」と論じている(木庭『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年、265頁)。つまり、『ピロクテテス』は『オデュッセイア』を自身の行動規範として採用しようとする人に対して、オデュッセウスが嫌な小人物であった可能性を提示し、フィクションに依拠した政治的決定に待ったを掛けていると言うことができる。
 もちろん、『ファースト』は何らかの民族的伝承にもとづいている作品ではないので、叙事詩と呼ぶことは難しい。しかし、アムロやシャアをはじめとする魅力的な登場人物たちが人気を博し、「ガンダム」で経営や国際政治を学ぶなどといった俗論が罷り通っている現状に鑑みても、『ファースト』と『Z』の関係は叙事詩と悲劇の関係に似ていると言わざるをえないのである。『Z』において、一年戦争の両雄であったアムロとシャアはひたすら情けなく描かれる。一年戦争から7年が経過し、ホワイトベースのメインクルーの大半が結婚して近代家族を形成するなか、アムロとシャアは独身の軍人であり続けている。二人が配偶者を持っていない点は百歩譲って、かつての英雄の所帯じみた姿など見たくないという視聴者の要望に応えたものだと正当化もできようが、それにしても未成熟な、もっと言えば幼児退行気味の二人の姿は前作のファンを落胆させることだろう。アムロは前作にもましてうぬぼれが亢進し、自分よりも若いパイロット(カミーユ)に嫉妬のような感情を抱いている。みんなカミーユをもてはやして、自分を見てくれない! と拗ねる先輩アムロは、思わず引いてしまうほどに矮小に見える。シャアにしても、酸いも甘いも噛み分けたというよりは、他人とのあいだに壁を作って、壁で押していくような言行が目立つ。クワトロ・バジーナという仮面をかぶり、真意を語らずにはぐらかす赤い彗星シャアは、外面を瀟洒に見せながらもどこか自信なげに映る。自分の殻に閉じこもっていれば、これ以上傷つくことはないかもしれないが、殻のなかで過去の傷はじゅくじゅくと膿み続ける。第15話「カツの出撃」において、シャアは久々に再会したアムロに対して「ララァの魂は地球圏に漂っている。火星の向こうにはいないと思った。自分の殻のなかに閉じこもっているのは、地球連邦政府に、いやティターンズに手を貸すことになる」、「籠のなかの鳥は鑑賞される道具でしかないと覚えておいてくれ」と語るが、これはシャア自身の投影ではないだろうか。このような描写を前にしてしまうと、『ファースト』に心酔し続けることは、意識的に『Z』から目を背けない限りは難しくなる。
 いまティターンズという単語を出したが、そもそも『Z』における対立構造自体、『ファースト』が提示した「人間同士はわかりあえるはずだ」という希望的観測を打ち砕くものである。反地球連邦組織・エゥーゴと地球連邦軍を私物化する自称エリート集団・ティターンズの衝突、そこにジオンの残党・アクシズが絡んで三つ巴の様相を呈する泥沼の戦闘。そして、モビルスーツ戦以外の場でも横行する暴力。かつてホワイトベースを率いたブライトでさえティターンズの士官から殴る蹴るの暴行を受けるし、エゥーゴ内部でも「修正」と称した暴力が綱紀粛正のために用いられている。さらに、ティターンズは目的達成のために人質の殺害や毒ガスの使用、ひいては「コロニー落とし」による大量虐殺すら辞さない。第3話「カプセルの中」において、エゥーゴのブレックス准将はティターンズの破廉恥な手口について、「まるでヤクザだ。一軍の指揮官が思いつくことではない」と怒りをあらわにする。かけがえのないものを奪うのは悲劇の常套手段である。理不尽な暴力を基調とし、『ファースト』に対する一種の「嫌がらせ」として機能する『Z』は、まさに真の意味で「悲劇」と呼びうる作品ではないだろうか。万全の体調で臨まなければ、味わい尽くすことが難しいシロモノである。

揉め続ける人間ニュータイプたち

 視点をマクロからミクロに転じて、『Z』の主人公・カミーユの繊細な性格や彼を取り巻くギスギスした人間関係について所感を述べてみたい。本稿の冒頭で引用したとおり、カミーユに対しては「感情移入しづらい主人公」という意見が少なからず見られるところであるが、私はむしろカミーユの苛立ちに、彼が置かれた状況も含めて親近感を持った。というのも、『Z』で繰り広げられるいざこざは、私が東京大学教養学部文科一類(東大文一)、あるいは東京大学法学部に在学中に抱いた苛立ちや経験した揉め事を彷彿とさせたからである。
 全国からよりすぐりのお勉強エリートを集めた最高学府で私を待っていたのは、一般的な水準を下回るくだらない諍いと際限のない見栄の張り合いだった。全国模試の順位表で名前だけは相互に認知していたような若人たちが、出身高校や浪人経験の有無で序列を付け合い、上位とみなした者に過剰に媚びる一方で、下位とみなした者を徹底的にこきおろす。名門校出身の現役合格組が同校出身の一浪組(要は一年先輩)を顎で使う様子にはとにかく辟易したものだ。そのうえ、誰も彼も「コスパ」や「要領」を重視していて、愚直に泥臭く学ぶことを鼻で笑っていた。「大学の講義に真面目に出るのがすべてではない。講義に出席せずに良い成績を取るのが一番賢いやり方だ」といったお説教を私にカマしてくる者もいた。私は大学の講義から受ける知的刺激のライブ感が好きだという一心で出席していただけなので、まったくもって余計なお世話であったが、私の知的好奇心は「コスパ」を重視する学生にはなかなか理解されなかった。それどころか、私たちは互いに正義を主張していがみ合い、言葉の暴力によって傷つけ合うようになってしまった。私は「同じ言葉で話せる日が来る」(桃井はるこ「さいごのろっく」)ことを夢見て、友達をつくるために東京大学に入学したのだが、その目論見は入学早々に潰えたわけである。
 地方の公立高校から18歳で上京した夢見がちな青年は、「全国のエリートを集結させた環境はきっと素晴らしいに違いない」という過剰な期待と現実との落差をどうしても受け入れられなかった。周囲の学生と話が通じない、わかりあえないというコミュニケーション不全が起こるたび、深い失望と幻滅に苛まれ、それはやがて激しい怒りへと転じた。私は同級生との連絡を断って孤立を選び(当然、卒業時には学士会にも入会していない)、閑古鳥が鳴いている講義室で学知のシャワーを浴びせてくる大学教員を捕まえては、一対一の対話をお願いする奇特な学生生活に没入していった(この選択が私に大学院進学の道を開くことになるのだが、それはまた別の話)。
 以上書いたことは、すべて私の主観である。いま思えば、私がもう少し相手の言葉に耳を傾け、別の考え方に対して寛容になれていたら、揉め事に発展することもなかったのかもしれない。我が強かったのは相手ではなく、私のほうだったのかもしれない。いずれにせよ、かかる苦しい経験がカミーユの苛立ちとオーバーラップして、私を『Z』の虜にしたことを思うと、猜疑心や人間不信が限りなく膨らんでいた学生時代も回り回って有意義だったと思えてくる。
 やはり、『Z』の本質はあくまで「ニュータイプ」の鍔迫り合いなのだと思う(続編の言葉を借りれば「ニュータイプの修羅場」)。『Z』が突き詰めているのは、人はわかりあえない、些細な違いで諍うものなのだという陳腐な一般論ではなく、勘が優れていたり、何らかの能力が高かったりする人間は得てして極度にうぬぼれており、こうした自意識過剰な人間ばかりを集めたらどれほど面倒臭いかという思考実験なのではないだろうか。私からすると、『Z』は「理由なき反抗」の物語ではないし、「キレる17歳」のバイブルでもない。『Z』を見て過度に感傷的になったり、ペシミスティックな人間観を内面化した厭世家になったりする必要もないように思う。なぜなら、『Z』は全編通して、わからない人にはわからない、見たことがない人には想像を絶する光景が繰り広げられているからである。政治学者の高橋直樹は2009年夏学期の「政治Ⅰ」(政治学概論の講義)で、「東大文一はエリートの墓場です」と発言していたが、これに倣って言えば、『Z』は「ニュータイプ」の墓場と言いうるのではないだろうか。
 富野由悠季は『ネオ・サピエンス誕生』(インターナショナル新書、2022年)に掲載されたインタビュー記事のなかで、「ニュータイプ」に言及して「どんなに優れた戦闘者であっても優れた政治家にはなれない」と述べている(同書158頁)。富野は続けて、次のように語る。

戦闘者、パイロット、技術者といった特性の強すぎる人たちは、僕の考えるような政治家になれるほど、多角的な視点を持ち得ないのだということが、ガンダムシリーズを重ねるうちにはっきりしてきたのです。一つの属性で際立ってしまった人は、組織を調整し、世の中を動かす役割には不適合である。

(同書159頁)

もちろんカミーユも全能型とはほど遠い人間です。でも、ほんの短い期間ではありましたが、カミーユに全能を目指させようと思ったことがありました。だけど、現代の我々と大きく変わってはいない近未来の人物に、全能を目指すだけのキャパシティはありません。結果として、カミーユの精神は崩壊しました。
 カミーユ自身の意思で全能者を目指したわけではありません。少なくとも、そのような描写を劇中ではしていないはずです。ただ、明らかに戦闘者としての能力が傑出していたために、本人の人間的な限界を超えたものを負わされ続けて、人間としての成長過程も、意思を強靭にするための時間的な猶予も与えられず、全能者への道以外の選択肢が閉ざされていきます。

(同書161頁)

 監督自身の回顧録を真に受けるのも問題ながら、カミーユが「特性の強すぎる人」ないし「一つの属性で際立ってしまった人」の代表格であることは否定しようがない。自戒を込めて言うが、平凡な視聴者が「カミーユは俺だ」と言ってみたところで、多くの場合それは夜郎自大にしかなるまい。『Z』の悲劇的な結末について、富野は「誰よりもニュータイプになりたい僕自身の敗北でもありました。その敗北は、今でも認めたくない。でも認めざるをえないのです」と語る(同書162頁)。まさにこの「敗北」こそ、「ニュータイプ」という希望の表現に対する悲劇的な批判の刻印であろう。
 若き日の飛田展男が演じるカミーユの叫びはどれも素晴らしい(ちなみに、私は飛田展男を『ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー』のテラザウラー役で知った)。「出てこなければやられなかったのに!/抵抗すると無駄死にをするだけだって、なんでわからないんだ!」(第12話「ジャブローの風」)、「性懲りもなく、また来る!」(第26話「ジオンの亡霊」)、「わかっていながら、なぜ身を滅ぼそうというんだ!」(第31話「ハーフムーン・ラブ」)、「なぜそうも簡単に人を殺すんだよ! 死んでしまえ!」(第41話「目覚め」)といった自意識過剰で一見矛盾した発言の数々は、高校時代の友人から「お前は大学に行ってすっかり変わってしまった」と言われた十余年前の私を強く思い出させる。齢三十を過ぎて初めて、「カミーユは俺だ」という思いに浸っているのは我ながら痛々しいが、この痛々しさを客観的に認識する余裕もなかったであろう青年期に『Z』と出逢わなくてよかったとも言えるところであり、そこは不幸中の幸いということにしておきたい。

『Z』を彩る女性たち

 『Z』にはいろいろな意味で強烈な女性たちが多数登場する。第21話「ゼータの鼓動」において、『Z』のラスボス的ポジションを占めるシロッコは「戦後の地球を支配するのは、女だと思っている」と語る。藤津亮太は本稿の冒頭で掲げた「ドキュメントZガンダム」のなかで、シロッコというカリスマ像について「カルト教団の犯罪性などを補助線とすることで明確になった」と述べている。この説明は的外れではないが、アンチフェミ・インセル・表現の自由戦士によるバックラッシュが激化している昨今にあっては、男性による支配構造を温存するために女性に優しく接する、和製英語としての「フェミニスト」という側面にも注目すべきではないかと思う。
 社会学者の伊藤公雄はBuzzFeed Newsに掲載された記事(2017年11月15日)のなかで、レイプ・カルチャーの根源にある男性と女性の非対称性について、次のように述べている。

男性にとって女性は、意のままに管理できる所有物であると同時に、男性が傷ついたときには癒してくれるべき存在だという過剰な依存もあります。

男性作家が描く女性像を考察したところ、女性のイメージは3パターンしかありませんでした。性的な欲望を満たす「娼婦」、崇めたてるべき「聖女」、甘えの対象である「太母」です。

上から支配する対象であるか、下から憧れ甘える対象かのどちらか。すなわち男性は、対等な人格をもった存在としての女性像をうまく組み立てられていないのです。

レイプ・カルチャーの根源にあるのは、この「関係の非対等性」です。

 男性作家が女性をありのままに書くことができず、「娼婦」・「聖女」・「太母」の3パターンに押し込めてしまうという根深い問題に対して、『Z』は女性を「太母」視することから逃れられない男性を自嘲的に描くことで応答しているように見える。最終回直前まで決着が持ち越されるカミーユとジェリドは一途さを欠いているという点で似た者同士である。とにかく女性一般に興味があるが、特定の女性との距離感をつかめないまま、フラフラと女性たちのあいだをさまよい歩き、出逢った女性に寄りかかっては相手をイライラさせてしまう(実はこの点も男子校出身の東大生あるあるで、私としても共感できるところである)。第16話「白い闇を抜けて」におけるカミーユの思考は、私を含む情けない男性視聴者の思考をよく写し取っている。カミーユは「戦闘中に女のことを考えて!」とアムロに対する苛立ちを募らせるくせに、自分がアッシマーに道連れにされそうになると、途端にファのことを思い出してしまうのだ。第22話「シロッコの眼」において、エマは「カミーユは本能的にあたしを好きですから」という言い回しで「カミーユのマザー・コンプレックス」を指摘している。ここでは、「カミーユ」が男性視聴者の代名詞としても機能しているように思われてならない。
 白痴的な「娼婦」を愛で、包容力のある「聖女」や「太母」に甘える――そんな男性視聴者を苛む最大の「地雷」が、欲求不満が昂じてエゥーゴを裏切るレコアという女性であることは衆目の一致するところだろう。ファはレコアについて、「女って……ああなんじゃないかって思ったりするんです」(第45話「天から来るもの」)と所感を述べている。これはアンチフェミの大好物である「女の敵は女」式のセリフであって、目下の感情を重視するあまり破滅へ向かうレコアの姿にうんざりしていた男性視聴者の溜飲を下げるものだ。しかし、レコアに関してより正鵠を射ているのは、第39話「湖畔」におけるシロッコの言ではないだろうか。シロッコは「レコア・ロンドはまともだよ。ただ、依存心が強いだけの女なのだ。強がっているから、自分を裏切るような結果になる」と語る。そう、レコアは取り立てて叩くべき悪女などではなく、面倒臭いけれども典型的な、すなわち「まとも」な女性なのである。第49話「生命いのち散って」において、レコアは「男たちは戦いばかりで、女を道具に使うことしか思いつかない……もしくは女を辱めることしか知らないのよ!」と言い残して絶命する。私はこのセリフを耳にしたとき、ようやくレコアの呪縛から解放されるという安堵感を覚えるとともに、自分もまた女性にレコアのような思いをさせてしまう男性でしかありえないのだという立ち尽くすような感覚にも襲われた。これは割とげんなりする視聴体験であったが、数週間ほどレコアの断末魔の叫びを反芻するうちに「システム1」の反応による嫌悪感は徐々に薄らぎ、現在はレコアを嫌ってばかりもいられないと平静を取り戻しつつある。
 なお、『Z』の女性陣について、友人のガンダムファンP氏は「俺はキモヲタなので情緒不安定でエキセントリックな女性はダメで、普通にエマさんやファが好きなんですよ」と言っていた。私は別の意味でこじらせているので、『Z』の女性陣のなかではフォウとライラが突出して好みである。そりゃあ強い女性から「いい男になってくれれば、もたれかかって酒が飲める。それはいいものさ」(第7話「サイド1の脱出」)とか言われてみたいし、街角で(逆ナン的に?)声がけしてきた女性とのアヴァンテュールに身を焦がすことへの憧れだってある。しかし、私自身の実態に近いのは、「やめてくれサラ! 会いたいんだ、会って話がしたいんだよ!」と女性にすがりつき、「たとえそう思っていても、それを言うのは男じゃないわ! だからあなたのこと全部好きになれないの!」(第45話「天から来るもの」)と突き放されるカツの姿なのであった。こうして、富野由悠季は「『ファースト』と『Z』の関係は、叙事詩と悲劇の関係に似ている」と高みの見物を決め込んでいた「後期思春期」の30代男性にも牙を剥き、深手を負わせたのだった。

結びに代えて

ああ 傷つけあう前に できることさがして Please

(鮎川麻弥「星空のBelieve」)

 以下では、本稿の結びに代えて、項目を立てて十分に語ることができなかった雑感を書き残しておく。

1. ロードムービーとしての『Z』

 『Z』の地球編第一幕(第6話、第9話、第11話~第20話)は、『ファースト』の地球編と好対照をなしている。前者においてカミーユたちは、後者では目的地であったジャブローを起点として、太平洋を横断してニュー・ホンコンに到達する。後者の漂流ルートでもホワイトベースが太平洋を越えていることは窺われるものの、むしろ見せ場は中央アジア、オデッサ(残念なことにロシアのウクライナ侵攻で報道上目にすることが増えてしまった)、ベルファスト、そして大西洋での激戦であり、太平洋は場面として前景化しなかった。これに対して、前者では太平洋に面した東アジアにスポットライトが当たり、日本のムラサメ研究所の強化人間・フォウとサイコ・ガンダムという強キャラが投入されて、後者ではあまり見られなかった市街戦も繰り広げられる(変形前のサイコ・ガンダムの宇宙怪獣感も非常に魅力的)。また、後者ではホワイトベースという宇宙戦艦ごと地球に降りたため、地球が「重力の井戸」であることは明確に意識されにくかったが、前者ではモビルスーツだけで地球に墜落したため、地球から宇宙に戻るのが技術的に容易でないことが強調されている。このように、『ファースト』と『Z』は一枚のコインの表裏をなしており、視聴者を飽きさせない工夫に満ちていると感じた。

2. 百戦錬磨の「オールドタイプ」について

 第26話「ジオンの亡霊」において、カミーユはヤザンの操るギャプランと交戦するなかで、「戦い慣れしているようだが、精神的プレッシャーは感じない。ただ強いだけだ」とつぶやく。私がこのシーンを見てすぐに思い出したのは、『ファースト』におけるアムロとランバ・ラルの戦闘シーンだ。ヒートロッドでガンダムを苦しめたグフも、ランバ・ラルの自刃後は量産型の「やられメカ」としてバカスカ撃墜されていく。私はそれを見て、グフの性能を最大限に引き出していたのはランバ・ラルの腕だったのだ! と感心したが、ヤザンについても同様の感想を抱いた。「ニュータイプ」の主人公が越えるべき壁として立ちはだかる、研ぎ澄まされた「オールドタイプ」の強敵。それは「ニュータイプ」以上に人間の可能性を称揚する存在として、素直に格好良く思えてしまう。
 話は変わるが、第7話「サイド1の脱出」におけるライラの最期の言葉――「そうか、私がいまあの子のことを只者じゃないと言った。このわかり方が無意識のうちに反感になる。これがオールドタイプということなのか」――は、自分が「ニュータイプ」であるという妄想に浸る場合には恰好のオカズになってくれることだろう。

3. カミーユの面白い顔

 『Z』はその性質上、陰鬱な場面ばかりが強調されがちだが、少しばかり気の利いた「崩し絵」が時々見られる点も見逃してはならないと思う。第29話「サイド2の危機」でバスローブ姿のファに目を奪われたときのカミーユのコミカルな顔! 第31話「ハーフムーン・ラブ」でサラとの逢瀬をファに見咎められたときのカミーユのばつの悪そうな顔! 第34話「宇宙そらが呼ぶ声」でアストナージから朴念仁扱いされたときのカミーユの膨れっ面! こうした「崩し絵」は『Z』の登場人物を等身大の少年少女へと引き戻す効果を持っており、人形浄瑠璃文楽でいう「チャリ場」のように、視聴者の張り詰めた気持ちを和らげてくれる。『Z』は第一義的には宇宙世紀における「時代物」と評すべきであろうが、「世話物」の性質も併せ持っていると言えるかもしれない。

4. 『Z』に登場するモビルスーツについて

 『Z』 に登場する数多くのモビルスーツのなかで、私が特に好きなのはサイコ・ガンダムメタスである(リック・ディアスと百式も人並みには好き)。サイコ・ガンダムに対する愛着はパイロットへの偏愛に起因する部分が大きい。とはいえ、サイコ・ガンダムの初登場シーンが昭和ウルトラシリーズ好きにはたまらない質感を備えていたことも無視できない。市街地のビルの合間を縫って飛来した巨大な飛行物体を前に、人々が逃げ惑う様子といったら! うまく言えないのだが、昭和ウルトラシリーズと『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年)のあいだに『Z』がかすがいのように打ち込まれた感覚があった。メタスは個人的には、『Z』に登場する可変モビルスーツのなかで最も総合点が高いモビルスーツだ。Zガンダム、メッサーラ、ギャプランといった戦闘機に変形する可変モビルスーツはどれも魅力的だが、機体の色や尖りすぎていないがっしり感(ギャプランはスマートすぎる)を考慮に入れると、私の趣味の次元ではメタスに軍配が上がる。趣味の話ついでに言えば、バルキリーのデザインに惹かれて、『超時空要塞マクロス』(1982~1983年)にも興味が湧いてきた今日此頃である。

 次回更新は2022年5月、主題は『機動戦士ガンダムZZダブルゼータを予定している。

参考文献

木庭顕『誰のために法は生まれた』朝日出版社、2018年。

木庭顕『クリティック再建のために』講談社選書メチエ、2022年。

富野由悠季(構成・文=柳瀬徹)「人類は『ニュータイプ』になれるのか」『ネオ・サピエンス誕生』インターナショナル新書、2022年、154-173頁。

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