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“BUNRAKU 1st SESSION”観劇リポート:文楽とアニメーションのコラボレーションの功罪について

 2024年3月23日(土)から29日(金)にかけて、有楽町よみうりホールにて国立劇場令和6年文楽入門公演“BUNRAKU 1st SESSION”が上演された。この公演は「文楽×アニメーション 日本が誇る文楽を世界へ!PROJECT」の一環として、クラウドファンディングで集めた支援金によってアニメーションを用いた背景美術映像を制作することを目玉としたものである。私も支援者の一人として、2024年3月27日(水)に舞台を見てきたので、簡単ながら観劇記録をつけておくことにする。

 今回の企画公演の演目は、近松門左衛門の浄瑠璃を原作とした『曾根崎心中』のクライマックスにあたる「天神森の段」である。『曾根崎心中』は近松原作もののなかでは比較的話が入り組んでおらず、大坂の身分制社会のなかで行き場を失い、来世で結ばれることを願って心中へ向かう男女の悲劇として非常に純度が高い。私がこの演目を最初に見たのは、2019年8月25日(日)、内子座文楽第23回公演午後の部でのことだった。新型コロナウイルスなど影も形もなかったあのとき、私は愛媛県内子町の重要文化財・内子座の薄暗い館内で、天満屋の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛の憐れな結末に涙を堪えきれなかった。私は単純なメロドラマに涙を誘われたのではない。『曾根崎心中』は徹頭徹尾カネの話である。お初と惹かれ合う徳兵衛は、自分の勤務先である醤油屋の主人から持ちかけられた縁談を断ったことで主人の不興を買い、在所の継母が先んじて受け取っていた持参金の返還と大坂からの追放を言い渡される。ところが、徳兵衛はなぜか持参金を友人の九平次に貸してしまっており、すぐに持参金を主人に返すことができない。徳兵衛は証文を盾に九平次に返済を迫るが、なんと九平次は証文に押された印判は自分が紛失したものであり、自分で押したものではない、よってこの証文は徳兵衛が印判を拾って偽造したものだという主張をする。徳兵衛は友人だと思っていた人物に裏切られて持参金を失い、挙句の果てに九平次の仲間たちによって公衆の面前で侮辱され打ち据えられてしまう。主人への返金の当てもなく、おまけに体面まで傷つけられた徳兵衛は八方塞がりとなり、お初との心中を余儀なくされる。

 本来、『曾根崎心中』という演目は、前述したような徳兵衛の一本気や如才に起因する不利益と公共空間における信頼の破綻(あるいは友情の不成立)を前提として、お初徳兵衛の最期を見せる。究極的には、お初徳兵衛は愛のために死ぬのではない。身分制社会、とりわけ体面や分限を重視する見栄っ張りな社会に押し潰されて死ぬのである。だからこそ『曾根崎心中』は悲劇として成立しており、私を含む人々の涙を誘う。しかし、この演目の重要な下準備である「生玉社前の段」および「天満屋の段」を飛ばして、二人が心中を遂げる「天神森の段」だけを上演してしまうと、この演目の悲劇的な本質が損なわれ、平板な悲恋の物語に堕するおそれがある。とはいえ、それをあえて「様式美」と呼び、宣伝する余地は残されている。今回の見取り公演はアニメーションを用いた背景美術映像を取り入れることによって、そのことを強く印象づけた。

 今回の企画公演においては、アニメ背景美術家の男鹿和雄が題字および背景美術の原画を担当し、その原画は舞台映像作家の山田晋平と背景美術スタジオ「でほぎゃらりー」の協力を得て、鬱蒼とした、しかし美麗な森の背景美術映像に結実した。大道具の代わりにアニメーションの背景美術を用いることについて、独立行政法人日本芸術文化振興会はクラウドファンディングの概要ページのなかで二つの理由を挙げている。一つ目は、アニメーションとのコラボレーションによって「文楽ファンの固定化」を打破し、「これまで文楽に馴染のなかった観客」、特に「若い世代の方々」に興味を持ってもらうため、二つ目は、アニメーションの導入によって大道具の制作・設営・運搬を簡素化し、「日本各地や海外での大規模な公演」を可能とするためである。前者については、たしかに日本芸術文化振興会が言うように、「文楽の表現に新しい風を吹き込」むことにはなったと考えるが、これが「文楽ファンの固定化」を打破するきっかけになりうると見るのはあまりに楽観的だろう。文楽は過去にも初音ミク・刀剣乱舞・戦国BASARAといったコンテンツと節操なくコラボレーションを重ねてきたが、「文楽ファンの固定化」という根本的な課題の解決にはいたっていない。それどころか、2023年には文楽研修の新入生が制度開始以来初めてゼロとなり、国立劇場再整備等事業は入札不調のため暗礁に乗り上げ、定期公演を東京・半蔵門の国立劇場で再開する目途が立たない状況が続くなど、技芸員の養成や芸の伝承すら危殆に瀕している。正直なところ、私は今回の企画公演のクラウドファンディングが告知されたとき、背景美術映像の制作費1,200万円の一部を賄うための第一目標金額(500万円)すら達成が難しいのではないかと危ぶんでいた。何となれば、文楽ファンにとっても、アニメファンにとっても、殊に若い世代にとっては、今般の渋いコラボレーションが魅力的に映るようには思えなかったからだ。最終的にこのプロジェクトの支援総額は903万円にのぼったものの、ネクストゴールの1,200万円を達成することはできなかった。第一目標金額の達成まで1か月を要した出足の遅さを含めて、これが現在の文楽の「興行」としての実力であることは認めざるをえないだろう。

 しかし、後者のねらいについては、急激な円安が進むなかでの外貨獲得という観点から評価しうるかもしれない(2023年初に約130円だった米ドル/円相場は2024年3月末現在150円台で推移している)。『曾根崎心中』から心中までの経過、いわば「封建的」な色彩を取り除き、六道に向かって一歩ずつ前進していく男女の逡巡と覚悟をピンポイントに見せるのは、サムライ・ニンジャ・ゲイシャ・ハラキリといった要素を出せば反射的に喜ぶ外国の観客を相手にすることを視野に入れるのなら、悪くない選択かもしれない。かかるセルフオリエンタリズムをあえて「様式美」と呼ぶならば、スクリーンやディスプレイという平面に映写・表示された背景美術映像は「様式美」をいっそうドラマチックに盛り上げることに寄与している。通常、文楽の公演においては舞台の照明は場面の時間帯や照度に合わせて調節される。劇場内は昼間や明かりのついた室内のシーンでは明るくなり、夜のシーンでは薄暗くなる。ところが、今回の企画公演はクリアな背景美術映像とスポットライトを思わせるライティングによって、「天神森の段」をお初徳兵衛の精神世界に変貌させてしまった。微妙な濃淡によって細部まで塗り分けられた森、月の光を吸収したかのように輝く白い花、二人が幻視する人魂を表現した青白い光芒、これら全てが相俟って二人だけの世界を彩る幻想的な空間を作り上げている。ここでは作り込まれた背景がお初徳兵衛の人形に奉仕しているのであって、語り物には致命的な視覚偏重の効果が最大限に強められている。太夫・三味線弾き・人形遣いの三業が牽制し合う緊張感とバランスは失われ、「現世では諸事情により結ばれなかった男女が二人揃って命を絶つ」程度の平板な、しかし見方によっては普遍的な悲恋の物語が前景化する。だが、東京・豊洲のチームラボプラネッツTOKYO DMMがインバウンド観光客から人気を博している現状を思えば、今回の企画公演のような割り切りも必要なのかもしれない。私は今回の過剰演出に触れて、「天神森の段」の終盤で「早う殺して殺して」と覚悟を決めたお初の人形があまりに神々しく見えてしまい、大坂町人の悲哀を見せる世話物が聖女伝に変わってしまったと呆れるとともに、従前との趣向の違いには唸らされた。

 この方向性を突き詰めていけば、大道具の制作・設営・運搬費用を削減し、「様式美」を振り撒いて海外に打って出ることも叶うかもしれない。しかしながら、このようなマーケティング思考、あるいは「稼げる文化事業」信仰は、セルフオリエンタリズムの自縄自縛と密接不可分であることを忘れてはならない。特段日本文化に関心のない観客を含めて楽しませるだけなら、清姫・安珍伝説に取材した鬼女の大道芸的演目『日高川入相花王ざくら』や、文楽には珍しくハッピーエンドを迎える夫婦の愛と信心の物語『壺坂観音霊験記』で足りるのではないか。そう考えたとき、私は文化事業への公共支出を渋る国家こそが諸悪の根源であり、それを支持ないし黙認する国民もまた共犯者であるとの思いを強くする。『曾根崎心中』の見取り公演という選択が「様式美」を追求する新たな挑戦と言えるのかは予断を許さない。

 最後に、単純に残念に感じた点に触れて、筆を擱くことにする。通常の公演について、「天神森の段」の人魂は本物の炎によって表現されるが、今回の企画公演では画面上の安っぽい青白い光の明滅で表現されていた。これは美麗な背景美術映像のなかで唯一没入感を削ぐ要素であり、本物の炎が持つ迫力や危うさと比較したときに明らかに見劣りする出来であった。火気厳禁の会場でも「天神森の段」を上演できる可能性を開く演出であるだけに、もう少しどうにかならないのかと欲が出てしまう。コラボレーションの痛々しさを心に刻み込まれた一幕であった。

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