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やがて減りゆく空気なら

私ごとではありますが(と言いつつここに書く全ては基本的にいつも私ごと)、先々週の土曜日に次男が生まれたので、いつもこれを書いていた東京のコンピューターから遠ざかり1週間ほど滋賀県の自分や妻の実家で過ごしていました。

久しぶりに東京に戻り仕事机のデスクトップを起動させると、瞬間的に「考え事に適しているのはやはり東京だ」と思います。少なくない日本の著名な作家たちがあえて東京に住んでいないという事実がありますが、あのメリットを僕自身が理解するにはまだ少し時間がかかるのかもしれません(僕の好きな映画に「舞台よりすてきな生活」という作品がありますが、劇作家の主人公が作中のインタビューのシーンで「どうしてカリフォルニアには作家が少ないんでしょう」と聞かれ、「過ごしやすい気候が執筆に向かないから」と答え、「じゃあ、あなたはどうしてカリフォルニアに住んでいるんですか」と聞かれると「過ごしやすい気候だから」と答えるシーンがあるが)。



滋賀にいる間、これまでしばらく僕と離れて暮らしていた長男は母親が次男と入院していたため僕と一緒に実家に暮らすことになり、庭でボール遊びや、ちょっとした山登りやら、雪が積もればソリやらをして過ごしていました。

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ここの写真にはありませんが、高校時代に僕が学校からもらって帰ってきたバスケットボールを納屋の中から出してきて息子と遊ぼうとしたら、空気が少し少ないことに気がつきました。でも同時にその時気がついたのは、そのボールの中に入っている空気は紛れもなく僕が高校生だった頃、京都の空中にあった空気なんですね。変な言い方ですが、ボールそのものも高校時代、体育で使われていたものですが、ボールの中の空気は2000年代初頭の、それを入れた時の「空気(air)」です。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。。。」と方丈記の冒頭の話を今年書いた記憶がありますが、あらゆるものが移り変わり、過ぎ去る中で、遮断されたというか、密閉された空気というのは「過ぎ去っていない」奇妙な空間だと僕は思いました。そしてそれは非常に不思議な感覚でもあります。なぜなら今まさにここで目の前の自分の息子と遊ぼうとしているボールというものの外側のカタチをボール(球状)たらしめている内側の空気は、この息子が存在すらしていない時代の、形のないものだからです。ちなみに妻とは幼馴染ですから、その当時もお互い違う学校に通いながら、誕生日にだけはお祝いの電話をしていたので、このボールの中の空気はある意味で間接的には息子と関わりを持っています。そんなことをこちら側は考えるのですが、息子自身はそこまでまだ考えませんから、ただひたすら自分の目の前にあるそのボールを無邪気に追いかけています。

僕自身はやや懐古主義的なところがあって、今ではレトロと言われるピンク色の電話機が置いてある純喫茶や、タイプライターや旧車、ランプ、昔の切手、石油ストーブ、万年筆、、そういったものが好きです。多分十分に古いと、それはもうそれ以上変わらないのでどこか安心するんだと思います。でも同時に目の前にはこれからどんどん変わっていき、未来に向けて進んでいく時間の中に家族がいたり、息子たちがいたりします:

ふと、自分の好みだと思ってきた昔のものたちが、いつか一つずつ必要なくなってきてしまうんじゃないかという思いに駆られました。ちょうどあのボールの中の空気が、納屋にしまわれていた間に少しずつ内側で減っていったように、少しずつ過去のものの必要性が減ったり消えたりして、現在の自分の人生の中の素晴らしいものと置き換わっていくのではないだろうかと、そんなことを思います。

( 文・写真 / 西澤伊織 )



↓冒頭で触れた映画はこちら↓


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