LGBTQイベント「BeYourself」感想

11月24日(木)
LGBTQがテーマの短編映画と、それに関するトークのイベントを観覧してきました。
後述しますが、自分はLGBTQのどれでもありません。
ではなぜ足を運んだかというと、たまたまです。
Twitterで偶然見かけて、なんとなく行ってみました。
性の自認についてモヤッとしている部分はあったけど
それについて特別思い悩んだことはありませんでした。
そんな自分が行ってもいいものだろうか、と不安に思いましたが
今までそこに苦しんだことがない人こそ足を運ぶべき場所でした。

上映された短編映画は2本。
トランスジェンダー女性の苦悩を描く『片袖の魚』
同性愛の芽生えとその葛藤を描く『手のひらのパズル』
それぞれの感想文を書いたら各3000字前後になった。
ほんと悪い癖。
お時間あります方はよければ読んでみてください。

この二つの話、人によっては
「あーLGBTQだよね」とごっちゃにされそうだけど
全くの別物。
『片袖の魚』は、(体は男性でも)女性として男性が好きという話。
『手のひらのパズル』は、女性として女性が好きという話。
全然違う。その違いを明確にしてくれる2作品だった。

と、ここで強く関心を抱いた事柄がある。
心の性別って、どうやって計るんだ?

『片袖の魚』の主人公ひかりは、
男性の体でこの世に生まれた時から、
心はずっと女性だったらしい。
それってどうやってわかったんだだろう。
まず思い浮かんだのは恋愛対象なんだけど、
『手のひらのパズル』のように、女性に恋する女性もいる。
当然、男性に恋する男性もいる。
男性に恋するから女性だ、とは言えない。
逆もしかり。
じゃあ、どうやって自分の性別って判断するんだろ?
なんとなく、感覚的なもの?
今これを書いている僕の心の性別は何なんだろう、と思うと
わからない。

肉体が男性であることは否定しようがない。
しかし、心が男性かと言われると、
それを断言する論理が見当たらない。
恋愛対象は女性である。今のところ。
甘いものが好き。
かわいい服が好き、レディースばかり買う。
ぬいぐるみが好き。
虫が苦手。

なんだこれ。
性別による趣味嗜好の傾向ってあるのか。
内面って性別の判断材料になるのか。
一体、何を以て自分は男性と言えるんだ。
どの定規にあてれば自分の性別がわかるんだ。

ここでふと気づく。
自分の心には性別がないのかも?

Xジェンダーというのがあるらしい。
なんか他にもいろいろあるらしい。
とりあえず、男女というはっきりした性自認がない人。
もしかしたら自分はそれなのかもしれない。

ということは、自分が心の性別がわからないのはそれだからであって
それでない人にはそれぞれ心の性別を自認する感覚があるのか。
ほお、あるのか!!
となんだか深く感心してしまった。
自分にはない感覚でも他人は持っていたりするものなんだ。
理解はできても体感できないものを飲み込むのは容易ではない。
同時に何故か不思議な関心がわいてしまう。

一方で、男性の身体に思い悩んでない時点で
議論の余地なく男の心ということなのかとも思う。
しかし自分には男であるという感覚も、
男でないという感覚もない。
男でなければ女かというと、それも違う。
Not男=女、Not女=男ってのは非常にナンセンスだと思う。
コインは表裏しかないように見えて
実は側面がある。
表裏に比べたら面積は狭いけど、確実に存在する。
そんな側面のどこかに自分はいるのかもしれない。

そんな僕も、性別の問題について
全く考えたことがないわけではない。
肉体の性や性自認の問題よりも、
社会的な性役割、ジェンダーロールについて。
これは生物学的な性の特徴ではなく、
社会的に「男はこうである」「女はこうである」
と誰かが役割を決めてシステム化したもの。
社会システムは自然発生することはなく
そこには必ず機能的な目的がある。
つまり、その役割があった方が都合がよいからあるわけで。
しかし、社会的な都合とは時代とともに移り変わる。
少し前の社会で必要だった役割も、時代が変われば不要になる。
なのにその役割に固執して前に進めない人の多いこと多いこと。
既に今の社会では性別で役割を振り分けることの多くが非効率的方法になっていることに気付かないといけない。

僕は「男ならこうしなさい」「男ってこうだよね」
という言葉には少なからず反発心を抱く。
それは性差別的であるということ以上に
自分が持つ要素は性別に起因するものではなく
僕が僕だからだと強く自負しているからだ。
男らしくでもなく、女らしくでもなく、
自分らしく生きる時代はすでに来ている。
まさに、Just be yourself。

少し話がそれ過ぎたのでイベントの話に戻る。
前述した通り、短編映画2本見た後の僕は、
計6000字の感想になる前の原料が頭の中をぐわんぐわんしていて。
企画者の黒川鮎美さんやゲストの井上ひとみさんのお話を聞きながら、
上記のようなことや映画の内容についてウーーーンと唸っていると
黒川さんに
「それでは、そこのウーーーンと唸っている方」と指されて、
映画の感想を聞かれた。
当然僕の脳内はぐわんぐわんしていたので、
何を喋ったか覚えていない程のパニックっぷりを晒してしまい、
今でもまだ恥ずかしくて頭が痛い。
こういう時はまず当たらないのが僕なのに…悔しい…。
と思い、せめてまともな感想をと筆を執っています。
結果、多分あの時のパニックとあまり変わらないほどの乱文で
今なお恥の上塗り。
ああ。

それでもやっぱり、今回のイベントに足を運んで正解だった。
自分は今後の人生で、自分の性について思い悩まないかもしれない。
悩むかもだけど、少なくとも今はその兆しはない。
ということは、それについて思い悩んでいる人の問題を考えるには
その話題に対して能動的に接触しなくてはならない。

そんな僕は、もしかしたら当事者の方々からすると、
野次馬のように見えて不快に思われるかもしれない。
僕には黒川さんのように社会を少しでも変えるために動けるバイタリティもない。
でも、この問題に少なくとも無関心ではない。
恥ずかしながら、このイベントで初めて「アライ」という言葉を知った。
意味を調べて驚いた。
性的マイノリティの方を支援する活動、およびその思想のこと。
この言葉が存在しなければいけない程、その姿勢は当たり前ではないんだ。
黒川さんは「LGBTQについて考える必要がないくらい、それが当たり前の在り方な世の中になってほしい」というようなことを仰っていたけど
「アライ」も全くそうだと思った。

セクシュアリティに限らずだけど、
悩んでいる人に配慮して寄り添う。
そんなこと、当たり前の世の中に早くなりますように。

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