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社交・顔・感情:TVアニメ『シャドーハウス』が描いた宮廷社会のカリカチュア

※本記事は『シャドーハウス』の原作第4巻、TVアニメ最終話までのネタバレを含みます。原作未読、TVアニメ未視聴の方はご注意ください。

はじめに

他者の真意や素質を確定する手段が乏しいところでは、「今ここ」での現実的選択の必要性が、まさにそれゆえに未来への跳躍へとただちに転換する。……それほど知らないが、今後関わる可能性がある他者に向き合うとき、視線はとりわけ顔という場所に引き寄せられる。そのとき、何らかの手がかりから推論するというよりも、漠然とした「感じの良さ」や「悪さ」が、謎めいた吉兆や凶兆のように映るのではないか。
(遠藤知巳『情念・感情・顔:「コミュニケーション」のメタヒストリー』以文社、2016年、579頁)

 2021年7月4日、「世にも奇妙なゴシックミステリー」として話題沸騰中のTVアニメ『シャドーハウス』が最終回を迎えた。本作はまさに「怪作」と呼ぶにふさわしいユニークな作品である。
 断崖絶壁に建つ洋館――そこには貴族のまねごとをして暮らす、顔のない一族「シャドー」が住んでいた。その「顔」役としてシャドーに仕えるのは「生き人形」。生き人形は「お影様」ことシャドーの近習として、主人の身の回りの世話を担う。本作はシャドーの少女・ケイトとその生き人形・エミリコの日常を描きながら、徐々に視点を引いていき、不気味な洋館の真相を明らかにするスタイルを採用している。接写から俯瞰へと少しずつ引いていくスタイルは原作漫画を手掛けるソウマトウが得意とするところで、前作の『黒-kuro-』(ヤングジャンプコミックス、2014-2016年)に引き続いて本作でも健在である。
 ところで「シャドーの顔は誰にもわからない」(TVアニメ第1話、原作第1巻第1話)といっても、のっぺらぼうや咲竹ちひろの「顔穴ちゃん」(例えば『四天王-1』のキャロライン、下掲ツイートを参照)とは事情が少し異なる。シャドーの身体は影絵のように真っ黒であり、身体から日々放出されるすすは部屋や衣服、触れるものすべてを汚してしまう。つまり「顔がない」とは正確に言えば「表情が読み取れない」ということなのだ。

 以下、本稿では、社交と顔(または表情)という観点から『シャドーハウス』を論じる。なお、TVアニメ版は原作漫画を忠実にトレースしたものではなく、特に第11話以降はアニメオリジナルの展開となっている。本稿はあくまで「アニメ評論」のため、原作漫画も参照しつつも、TVアニメ版に即して議論を進める。この点につき、あらかじめご了承いただきたい。

シャドーの生態と階層秩序

 先程、シャドーは貴族のまねごとをして暮らしていると書いた。ここでいう「貴族」の内実を明らかにするため、まずはシャドーの生態を整理する。
 シャドーには「顔がない」、つまり「表情が読み取れない」。このことはケイト自身が「シャドー一族は顔が見えないから判別が難しい/その顔の替わりが貴女たち“生き人形”なの」と述べているとおりである(TVアニメ第1話、原作第1巻第2話)。シャドーが「顔」を必要とする理由は「お披露目」というイニシエーションに関わっている。シャドーは生き人形との一定期間の交流を経て「お披露目」に臨む。そこではシャドーと生き人形の適性が大人たちから見極められる。無事に「お披露目」に合格できれば、晴れてシャドーは「顔付き」、すなわち成人となる(TVアニメ第3話、原作第2巻第13話)。そして、成人したシャドーは有無を言わせず階層秩序のなかへ組み込まれる。
 シャドーの暮らす洋館「シャドーハウス」は「こどもたちの棟」「おじい様と共にある棟」に分かれている。前者は「星つき」と呼ばれる四人の優秀な生き人形に監督されており、後者はシャドーハウスの創設者たる「偉大なるおじい様」を頂点とした大人たちのヒエラルヒーを形成している。なお、「おじい様と共にある棟」は三階建てとなっており、階上に住まう者ほど偉いとされている。このような上昇志向を掻き立てる構造によって、シャドーは「複雑な悪意」を持つことを強いられることになるが、この点については後述する。
 また、シャドーは対外的にも貴族として振る舞っている。近隣の村の住民は子供たちをシャドーハウスに出仕させる見返りとして、シャドーハウスで生産された「すす炭」の提供を受けて生活している。そして、シャドーハウスに献上された子供たちは「おじい様のすす入り珈琲」によって記憶を消され、「偉大なるおじい様」への忠誠心で満たされる。こうした洗脳プロセスを経て、子供たちは「生き人形」と化す。シャドーは「日常的にすす炭のすすを吸っている村人は正常な思考が出来ない」ことに付け込んで、人間の子供たちを拐かしているのだ(TVアニメ第11話、原作第4巻第46話)。
 物語の中盤で、シャドーとは擬態・模倣を得意とする寄生型の妖精「モーフ」が人格を得た姿であることが明かされる。彼らの目的は次のように語られている。

“顔”は自らの考えをいずれ失い忠誠心のみでシャドーに従う
そしてシャドーと“顔”は一体化して“完全な存在”になる
(TVアニメ第9話、原作第4巻第37話)

第1段階に“生き人形”を見せることで人の姿を認知し擬態させ
第2段階は“生き人形”の側に置き/ふれあいによって人格を得る
そして第3段階ですす能力の覚醒と一体化/つまり“生き人形”の体を乗っ取り「顔」を得る/すす能力を備えた人を超える完全な存在へ
(TVアニメ第10話、原作第4巻第45話)

 この「一体化」は重要な機密事項となっており、「おじい様と共にある棟」の一員になる条件でもある。「お披露目」の合格に加えて、生き人形との「一体化」を果たすことで、シャドーは真の意味で「大人」として認められるというわけだ。
 以上述べたように、本作は人間の顔を奪う化け物の生態を活写しているが、「影」が人間に取って代わるというモチーフは既にいくつかの西欧の文学作品に見いだされるところである。シャドーを「影」と呼ぶべきなのかはともかく、いったん節を改めて、「影」をめぐる物語の系譜のなかに本作を位置づけてみることにしたい。この前提的作業により、本作の論点がいっそう明確になることだろう。

「影」をめぐる物語の系譜:河合隼雄の解釈をこえて

 「影」を題材とした西欧の文学作品としては、シャミッソー『ペーター・シュレミールの不思議な物語』(Peter Schlemihls wundersame Geschichte, 1814)、ホフマン『大晦日の夜の冒険』(Die Abenteuer der Sylvester-Nacht, 1815)、アンデルセン「影法師」(Skyggen, 1847)の三作品がよく知られている(*)。

(*)それぞれ邦訳としては、シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』岩波文庫、1985年;前川道介ほか訳『ドイツ・ロマン派全集 第13巻 ホフマンⅡ』国書刊行会、1989年、9-49頁;大畑末吉訳『完訳 アンデルセン童話集(三)』岩波文庫、1984年、33-54頁を参照した。

 『ペーター・シュレミールの不思議な物語』において、ペーター・シュレミール(Peter Schlemihl)はトーマス・ヨーン氏の園遊会で灰色服の男と知り合い、自らの影と引き換えに、いくらでも金貨を取り出せる幸運の金袋を手にする。しかし、シュレミールは影がないことで周囲の人々から化け物扱いされ、陽光のもとを歩けなくなってしまう。彼は召使いも恋人も失い、たった一人で世界中を逍遥する旅に出るのだった。
 『大晦日の夜の冒険』において、エラスムス・シュピークヘル(Erasmus Spikher)はドイツに妻子を残してイタリア・フィレンツェを訪れたとき、宴会の場で高級娼婦のジュリエッタと出逢い、ひと目で恋に落ちてしまう。ジュリエッタとの逢瀬を重ねるシュピークヘルは、あるとき彼女をめぐって張り合う恋敵を口論の末うっかり殺してしまい、フィレンツェにこれ以上滞在できなくなる。シュピークヘルは名残惜しむジュリエッタに自らの鏡像を差し出してフィレンツェを去るが、それ以降鏡に姿が映らなくなってしまう。彼は妻子からも化け物扱いされ、鏡その他光線を反射するものを恐れて生きるようになったのだった。
 「影法師」は、学者が「寒い国」から太陽が燦々とふりそそぐ「暑い国」にやってくるところから始まる。学者は「暑い国」での滞在中に自らの影と離別してしまい、不愉快な気持ちで帰郷する。帰郷後、学者は真善美に関する書物を何冊も著すものの一向に売れない。そんな学者を訪ねてきたのは、立身出世した影であった。影は学者のもとを離れたあと、世間のくだらなさ、すなわち「隣人の悪」を幾度も目にして、一端の男に成長を遂げていた。影はかつての主人に対して、今度はあなたが影として自分に仕えないかともちかける。学者はしぶしぶ影の提案を受け入れ、主人と影の地位は反転することになる。やがて影扱いされることに耐えきれなくなった学者は叛逆を試みるが、王女の結婚相手にまで上り詰めた影の命令で番兵に捕縛され、とうとう処刑されてしまうのだった。
 さて、「影」をめぐる物語として、この三作品を挙げたのは恣意的な選択ではない。『大晦日の夜の冒険』については、ホフマンが『ペーター・シュレミールの不思議な物語』に感銘を受け、シャミッソーへの献呈作品として「本歌取り」的に書き上げたものであることが文学研究上明らかにされている(前川道介「或熱狂家の一生」『ドイツ・ロマン派全集 第13巻 ホフマンⅡ』、370頁)。そもそも、『大晦日の夜の冒険』にはシュレミールが登場人物として現れるため、上記二作品の関連に疑いはない。

あるときペーター・シュレミールとかいう男に出会った。その男は自分の影を悪魔に売っていた。二人は相棒になって、エラスムスが影を、シュレミールが鏡像を提供することに決めたが、事態は一向に変らなかった。
(前川道介ほか訳『ドイツ・ロマン派全集 第13巻 ホフマンⅡ』、48頁)

 また、「影法師」の作中にも『ペーター・シュレミールの不思議な物語』への言及が見られ、学者の故郷である「寒い国」が北欧であることが示唆されている。「寒い国」から南下して「暑い国」へ向かい、そこで影を失うという筋書きはホフマン的でもあり、「暑い国」について地中海沿岸のテラロッサを思い浮かべることも許されるのではないだろうか。

 学者は腹立たしくなりました。けれども、それは、影法師が行ったきりだからではなくて、じつは、影を失った男があることを知っていたからです。この話は、学者の故郷の寒い国々ではだれでも、知らないものはありません。ですから、学者が国へ帰って、自分の話をしても、それは有名な話のまねだととられるでしょう。そんなことは言われたくありません。そこで、この話は、だれにも言うまいと思いました。
(大畑末吉訳『完訳 アンデルセン童話集(三)』、37頁)

 ここで、上記三作品に関する著名な批評を一つ紹介しておきたい。臨床心理学者の河合隼雄『影の現象学』(思索社、1976年;講談社学術文庫、1987年)のなかで、上記三作品をユング心理学の枠組で分析している。まず、作品分析の前提として、河合が人間の心と「影」について整理している箇所を引用する。

人間の意識領域は自我によって統合され、言語によってその内容を把握することができる。たとえば自分の名前、出生地、あるいは学校で習った知識などはすべて言語化することができる。しかし、自我によって確実に把握することが難しいものほど言語化することが難しくなってくる。まったく無意識に属することは、これはもちろん無意識の定義から考えても、意識的に把握されるはずがない。しかし、意識と無意識の領域はそれほど画然としたものではなく、その中間領域あたりの動きは、イメージとして把握されると考えられる。
(『河合隼雄著作集 第2巻 ユング心理学の展開』岩波書店、1994年、15-16頁)

それ〔=影〕は個人に体験されることとしては、まず無意識の全体として体験されると言わねばならない。つまり、影は後に分化されてゆくにしろ、最初は無意識の全体を被うものとして体験されるということである。
(同書24頁)

 河合は人間の心を自我と無意識のせめぎあいとして捉え、概念として析出できない無意識の全体を「影」と呼んでいる。かかる理解にもとづくと、前述の「影」をめぐる物語は以下のように分析されることになる。

シャミッソーにとって、影のイメージは、彼の魂であり、祖国であり、あるいは彼の心の故郷であり、また、そのどれかひとつに限定できるようなものでもなかったであろう。イメージは不可分の意味の束のようなものなのである。(同書15頁)

主人公シュピークヘルは明らかに、本人の自我をあらわす。ある個人の影は無限のひろがりをもつが、その中でのある側面が自我によって把握されるとき、それは影のイメージとなって顕現する。……シュピークヘルは深く日常性と結びついたアニマ像としての妻とのつながりだけでは満足できないのである。ホフマンにとってのユーリア・マルクのごとく、ジュリエッタはシュピークヘルにとっての魂の像としての意味ももっている。ただそれはあまりに影におおわれたものであり、破壊の道につながることも明らかであるが。……両者の中で避けがたい分裂の結果、影と言っても自我に非常に近い鏡像が、自我と遊離する現象を引き起こしてしまったのだ。
(同書59-60頁)

シュピークヘルが自分の映像を取りもどすためには、ジュリエッタと妻という二人のアニマ像がひとつに統合される過程が必要なのであろう。あるいは、シュピークヘルが映像を探し出そうとしたが無駄であったという結末は、このような統合が不可能であることを暗示するものであろうか。
(同書61-62頁)

アンデルセンの「影法師」を例にとると、主人公の学者が向かいの家のバルコニーにちらりと見た、「すらりとした若い女」は学者のアニマ像である。学者はあまりにも堅い生活をしているので、心の中のアニマ像とのつながりを失っている。ちらっと見たせっかくのアニマ像もすぐ消え失せて、結局は影法師がそれに会いにゆくことになっている。つまり、学者はその影を通じてアニマとの接触を得られるはずなのだが、その影が独り歩きして学者から独立したために悲劇が生じるのである。アニマとの接触を絶たれた学者がいくら真善美について本を書いても、少しも売れなかったのは当然である。アニマとはまさに「たましい」であり、たましいのない本は売れないのである。(同書30頁)

 河合はこのように、文学作品における「影」を無意識という深淵のイメージとして捉える。そのうえで「影」と対峙し、それを受け入れることが「人格の成長」につながると主張する。

 永遠の少年たちは、自分の影を意識しないまま、その影を両親や社会に投影し、ひたすら正しく、幸福に生きているが、それにしても、われわれはいつかは自分の影の存在を自覚しなければならない。(同書44頁)

 影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。……影といってもそれは自分の影であるかぎりにおいて、自我とは簡単に切り離すことができないのである。(同書196頁)

 確かに、『シャドーハウス』でも「こどもたちの棟」と「おじい様と共にある棟」の対立が前景化してくるため、本作は影を受け入れて「大人」になることを寓意的に示した作品なのだ、と河合風に解釈することも可能ではあるだろう。さらに、TVアニメ版では一人の声優がシャドーと生き人形のペアを異なる声色で演じ分けていることから、ドッペルゲンガー(二重身、Doppelgänger)の文脈に接続することすら可能かもしれない。独文学者の種村季弘はドッペルゲンガーを「市民的自我の影」と表現している。化け物に対して差別と偏見に満ちた排除の論理を向けたところで、畢竟化け物と人間は紙一重であり、境界線をどれだけ引いたとしても、それは不可視の膜のように頼りないものにすぎない。「永遠の少年」(puer aeternus)として影を受け入れることを拒めば、かえって影のイメージに苛まれることになる。

市民社会の成立とともに、その方向が超越に向うと頽落に向うとを問わず、社会の彼方に追放された人非人(聖人、犯罪者、怪物)が、市民的自我の影として隔離されたときにはじめて、真個のドッペルゲンゲルが誕生するということだろう。
(種村季弘『怪物の解剖学』河出文庫、1990年、237頁)

 しかし、本稿はこうした心理学的解釈とはまた別の解釈を行う。なぜなら、河合は影の物語における「社交」という要素を看過しているからである。「社交」の要素は「顔のない」シャドーが顔を求めるという本作の筋書きに密接に関わるため、節を改めて論じることにする。

社交と顔/表情:「情念の体制」と「感情の体制」の相克

 前節で取り上げたシャミッソー、ホフマン、アンデルセンの各作品は、いずれも「社交」の場で影を失い、その結果として人間関係の網の目から弾き出される話として整理できる。シュレミールは園遊会で、シュピークヘルはフィレンツェの宴会の場で、学者は「暑い国」の騒がしい夕暮れのなかで、影や鏡像を失ってしまう。いや、正確には、神出鬼没の悪魔のような人物に影や鏡像を言葉巧みに奪われてしまう(アンデルセンの場合、特定の動作主体がおらず、中動態的な喪失であるため不気味さがさらに増す)。
 社交の場には、好ましからざる人物(personae non gratae)が紛れ込むことがある。彼らは虎視眈々とカモがやってくるのを待ち構えており、カモは一度彼らと接触を持ってしまったが最後、直ちに好ましからざる人物に転じてしまう。シュレミールとシュピークヘルは得体の知れない人物との軽率な交渉によって、化け物の領域に引きずり込まれたのだ。影や鏡像がないというのは実体がないのも同然であり、それゆえに彼らは気味悪がられ、社交の場から退場を余儀なくされる。考えてみれば、陽光のもとを歩けなかったり、鏡に姿が映らなかったりするのは吸血鬼の特徴の一つではないか。彼らの轍を踏まぬためには、好ましからざる人物と好ましい人物を識別することが必要となる。そして、その識別に用いる外的表徴は何をおいても「顔」であろう。シュレミールとシュピークヘルの悲喜劇は社交における顔の読み取りに失敗した者の末路を示している。アンデルセンの童話についても、世間知らずの学者が人心掌握に長けた影に敗北するという点で、やはり社交が主題となっていると言うことができる。これらの物語は我々に、社交の苛酷さと社交における顔の重要性を意識させずにはおかない。
 ここで『シャドーハウス』に話を戻すと、本作は社交の苛酷さと社交における顔の重要性を反対側から、つまり実体を奪われる人間の側ではなく、実体を奪う化け物の側から描き出すことで、西欧における影の物語を逆向きに換骨奪胎したものと評価することができる。だからこそ、本作のユニークさを掘り下げるため、社交における顔の意義について若干の追加的な検討を経る必要がある。以下で主に検討するのは固定的な顔貌ではなく、顔に浮かぶ表情(expression)であるが、これは感情(sentiment/feelings/emotion)内面性(interiority)に関わる問題系であり、迂遠ながら、まずは情念(passion)と感情の区別から述べなければならない。
 言説分析を専門とする社会学者の遠藤知巳『情念・感情・顔:「コミュニケーション」のメタヒストリー』(以文社、2016年)のなかで、16世紀に生起した「情念の体制」が変質を経て17世紀末に終焉を迎え、18世紀には「感情の体制」へと移り変わっていく様子を、ジグザグに寄り道(digression)を重ねながら記述している。遠藤は本書の序文で、自身の問題関心を次のように述べている。

内的運動は目に見えず、外部に表出されることで見えるものとなるから……内的運動を表示する、何らかの外的な表徴(しるし)の探索および、それらの読解可能性の追求が、必然的かつ重要な課題となる。
(遠藤知巳『情念・感情・顔』、12頁)

内面性(インテリオリティ)は、主体に内属し、そこから創発していく独個的な圏域であるというよりも、見えないものを見えるようにする記号の性能のもとで構成される、あるいは少なくとも、その性能に強く浸潤されている。(同書12頁)

 内的運動(inner motion)を表示する外的表徴としての記号とは、言うまでもなく顔である(身振りについては本稿では取り扱わない)。顔がなければ内面性を可視化することができないし、また顔の性能によって内面性がどれだけ深く豊かなものになるかも決まってくる。その意味で、『シャドーハウス』における「お披露目」――シャドーと生き人形の適性を見極めるイニシエーション――とは内面性の獲得プロセスであると言えそうだ。「お披露目」に合格できるか否かは「顔」すなわち生き人形の性能に依存している。シャーリーは彼女の「顔」となるラムと十分なふれあいを持てなかったがゆえに、「人格の未習得」という根本的欠陥を抱えることになり、「お披露目」に落第して原型を保てなくなった(TVアニメ第10話、原作第4巻第45話)。ただし、この解釈は内面性というものを前提としている点で、結論先取ではある。なぜなら、「感情の言説が帰属し、かつ審級することで構成する内部性が未だ十分に構成されるにいたっていないが、にもかかわらず内界に生起する出来事を何らかのかたちで指し示す」ことが課題となった時期もあったからである(遠藤『情念・感情・顔』、29頁)。それこそが遠藤の言う「情念の体制」であった。遠藤は情念について次のように整理する。

情念の観察は、共同体=市民社会(civitas)の構築可能性に対する理論的考察という、初期近代の大きなテーマとも結びつく。……情念は、複数の人間主体のあいだで成立する不可思議な誘引と反発の作用力として――個的身体に帰属しながら、同時に身体と身体の中間地点に顕現する何かとして――見いだされる。つまり、身体と精神のあいだであれ、複数の人間主体/身体間であれ、情念=受動の特徴は、それが中間的形象であること、何かと何かのあいだに立つ、一種の架橋地点であることだ。(同書17頁)

身体と精神という、それ自体が自存的で歴史貫通的な二つの実体がまずあって、いわば両者の相互外在的な関係が、身体と精神の「あいだに」情念という現象を成立させていると考えてはならない。(同書18頁)

 中間的形象としての情念は明確に概念化できるものでもなければ、二つの実体間の関数として描けるものでもない。遠藤はさらに、「情念=受動とは、主体の内部に封じられている(contained)感情の、抑制を外れた溢出ではない」とも注意を促している(同書29頁)。かかる曖昧な「情念の体制」のもとでは、社交も一歩間違えば決闘(duel)に発展する場合があり、文字通り命懸けとなる危険を孕んでいた。そのため紆余曲折を経ながらも、17世紀後半にいたって、相手を不用意に刺激しない礼儀作法を身につけることが宮廷社会における処世術として定着するようになった。

この時期の人びとの考える滑らかな礼儀正しさとは、大小の波風が止むことのない人間関係のミクロ・ポリティクスを読み続け、角を立てずに渡り歩くための必要条件であり、裏返せば、本心をつかませない狡猾さのことでもあった。(同書82頁)

この時期の絶対王政の宮廷社会において、貴族の誰かに対して王が意図的に屈辱的な決定を行ったあと、夜会の席で当の貴族に何食わぬ顔をしていつもの「礼節」ある態度で接し、丁寧な言葉を返す裏腹に彼/女の顔に浮かぶさまざまの情念の観察を大いに楽しんだという事例が、いくつも報告されている。(同書85頁)

 言い方を変えれば、17世紀の宮廷社会では「廷臣はもはや君主に対して対等な友人として振る舞う助言者などではなく、むしろ君主の意を汲んで喜ばせる『カメレオン』となる」というわけだ(同書82頁)。『シャドーハウス』の階層秩序はこのような宮廷社会に類似しており、そこで生きるシャドーと生き人形は「カメレオン」であらざるをえない。とりわけ、ケイトを反乱分子と目して執拗に付け回し、「おじい様と共にある棟」三階の住人を追い落とすことを目論むエドワードは「カメレオン」の典型である。TVアニメ第11話から第13話にかけてオリジナル展開で描かれる「エミリコ救出作戦」では、ケイトの悪事を吐かせようとエミリコを誘拐・尋問するエドワードと、エミリコを奪還しようとするケイトたちの対決が見どころとなっている。後述するように、そこではケイトのエミリコを「個」として見る思想がブレイクスルーを起こすことになる。
 しかし、既に予告したように、「情念の体制」も17世紀末に終焉を迎えることになる。その要因はもとより一つではなく、図式的理解をすることにためらいがないわけではないが、中産階級の存在感が増すなかで貴族中心の宮廷社会が解体を迫られたことは確かだろう。それに寄り添いながら、自己(self)という再帰的な観念が少しずつ形作られ、18世紀に入ると内面性を前提とした「感情の体制」が隆盛を極めることになる。そして、感情が重視されるようになると、その外的表徴たる「表情」への関心が高まってくる。

18世紀においては「表情」(expression)への関心が圧倒的に優先するということだ。顔は感情学(pathognomy)的に扱われ、固定的な顔貌に対する言及も、基本的にはそれに従属している。(同書584頁)

 実は『シャドーハウス』においても、感情と表情は紐付いて理解されている。物語の序盤で既に、エミリコが「私はケイト様の鏡です/ほらケイト様がわらっています」と破顔一笑したのに対して、ケイトが「あなたの感情でケイトを操作しないで」とそっぽを向く場面が見られる(TVアニメ第1話、原作第1巻第6話)。ここではにっこり笑う表情がエミリコの感情の発露と受け取られている。また、ケイトが「お披露目」前に先輩シャドーのサラに絡まれてしまい、エミリコがうまく表情が作れなかったことで「あら? ケイトったら青ざめちゃってどうしたの?」と嫌味を言われる場面もある(TVアニメ第2話、原作第1巻第11話)。そのすぐあとには、サラはエミリコに対して「ねぇ失敗作さん/サラ今どんな顔してる?」と問いかけ、エミリコは生き人形・ミアの表情を見て「怒っています」と答えている。本作の登場人物は当たり前のように表情から感情を読み取っているが、これは「情念の体制」のもとでは生じえないことであった。
 生き人形に求められるのはシャドーの感情を外観として示すことだが、重要なのは「それらしく見える」ことである。生き人形が不安そうな表情を浮かべれば、シャドーの実際の内面とは無関係に、あたかもシャドーが不安な感情を抱いているように推定されてしまう。生き人形はシャドーの感情を的確に把握できるよう訓練されるが、ときにはシャドーの感情を押し隠す仮面にならなければならない。このように、表情という外面を操作することによって、感情という内面を偽ることすらできるという考え方は「感情の体制」に依拠した思考なのである。
 「情念の体制」と「感情の体制」の相克について、遠藤はそれぞれの体制を要請した人間関係の質的な変化に着目して、次のように整理している。

宮廷社会を大きな基盤とした17世紀の人間学的観相学においては、読解者は偽りの顔と真意とを見分けなくてはならず、なおかつ、(こちらがそれを見分けられていることも含めて)相手に自己の真意を読み取らせてはならない。錯綜した利害関係や政治関係のなかで生きる貴族たちは、複雑な悪意をもつことを強いられている。同時に、狭い圏域のなかで密接に交渉しあうことで、悪意はたやすく露見し、読解に晒される。18世紀以降、観察され、人格(キャラクター)を付与されるべき人間の範囲が中流層へと拡大していったとき、この拡大は、人間観察の利害関心的性格という意味論を空洞化させる。見知らぬ人との遭遇可能性の増大が含意する危険は、そこまで複雑な悪意をもった人間は少ないだろうという期待によって補償される。誰かの顔を見て、それを読みとろうとすることは、自身の顔が見られ、読まれてあることとなだらかに連なっており、読みとりの行為もまた相互に見られている。偽装/気取り(アフェクテーション)の不安は消えないが、読みとりの成功や失敗が、こうした社交的連鎖のなかで検証され、フィードバックされていくことを信頼できる。(遠藤『情念・感情・顔』、590頁)

 『シャドーハウス』の階層秩序は「情念の体制」が猛威を振るう宮廷社会の模倣であり、そこで生きるシャドーは「複雑な悪意」を持つことを強いられる。しかし、無視できないのは、生き人形を使ったコミュニケーションが「表情」への強い関心を示す「感情の体制」に裏打ちされているということだ。つまり、本作は舞台こそ「情念の体制」寄りの宮廷社会を模しているが、そこに流れる思考は「感情の体制」の側へと大きく張り出している。そうであるがゆえに、綱渡りを強いられるような「人間関係の利害関心的性格」は絶えず空洞化され、シャドーは貴族の「まねごと」の域を出られない。「人格」を得るという言い方からも明らかなように、シャドー自身も内面性を前提としている点で「感情の体制」に浸潤されている。かかる状態においては、社交は一触即発のるつぼを脱して、「感情交流」の場へと転ずることになる。

 顔は原子論的個人たちの隠れた野心を覆う仮面でも、彼らがお互いに距離を保ちつつ密かに読み合う謎でもない。つねに社交とともにあり、社交を駆動する表情は、諸特徴=人格(キャラクター)の一部であると同時に、それ自体が全身的で多型的な統一性として、諸特徴=人格そのものでもある。同時に、表情は感情交流のなかで、次々と姿を変えながら人びとのあいだを伝染する。(遠藤『情念・感情・顔』、592頁)

 ここで抜群の破壊力を持ってくるのが、ケイトのエミリコを「個」として見る思想である。「“生き人形”の名前はね/確かにシャドーの名前に近いものを普通はつけるわ/なぜならシャドーにとって『生き人形の名前は重要ではない』から/でもわたしはケイトとは違う『個』であって欲しいから/あなたをエミリコと名付けたのよ」――ケイトはこのように述懐する(TVアニメ第10話)。この思想はTVアニメ版の配役によっていっそう明確になっている。なぜなら、ケイトとエミリコのペアにだけ、鬼頭明里と篠原侑という別々の声優があてられているのだから(ほかのシャドーと生き人形は一人二役で演じられている)。天真爛漫なエミリコの言動、行動、そして表情が周囲に伝染していく様子は、本作のいたるところに見いだされる。本作のクライマックスにおいて、エドワードの策略を頓挫させたのはケイトたちの「個」としての感情の総合力であったと言えるが、その震源は疑いなくエミリコという特異点である。シャドーにとっても生き人形にとっても「牢獄」であるシャドーハウス――そこで演じられ続ける「まねごと」の宮廷社会を脱臼させられるとすれば、感情の奔流をおいてほかにない。
 「顔がない」シャドーは誰よりも顔を欲した。しかし、顔に固執すればするほど、顔に浮かぶさまざまな表情(およびその裏に控える感情)に翻弄されざるをえなくなる。その結果、皮肉にもシャドーハウスの階層秩序は時代錯誤(anachronism)に陥ってしまうのだ。本作は煩わしい社交から逃れられない人間に対して、社交の苛酷さを戯画化してみせる。不気味さと清涼感が同居する「怪作」がいかなる結末を迎えるのか、今後も目が離せない。

おわりに

 本稿の冒頭で名前を挙げた漫画家の咲竹ちひろは、2018年5月26日のブログ記事において、次のように述べている。

人の顔って苦手だな
ほんとうに人の顔が一番苦手だな
目と鼻だけでもなくなればなあ
仕方ないんですけどね
でも目と鼻がない世界に生まれたら
目と鼻が欲しくなるもんなのかもしれませんね

 現代日本の漫画・アニメ文化において、「顔がない」という属性は一種のフェティッシュともなっている。さしあたり、咲竹ちひろ『四天王-1』(MFC、2017年)てぃーろんたろん『顔がない女の子』(ビームコミックス、2019年)の二作品を挙げるにとどめるが、かかるフェティシズムは「顔を読み取る」こと、および自身の「顔を読み取られる」ことの拒絶と理解すべきなのだろうか。
 遠藤知巳は「見られることなく見たいという人びとの欲望によって、社交の円環は引き裂かれていく」と指摘している(遠藤『情念・感情・顔』、602頁)。そもそもの問題として、18世紀に隆盛を極めた「感情の体制」も、19世紀初頭には決定的に空洞化していた。遠藤は、1775年にラファーターの『人間知と人間愛を支援するための観相学断片』(Physiognomische Fragmente zur Beförderung der Menschenkenntniß und Menschenliebe)という書物が刊行されたことを、「感情の体制」にもとづく社交の論理が臨界点を迎える兆しとみなす。ラファーターは社交のなかで生起する表情ではなく、「顔の固定的形状」に着目する(同書593頁)。ここから骨相学を経由して優生学にいたるまでは僅かな距離であり、危険な香りが漂ってくるが、とまれ重要なのは、我々は見知らぬ相手と顔を合わせて、現在から未来への跳躍を行う際に、卜占的な人間判断から完全に解放されることはできないということである。だからこそ、表情を重視する「感情の体制」ですら観相学的思考を消去しきれなかった(同書584頁)。

顔に対する直観の否定しがたさが、本質的で、それゆえ静止した人格の概念を呼び出し、さらにこの呼び出しが、顔貌の指標性を要請していると表現するべきだろう。観相学的感情/感覚の固定化は、社交関係に入る/入らないから――少なくともさしあたりは――切り離されたかたちで、顔を観察することができるという方法論的前提が導入されたことと循環している。
(同書595頁)

 「見られることなく見たい」。かかる興味本位の感覚は現代の我々にとっても縁遠いものではなかろう。「顔がない」異性をまなざす・愛でるというフェティシズムは、社交からの逃避というよりは、社交自体が消去された大衆消費社会の必然的な病理とみなすべきなのかもしれない。その意味で、社交と顔(または表情)というやや古めかしい問題系を鮮やかに蘇らせた『シャドーハウス』の重要性は否定すべくもない。多くの方に鑑賞いただきたい傑作である。

参考文献(2022年1月12日追記)

遠藤知巳『情念・感情・顔:「コミュニケーション」のメタヒストリー』以文社、2016年。

『河合隼雄著作集 第2巻 ユング心理学の展開』岩波書店、1994年。

種村季弘『怪物の解剖学』河出文庫、1990年。

大畑末吉訳『完訳 アンデルセン童話集(三)』岩波文庫、1984年(「影法師」を収録)。

シャミッソー(池内紀訳)『影をなくした男』岩波文庫、1985年。

前川道介ほか訳『ドイツ・ロマン派全集 第13巻 ホフマンⅡ』国書刊行会、1989年(「大晦日の夜の冒険」を収録)。

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