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ハートのAに出会うまで:アセクシャルを自認するまでの経緯

今までの記事でも書いているように、現在、私はロマンティック・アセクシャル(ノンセクシャル)を自認している。今日は、私がそのハートのAに出会うまでにたどった経緯を書いていけたらと思う。

初めに断わっておくと、それぞれの出来事が矛盾しているところがあるかもしれない。けれど、なるべく当時感じていたことをそのままに書いた結果なので、容赦してほしい。


小学生から中学生

思えば、私は小さい時から変わっていたのだと思う。

皆がりぼんで恋愛漫画を読む中、私は昼休みに図書室に走って、伝記や星座の本を読むような子だった。図書室の本の中でも、私のお気に入りは翻訳された海外の本だった。私にとっては、りぼんよりも図書室に並ぶ本の方がキラキラして見えたから。それが今の専門に生きているから、良かったのかもしれないけれど。

習い事先に置いてあったりぼんを手に取ったこともあったけれど、りぼんのような絵にかいたような恋愛話は、どこかむず痒かった。皆が面白がる話も、私は全く興味を抱けなかった。側から見れば、全く可愛くない子供だっただろう。当時の友達が、そんな私でも揶揄ってこなかったのは救いだった。

高学年にもなれば、友達は誰が好きとか、場合によっては付き合い始める子もいた。皆が恋愛に興味を抱く過程で、私も好きな人いるのと聞かれることが増えた。それに対して、私は誰かしらあげていたと思う。と言うのも、恋をする友人たちに囲まれて、好きな人がいるのが「普通」だと思っていたから。

当時の私にとって、恋愛はテストの選択問題と同じだった。a-dまである選択肢の中で、誰がいいのか選ぶ。時によっては、周りから「この子が好きなんじゃないの?」と聞かれた子を答えていた。周りから見てそうならそうなのかなくらいの考えだった。そのせいで、小中の同級生からすると、私は「恋多き乙女」に映っていたらしい。

同級生がそう思っているのも想像に難くない。なんとなく選んだ相手であったから、その気持ちは長く続かなかったし、当時は自分でもそのことに悩んでいた。今思えば、あれは恋じゃなかったのかもしれない。ただ、思い返して結論を出すことはしたくない。当時の気持ちは、当時の私にしか分からないものだから。


そんな調子で過ごし続けていた中学3年生の時、友達伝いに付き合ってほしいと言ってきた子がいた。悪い印象はなかったし、そろそろ付き合うということがどのような感じなのか知りたかった私は、二つ返事でオッケーをした。けれど、それが間違いだった。

恋人は友達じゃない

恋人になってから頻繁にくるメール、私を見る彼の甘ったるい目、それとなく性的に私を求めるとわかる言動。数日で辛くなった。自分と彼が抱いている気持ちは種類が違う。―そうか、恋人は友達じゃいけないのか…。―

彼には、自分から別れを告げた。結論から言えば、現在私はアロマンティックではなく、恋愛感情があるため、彼がだめだったのか、性嫌悪なのかわからないけれど、あの時の彼には悪いことをしたと思う。ただ、この経験は後にできるアロマンティックの傾向のあるパートナーと関わる上で、重要な示唆を与えてくれたものだったのかもしれない。


高校生

そんな中、私にとってターニングポイントとなる出来事が起こる。

16歳の時、はじめて女性を好きになった。今まで他人に感じたことのない大きな感情を抱いて戸惑いを覚えた。その時の戸惑いや気持ちは、今でも鮮明に覚えている。

同性を好きになるなんておかしい。自分はおかしくなってしまったのかもしれない。皆から嫌われてしまったらどうしよう。とにかく不安だった。

人はひどく心配になると、検索魔になるらしい。毎日暇さえあれば、同性への恋心と友情の違いを調べた。当時見たどのサイトにも書いてあったのは、「性的な行為をしたいと思うか否か」だった。そうなると、さらに自分が分からなくなった。自分は、相手に性的な気持ちを持っていなかったからだ。当時の走り書きのメモを見ても、「自分はそういうことはしたくないのに…」とある。

サイトだけでなく、同性愛を扱った歌や小説を手にとっても、同性に性的な気持ちを持ったことが描かれていたり、それに対して罪悪感を抱いている描写が多く、なかなか共感できなかった。自分が相手に抱いている感情は友達や知り合いへ向けているものとは確実に違うのに、恋に性的な気持ちが必須なら、自分のこの感情は何なのだろう。同性愛に寛容なコンテンツからさえも拒絶され、世界で一人ぼっちの気分だった。

アセクシャルの言葉に出会えなかった私は、当事者がよく言われる言葉で自分の困惑を片付けた。「まだ、若いから。きっとそのうち、興味を持つようになるよ。」と。自分にそう言い聞かせて、バイセクシャルと自認するようになった。ただ、どこかしっくりこないまま、私は高校を卒業し、片思いをしていた相手とはそのまま会わなくなった。


大学生

その後、女子高から共学の大学に進学した私は、ひそかに期待を抱いていた。「異性もいる環境に戻れば、男の子も好きになれるのではないか。」と。無知な私でも、機械的同性愛のことは知っていたから。けれど、そんな淡い期待はすぐに裏切られた。

大学に入ってから、同じ学科の同級生に恋をした。笑顔が素敵で、聡明な人だった。ちなみに、相手は下の記事でも少し触れている現在のパートナーで、後に色々あって付き合うことになる。けれど、当時の私は、そうなることなど知る由もない。

仲良くなりたくて、同じ授業を履修していれば隣に座ったり、積極的に話しかけた。キャンパス内でその子を見かければ、目で追っていたし、胸がどきどきした。自分は相手に、友達以上の感情を抱いている。そう自覚した。「結局、また異性でなく、同性に恋をしてしまった。」新しい恋に胸が躍るものの、それと同時に沈む自分がいた。まあ、正確に言えば、相手はシスジェンダーではなさそうだから、この恋は同性愛ではないのだけれど。

自分が相手に友達以上の感情を抱いている一方で、どれだけ待っても性的な気持ちは湧いて来なかった。相手とそういう行為をすることを想像してみても、吐き気しかしなかった。「やはり、これは恋ではないのか…。」「恋をしているなら、他人に性的な感情が向かないのはおかしいのでは?」ハートのAに出会ったのは、そう結論付けようとした時だった。確か、2019年の夏ごろであったと思う。ある日、ふとネットをふらふらしていたら、アセクシャルという言葉に出会った。「他人に性的な気持ちが向かない人」まさに、自分のことだと思った。

すぐにネットで「アセクシャル」の言葉を入れて検索してみたら、自分と同じような人がたくさんいた。自分は一人ではない、似たような人もいるのだと。自分がこの世界で一人ぼっちではないという事実は、幾分か沈んだ心を慰めてくれた。

大学生になると、周りが一斉に体の関係を持つようになった。そんな周りに囲まれて、時折自分だけ子供のままで、取り残されたような気持ちになることがある。隣を歩いていたはずの友達が遠くに行ってしまった感覚はいつまでも拭えない。けれど、そんな気持ちを抱きつつも、自分と同じようにアセクシャルの人たちがいるという事実が心の支えになっている。こんな自分であっても生きていていいのだと。



最後に

アセクシャルを自認しているけれど、100%自信があるかと聞かれたら、答えは、ノーだ。無を証明するのは難しいし、自分の中に未だに言語化できていない気持ちが存在しているから。アセクシャルと自認するには、矛盾するような気持ちを一時的に持っていたような気はするし、今後死ぬまで絶対に性的な気持ちを抱かないかなんて、今の私にはわからない。実際、こう悩む人は多いと思う。

ただ、この問いに答えるのなら、不確定な未来の可能性まで考慮するなんて無理だと思う。もし、今後の可能性まで考慮して自認しないといけないのなら、異性愛者だって自信をもって名乗れないはずだ。セクシャリティは、人生の最後の可能性まで含めた自分を説明するものでなく、今の、今までの自分を説明するものなのだと思う。だから、今の自分にとってアセクシャルがしっくりくるのなら、そのラベルを掲げればいいし、しっくりこなくなったなら、違うラベルに張り替えればいいだけだ。これは、下の動画でモノクロセクマイCHのクロさんも言ってる。


どれくらいの人が読んでくれるのかわからないけれど、この記事が誰かが一歩を踏み出すきっかけになったら嬉しいと思う。私の体験が誰かの支えになると願って。








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