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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第七章 犬彦の秘密(その1)

「君はだれ?」

「……みくる」

ツナキチを迎えにいく駕籠かごに潜りこんだ少年は、体育座りをした膝のあいだに頭を埋め、僕の問いかけにそう答えた。

「犬彦くんじゃないんだね?」

「声でわかんじゃん。女の子だよ」

狛音こまねがあきれたように言った。

たしかに、犬彦くんは小学6年生のころには声変わりしていたと、彼女に聞かされていた。

壁越しや廊下で耳にした甲高い声は女の子のもので、ツイッターの写真の犬彦くんとは別人だったようだ。
引きこもりの影響で別人のように見えたのでなく、写真の少年と廊下で会った少年は本当に別人だったのだ。女の子だったとは思いもしなかった。

「お前、ずっと乗ってたのか?」

お兄さんたちが集まってきて、僕らをかこんだ。1人がぶっきらぼうに声をかけると、みくるという子は腕から目だけをのぞかせ、保護されたばかりの捨て犬のようにふるえた。

のぼるくんが連れてきたのか?」

「ちがいます」

また僕のせい。さっきは、僕が力を抜いているから駕籠が重いのではないかと疑われた。

「名前は?」

お兄さんは屋根に手をかけ、駕籠のなかをのぞきこんで訊いた。

「みくるだよ」

狛音がかわりに答えた。「怖がってるから、男連中はあっち行ってて」

「じゃあ、任せたからね」

お兄さんたちは引きさがった。僕は残ったが、なぜか追い払われなかった。

「どうやって入ったの?」

「なんでここにいるの?」

「君は何者なの?」

僕が訊いても、みくるは小刻みにふるえるばかりで、なにも話してくれなかった。

狛音は彼女に寄り添って、黙って背中をなでてあげていた。みくるの目には、狛音が、跳び箱から僕を解放してくれたあの日の彼女のように映っているのかもしれない。
狛音のぬくもりに包まれながら、みくるは自分から心の衣のボタンに手をかけた。

「……きた」

「うん? なあに」

狛音がやさしく耳を傾けると、みくるはやっとおぼれるように言った。

「……逃げて、きた」

それから、ぽつりぽつりと語ったところでは、みくるは円香まどかさんの娘で、久作さんとは血がつながっておらず、犬守家がいやで飛び出してきた、ということだった。

いぜんほろ酔い加減の円香さんが、僕らよりすこし年下の娘がいると話していたが、それがみくるのようだ。

「ありがとう。もうしゃべんなくていいよ」

狛音はみくるを生き別れた妹のようにいたわった。2人は連れ子同士だった。狛音は家出したみくるを自分と重ね合わせたのかもしれない。

お兄さんたちに事情を伝え、母親の円香さんを呼んでもらった。

しばらくして、2本先の電柱のかげから円香さんが走ってくるのが見えた。
フォーマルなスーツを着ていたが、足もとはスニーカーだった。近づくにつれ、汗で肌に髪がはりつき、眉毛の半分がとけているのがわかった。

「円香さん……」

狛音が声をあげると、駕籠のなかからまっ白なバスケットシューズが飛び出した。みくるは地面を蹴ると、ステップを踏むようにして円香さんに抱きついた。

「ごめんね」

円香さんは路上で涙を流しながらみくるを抱きしめた。重なり合う母娘の影がアスファルトに焼きついている。ごめんね、ごめんね……。

くり返される円香さんの言葉には、4文字では測りしれない重さがあった。娘を部屋に閉じこめ、犬彦くんの身代わりをさせてしまったことへの深い後悔なのだろう。

母娘になにがあったのだろうか。いったいどんな理由があって、2人はこんな境遇に身を置くことになってしまったのか。

意外にも狛音は円香さんを責めなかった。すっと立ちあがり、抱き合う母娘をまぶしそうに見ていた。2人の強い絆を感じとったのかもしれない。
狛音のあごからしたたり落ちた汗が、アスファルトに黒いしみをつくり、やがて蒸発した。

「よし、養子縁組は中止にしちゃおう」

狛音がとつぜん言い出した。もともと養子縁組に乗り気でなかったが、その横顔にはみくるのケアを優先したいという思いがにじんでいた。

「いまさらどうやって中止にするんだ? 社長も分犬守がくるのを屋敷で待ってる」

すこしもらい泣きしていたお兄さんが、わがままなお嬢さまに手を焼いているといった顔になった。腕時計を見て、「やばい、30分も押してる」

「ヘーキだって。交通事故……そうだ、バイクが突っこんできて、駕籠が壊れたとか言っときゃいいじゃん。ねえ、円香さん・・・・

と口にするなり、狛音は駕籠に蹴りを入れた。バキバキと音を立て、スカートからのびる足がうるし塗りの格子窓を突き破った。

「なにやってんの!」

血相を変えたお兄さんたちが止めに入る。そんな無茶な!? と僕はあっけにとられたが、小学生のころの電気あんまを思い出し、ちょっと小気味よくも感じた。
円香さんは、なんとお兄さんたちの側を制止した。

「わたしがぜんぶ責任とるから、こまちゃんの言うとおり、分犬守へのお迎えは中止して。養子縁組の話はしばらく延期にしましょう」

「……マジですか?」

お兄さんたちは目を丸くしたが、円香さんの目は真剣そのものだった。狛音は口もとをゆるめると、駕籠にもう一発お見舞いした。

青一色の空に灰色の雲が忍び寄ってきている。結局、円香さんの指示で、いまきた道を引き返すことになった。大きな穴があいた駕籠は往き道よりずっと軽かった。

狛音は仲むつまじそうに歩く母娘の背中をじっと見つめていた。スカートからのびる彼女の足はすこし擦りむいている。

思えば、狛音が「円香さん」と本人に呼びかけたのはこのときがはじめてだった。彼女の心に映る円香さんの姿は、「あの女」から信頼できる大人へと変わりつつあるのかもしれない。

この日、円香さんとみくるは屋敷にもどらず、駅前通りにあるホテルに泊まった。

駕籠が大破したため、養子縁組の話は無期延期となった。

玄関で僕らを出迎えた久作さんは、「事故」の報告を受けてもとくに詮索しなかった。内心ほっとしたのか、僕の肩に手をおき、「みんな、怪我がなくてなにより」とねぎらった。

僕は久作さんと駕籠の状態を見に行ったあと、さっさと玄関をあがった狛音の部屋をたずねた。

「工房さん、こっちです。首輪は〝犬塚〟の花瓶のなかにありました」

僕らは〝夢丸の首輪〟を口実に、工房さんを〝綱吉の湯〟の裏側におびき出した。
法事のとき犬彦くんになりすましていた工房さんなら、みくるについてなにか知っているのではないかと思ったのだ。

きのう狛音と話し合って、工房さんから聞き出そうと決めた。
みくるが犬彦くんの身代わりになっていたことを知ると、狛音は父への憤りを隠せないようだった。さんざん悪態をついたあと、ふと疑問を口にした。

でも、犬彦はどこいったんだろう?

「――よかった。これは造花で、花瓶に水は入ってない」

僕の割った花瓶は新品に取り替えられ、色鮮やかな菊の造花が挿してあった。工房さんは花を引っこ抜くと、花瓶をのぞきこんだ。無表情でふり返り、花瓶を逆さにする。

「なぜ、こんな見え透いた嘘を?」

「公方様が病気になってから買い出しにいそがしそうで、こうでもしないと来てくれないじゃないですか」

狛音と目で合図をかわして本題に入る。「いぜん僕が廊下で『犬彦くん』としゃべったとき、工房さん怒りましたよね。
きのう、その『犬彦くん』としゃべったんです。分犬守に行く駕籠のなかにいて、〝みくる〟と名乗りました。女の子なんですよね?」

「本物の犬彦はどこいったわけ?」

すねに絆創膏ばんそうこうを貼った狛音がつづいた。

「みくるちゃんは円香さんの連れ子で、犬彦くんになりかわっていたんですよね?」

円香さんは義理の息子をたぶらかしていたのでなく、実の娘とお風呂に入っていただけなのだ。

「いまは一緒に暮らせてない」と言っていたから、お風呂が唯一の母娘の時間だったのかもしれない。
風呂場ののぞきに失敗したとき、女の悲鳴が聞こえてきたが、それもみくるの声だったのだろう。

「段ボールをかぶって犬彦くんのふりをしてた工房さんなら、なにか知ってるんじゃないですか?」

僕が問いつめると、工房さんは〝犬塚〟の奥のもうひとつの石に目をやった。奥の墓石には柿がお供えしてあった。

「あれはなんのお墓なんですか?」

茂みのなかを指さした僕の声はうわずっていた。これを訊くために工房さんをここに連れてきたのだ。

「それは……」

工房さんの声にとまどいの色がにじむ。蝉の声が噴出花火のようにわきあがった。

「犬彦くんのものだ」

言いよどんだあげく告げられた名前に、僕は絶句した。

「犬彦、死んじゃったんだ……」

狛音がぽつりとつぶやいた。声の余韻がさびしそうに耳に残り、季節はずれの雪のように溶けていった。

犬彦くんは死んでいたのだ。駕籠のなかに隠れていた「少年」が、別人の名を口にしたときから予感していたが、考えたくなかった。
犬彦くんの裏アカのツイートと結びつけるのが怖かったのだ。

「いじめが原因なんですか?」

やっと声をしぼり出すと、

「……そう、犬彦くんはいじめを苦に自ら死を選んだんだ」

観念したように工房さんは答えた。

いじめが死に直結するという現実にふれ、歯の根が合わないほどのふるえに襲われた。自分が生きてここにいるということが、薄氷の上の幸運だったように思えてくる。

「……あたしのせいだ。あたしがちゃんと気づいてあげてたら、あいつ死なずにすんだのに」

狛音が鼻をすすりあげ、目からポロポロと涙をこぼして言った。

「狛音のせいじゃないって」

僕の言葉は届かなかった。場違いな声はむせかえるような青くさい空気のなかを漂い、蝉しぐれにかき消されていった。
僕はなにもできない。慰めの言葉すら満足にかけてあげられなかった。自分のなさけなさに嫌気がさした。

「正直な話、公方様の病気のおかげで、首輪をなくした件もチャラになって助かった。あやうく職を失うところだったよ」

神妙な顔つきが一転、工房さんの頬に残酷な影がさした。狛音がまっ赤な目でにらみつける。工房さんはからの花瓶を墓前にもどし、

「〝夢丸の首輪〟は犬守家の正統性の象徴。本家の長男に代々受け継がれてきたものだが、残念ながら犬彦くんは自殺してしまった。

分家の鮪吉くんに家を乗っ取られるのを恐れた当代は、犬彦くんを直葬にして、先祖の墓とはべつに小さな墓をこしらえて遺骨を納めた。絶対に分犬守に知られてはならないと」

茂みの暗がりのなか、お供えの柿がぼんぼりの灯のように浮かんで見える。

「そして当代は」

工房さんはゆっくりとつづけた。「奥方の連れ子に引きこもりの長男のふりをさせて、犬彦くんがまるで生きているかのように偽装したわけだ」

狂ってる……。本家と分家の争いは久作さんを追いつめ、理性を失わせるほど深刻なものだったのか。

「よく円香さんが許しましたね」

「上京してシングルマザーで苦労していたところを当代に拾われた身だから、断れなかったんじゃないかな」

「……パパ、最低」

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