短編映画『片袖の魚』感想

※作品のネタバレや筆者の個人的解釈を多分に含みます。
 ご理解いただけた方のみお読みください。

【作品概略】
トランスジェンダーとして生きる女性、新谷ひかりの
社会生活の日々の中で抱える数々の歪や苦しみや
学生時代の密かな恋心との向き合いを描く作品。

監督は東海林毅さん、主演はイシヅカユウさん。
実際のトランスジェンダーの方がトランスジェンダーの役を演じられる。
原案は文月悠光さんの同名の詩『片袖の魚』
ご本人がnoteに掲載されていたのでぜひご一読を。

【感想】
主人公のひかりが見る世界と、
水槽の中の魚を何度も重ねることで
作品全体に充満する息苦しさ。
水中を自由に泳ぐ魚のように社会で自由に生きる人達に比べて、
ひかりにとっては呼吸すらままならない社会。

作品冒頭、仕事先でお手洗いを借りる際に、
ひかりは「だれでもトイレがあります」と案内される。
ここは上演後のトークでも話題に上がった。
そこでは「相手方はどう言うべきか」という話になっていたけど
僕が気になったのは「ひかりはどう言われたかったのか」だった。
女性用トイレを案内されたかったのだろうか。
自社ならまだしも、仕事先の施設内。
しかも、不特定多数の客が利用する施設だ。
万が一でもトラブルになってはいけない。
当然ひかりもだれでもトイレを利用する気だったんじゃないか。
もちろん相手の困ったような空気にひかりは”何か”を感じたのだろうけど、
それも致し方ないことじゃないだろうか。
誰が悪い訳でもない。
だからこそ、どこにもぶつけることができない。
そんな歪がひかりの周囲を常に渦巻き、息苦しさになっていく。

物語中盤、ひかりの営業先で相手が突然
「新谷さんって、男性?」と聞いてくるシーン。
思ったことが三点。

①まず「いやそんなこといきなり言う奴おるか?」と思った。
自分の常識ではとても考えられない。
しかし、世の中には本当にいろんな人間がいる。
実際にこんな言葉をぶつけられる当事者がいるんだろう。
その被害の存在を少なからず疑ってしまうのは
痴漢被害に遭った女性に対して
「大袈裟に言ってるんじゃない?」
と訝しむのとまるで同じじゃないだろうか、と自省。

②となると、相手方はどういうつもりでそれを聞いたんだろう。
主人公は律儀に「体は男性ですが、心は女性で」と説明していた。
正直、ひかりは見た目ではっきりと男性だとはわからない。
ここで「女性です」と答えていいとすら思う。
そこを誤魔化せずに全て説明してしまうのは
きっとひかりは自身を女性だと言い切ることに
後ろめたさのようなものを抱えているんだろう。
というか、ひかりが心身ともに女性だった場合、
相手方はどうする気だったんだろうか。
女性に対して「男性?」と聞くなんてそんな失礼な話があるか。

③ここまで考えてふと浮かんだ疑問。
女性に対して「男性?」と聞くのは失礼なのか?
当然失礼だ。という自分もたしかにいるのだけど、
なんで?
女性にとって男性に間違われることは屈辱なのか?
逆はどうか。男性に対して「女性?」と聞くのは。
性別について他人が無遠慮に聞くこと自体そもそも失礼だ、
というのは理解できるんだけど。
聞かれることが嫌な人がいるんだから聞くべきでないことも
重々理解できるんだけど。
それが何故なのかが曖昧なままダメだからダメとするのは
理解の放棄な気がしてしまって、どうも据わりが悪い。
しかしこれ以上考えるとあまりに本題から逸れてしまうので
ここで思考を止める。

ひかりがサッカー部に所属していた学生時代、
ひかりがまだコウキだった頃に恋をしていた同級生の敬に
初めて女性として会いに行く物語終盤のシーン。
連絡をした段階では居酒屋で二人で会う話だったが、
いざ店に行ってみると、隆は当時のサッカー部員を集めていて
同窓会のような状態になっていた。
ここも本当に、どうしようもない。
誰一人、全く悪気がない。
ただ、卒業以来会っていなかった旧友と
みんなで集まりたかっただけだ。
彼らにとっては青春時代に部活でともに励んだ友人なのだから。
昔話に花を咲かせたい気持ちを否定する余地はない。
「姿が変わってもコウキはコウキだよな」と
まるで一部の曇りもない善きことのように。

しかしながら、このシーンの元部員たちの
デリカシーのなさといったら、気が遠くなるほどの苦痛だ。
まさに気が遠くなっている主人公の耳に刺さる断片的な言葉の刃。
「当時からそういう感じだったの?」
「この中だったらぶっちゃけ誰が好き?」
「俺知らなかったら正直イケるわ」

「俺らそういうの差別しないからさ」
どこがだ。
どこがだよ!!!
お前ら頭おかしいんかと声を上げたいが
本当に、これが現実なのだろう。
世界がこれを”差別も偏見もない社会”だと言い張るなら
一体どこで息を吸えばいいんだろう。

結局主人公は飲み会を早めに抜けて
敬にも決別の態度を示して帰路につく。
その顔はどこか晴れやかで清々しい。
(それにしても「コウキじゃなくてひかりだから」の表情はとても怖かった)

学生時代の恋を大事に想っているわりには、
過去を忌まわしいものとしている描写が多かったのは、
どういう心理バランスなんだろうと思っていたけど、
なるほど、主人公はようやく"失恋"できたんだ。
失恋とは、恋を失うこと。

密かに募らせていた恋心は破れた。
しかし、会ってよかった。
いつまでも会わなければ、
主人公にとって敬は”ずっと好きな人”のままだった。
それはつまり、自分の中のコウキが消えない状態。
恋を失うことでやっとコウキと決別して
ひかりになれたんじゃないだろうか。
何度立たせようとしても倒れてしまうクマノミの人形が
帰りの電車で初めて自立する。
街中を何も恐れずに誇らしげに歩くひかり。

トランスジェンダーの方にとっての「過去」とはどういうものなのか。
もちろん人それぞれなのだろうけど、一つの回答を得た気がした。

本筋から外れたところで気になった点。
ひかりの同僚について。
その綺麗な容姿と、綺麗な魚が重ね合わされる描写から、
多分ひかりは「私がこうだったら」と思っているのではないだろうか。
と思って見ていたんだけど、
どうやらその同僚は車いすに乗っているようだった。
それもほんの数秒しか映らなくて、作中では全く言及されなかった。
調べてみたら、どうやら実際に事故で半身に障害を抱えて
車いすで生活されている女優さんのようだった。
特に物語上触れることもない同僚がなぜ車いすなのか。
と思ったんだけど、逆にこうも思った。
車いすの同僚がいたらおかしいのか?
現実を考えたら何もおかしいことはない。
実際に車いすで生活している人はいるんだから。
作品の中に出てきたってなにもおかしくはない。
普通のことだ。と思いながらも、
やはり作品である以上、そこにメッセージ性を探ってしまう。
車いすで生活している人が登場することに
特別なメッセージ性を探ってしまうこと自体が
差別心に基づくものなのだろうか。
それでは、作品における表現って、何なんだろう。

前述したが、作中ではその車いすの同僚については全くフォーカスされない。
それは、ひかりの目にはそこがうつっていないからなのかもと思った。
つまり、ひかりにはその同僚も自由に泳げる魚に見えるのか。
人は自分の息苦しさに必死になるほど、
他者の息苦しさには気付けないのかもしれない。
そんな愚かとさえ思える姿を描いているのだとしたら
これは相当にエグイ作品だ。
ここについては本当に作品を見た人とぜひ語らってみたい。

あ、そういえばダンサーさんのダンスのシーンは
作品的にどう機能しているのかイマイチわからなかった。
調べてみたら、ダンサーさん二人の内の一人は
関西で活動していて今は解散した劇団「がっかりアバター」の
元団員さんだったようだ。世間は狭い。

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