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「うやまわんわん〜犬将軍を崇める一族〜」第七章 犬彦の秘密(その2)

久作さんは、綱プーの容体のことで気もそぞろなのか、それとも偽の長男のことなどはなから興味がなかったのか、広い屋敷からみくるの姿が消えても気づいていないようだった。

みくるはあれからずっとホテルにいた。円香まどかさんはホテルと屋敷を行き来していたが、きのう僕の部屋を訪ねてきた。みくるを前の夫に引き合わせてほしいと頼まれた。

「前の夫に預かってもらうことになったの。わたしはこれからしばらく屋敷から出られそうにないから、のぼるくんにお願いできないかな?」

円香さんの顔は少しやつれているように見えた。

「いいですけど。前の夫って、同じ中学で働いてた先生っていう人ですよね?」

「前に話したっけ? そう、3つ年上の数学の先生」

「みくるちゃんは東京に行くんですか?」

「前の夫がいるのは草加だよ。わたしの地元。離婚したあと教職に復帰したけど、非常勤しか見つからなくて……。
食べていけないから3年で辞めて、東京でOLをやってたの。そのころはみくると東京に住んでた」

円香さんは遠い目をして言った。久作さんに見められたのもそのころなのだろうか。ともあれ、みくるを久作さんから引き離し、実の父親のところに預けるのはいいことだと思った。

駅前のカフェでみくるの父親と待ち合わせしていた。僕はホテルのロビーにいるみくるを迎えにいき、沿道の小さなビルの影に沈んだ駅前通りを一緒に歩いている。

みくるは真新しいオレンジ色のクロックスをはいていたが、足どりはいつものバスケットシューズより重かった。

駅に近づくにつれて人通りが多くなった。

「みくるちゃんは、犬笛が得意なんだね」

道すがら話しかけてみたが、みくるは物げな表情でうつむくばかり。返事のかわりに、僕のTシャツのすそをつかんだ。

「……裏道とおろうか」

洋菓子店の前に制服の女子高生がたむろしていた。無口で怯えているように見えるのは、父との再会に緊張しているのかと思ったが、それだけではないようだ。

みくるは人を恐れていた。1年近くも軟禁され、自殺した腹ちがいの兄を演じつづけた後遺症は想像を絶するものだろう。いじめのせいで人間不信になりかけた僕にもなんとなくわかった。

アイスクリームの載ったワッフルがカフェのメニュー表の写真にうつっている。裏道を通ってカフェに着いたのは、待ち合わせ時間の5分前だった。

メニュー表から顔をあげると、テーブルのむこうのソファに座ったみくるが、膝の上においたリュックをぎゅっと抱いていた。

フローリングの床に革靴の乾いた音を立て、みくるの父親らしき人物が店にあらわれたのは、約束の6時半ぴったりだった。
髪をセンター分けにしたスーツ姿のその男は、どこか急いでいるように見えた。ソファにみくるの姿を認めると、

「ひさしぶり。いくつになったんだっけ?」

父の問いかけに、みくるは指で1と3をつくって13と答えた。
学校の先生というより銀行員のようで、頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように娘を見た。感動の再会といった雰囲気はなく、心なしか迷惑そうな顔をしていた。

「……あの、みくるちゃんをよろしくお願いします」

立ちあがって頭をさげた。僕のほうが彼女の身内みたいだった。

「君が光村くん?」

一瞬、目が合ったが、

「あ、私の注文はいいです」

マスターが近づくと、みくるの父はすぐに視線をそらした。財布から1000円札を抜きとり、「ご苦労さん、好きなもの食べていいから」と言って、テーブルの上においた。

「さあ、行くよ」

みくるの手を引いて、さっさと出口にむかって歩いていく。
片手にリュックをぶら下げ、ドアの前でふり返ったみくるは無表情な人形の顔にもどっていた。学校の三者面談より味気なく、まるで荷物の引き渡しのようだった。

無言で僕を見つめるマスターに、タピオカミルクティーを注文した。すっかり食欲をなくしていた。

円香さんによれば、前の夫とはできちゃった結婚であり、夫からみくるをろしてほしいと頼まれたらしい。きのう、こう言っていた。

「本命の彼女がいたの。わたしと結婚したのは、みくるを堕ろすのを断られたから、しぶしぶみたい。夫が浮気してるのがわかって別れちゃった」

「自分も浮気されてたのに久作さんと……」

思わず口をすべらせてしまった。

「ほんと、最低だよね」

円香さんは落ちこんだようにうつむいた。「言い訳にしかならないけど、久作さんと出会った前の年に、大好きだった父が脳梗塞のうこうそくでなくなったの。

体育の先生だったんだけど、教師としてもあこがれだった。そんな父に久作さんがよく似てたの。奥さんと子供がいるのはわかってたけど、熱心に口説かれてつい……」

「すみません、失礼なこと言って。久作さんとは東京で出会ったんですか?」

「赤坂でね。小さなプラスチック加工会社で事務をやってたんだけど、そこの社長にホステス代わりに連れていかれた接待の相手が久作さんだったの――」

テーブルにグラスが運ばれてきた。グラスいっぱいのミルクティーのなかに黒いつぶつぶは見当たらなかった。
ふつうのミルクティーと注文を聞き違えたのかもしれない。食欲もないし、まあいいや。

マックシェイクのものより細いストローをくわえ、勢いよく吸いこんだ。甘ったるいミルクティーとともに、弾力のある小さなつぶがのどの奥に飛びこんでくる。

口から出してみると、ビーズクッションの中身くらいの大きさの半透明なつぶだった。
よく見かける大粒の黒真珠のようなタピオカとは別物だ。たけのこやヤングコーンのように、タピオカの子供かもしれない。

ストローでグラスのなかをかきまわすと、ベージュの渦が生まれ、小さなタピオカはその渦に巻きこまれていく。
いやおうなく押し流されるタピオカを見ながら、大人の都合にふりまわされ、傷つくのはいつも子供だと思った。

いまごろ、みくるは満員電車にゆられているのだろうか。人ごみが苦手なのに大丈夫だろうか。車内でリュックを抱きしめるみくるを想像して心配していると、スマホに着信があった。

〈公方様が危篤きとく

狛音からのLINEだった。指先から落ちたタピオカがテーブルの上でガラス玉のように砕け散る音がひびく。舌の上のミルクティーは水道水のように味がしなくなっていた。

僕はタピオカミルクティーも千円札も置きっぱなしにして、屋敷へと駆け出した。

〝将軍の間〟の御簾みすをあげると、肩で息をする僕の鼻先に汚物のにおいが漂ってきた。
犬守家の人々がベッドを囲っており、綱プーの頭のそばには獣医さんの姿もある。綱プーはカラーを外され、下半身におむつをつけていた。

「暢くん、きた」

スマホを握ったまま狛音が言った。久作さんがいるので、無事みくるを父親に届けたことを報告できなかったが、円香さんは目くばせで感謝の意を伝えてくれた。

重苦しい空気のなか、円香さんが席を空けてくれる。

綱プーのお腹には包帯が巻かれていた。お腹は動いているので、呼吸はしているようだ。ベッドにはバスタオルが敷いてあった。

「下痢をくり返しておりまして、むつきを着けたところです」

人間椅子が獣医さんの代わりに説明してくれた。「きょうは水も召し上がりませんでしたが、宝物の靴下に水をしみこませると、おいしそうに口に含まれました」

「公方様、暢くんが大好きなんだね」

しみじみと、狛音がつぶやいた。僕は鼻の奥がツーンと熱くなる。

僕のにおいのする靴下を、綱プーは宝物にしていた。誰かにそんなに愛されたのは生まれてはじめてだ。
そう思うと、綱プーにつれなくしていた過去の自分に罪悪感をおぼえた。靴下で元気になるなら、いまはいくらだってあげたい。

鼻をすする音が聞こえてきて、目をむけると、久作さんがハンカチで目頭を押さえていた。横にいる工房さんは剥製づくりの計算でもしているのか、うわの空のようだった。

綱プーの背中をなでると、からだは温かかった。目の焦点は合っていないが、瞳は涙でうるんでいる。自分がもう長くないことを悟っているのだろうか。

「綱プー、綱プー」

なでながら声をかけた。目が見えなくなっていたとしても、声は聞こえているかもしれない。いっせいに怪訝けげんな目をむけられたが、僕にとって綱プーは綱プーなのだ。

しぼった靴下が洗面器にかけてあるのを見つけ、綱プーと庭でボール遊びをしたときのことを思い出した。

毎日うす暗い屋敷のなかにいて、せっかく外に出ても、駕籠かごに乗った〝御散歩〟では気の毒に思ったのだ。さんさんと降りそそぐ太陽の下、好きなだけ走りまわらせてあげたかった。

お手伝いさんの目を盗んで庭に連れだすと、綱プーは目を輝かせて芝の上を駆け出した。
靴下を丸めて遠くに投げると、全速力で取りに行って、僕のところにくわえてもどってくる。ちぎれんばかりに尻尾をふって、うれしくてしかたないようだった。

外の世界も歩かせてあげたいと思った。裏口に行こうと、池にかかる石橋に誘い出すが、渡るのを怖がって橋のたもとに座りこんだ。目で絶対にいやだと訴えている。
根負けして、抱っこしてから一緒に渡った。綱プーのからだはちっちゃくてフワフワしていた。

離れの裏を通り、生い茂る枝葉の下をくぐって駆けっこしたが、裏木戸の前で立ちどまる。リードがないので、外を歩けなかった。
しかたなく抱っこして戸をあけると、夏の陽射しを浴びたアスファルトが一面キラキラと輝いていた。

「光村さん、なにやってるんです!」

路地を通りかかった虫江さんに見つかった。僕は蝉の抜け殻のようにむなしく木戸につかまっている。
つめ寄ってくる虫江さんのうしろを、黒いトイプードルが飼い主に引かれて通りすぎていく。腕のなかで綱プーがクーンと鳴いた。

「ご臨終です」

綱プーの胸から聴診器を離すと、獣医さんが告げた。綱プーの口はひらき、だらんと舌が垂れていた。

「公方様、公方様……」

ベッドに顔を寄せあって、みんな綱プーのからだをさすって叫んだ。僕も遅れて輪に加わった。

綱プーは毛並みが悪く、やせっぽちで、かつての面影はなかった。まだ体温は残っていたが、揺すってみても身じろぎひとつしなかった。剥製のようだった。

でも、それは匿名の標本なんかじゃなくて、ついこないだまで一緒に遊んでいた綱プーのなきがらなのだ。

「公方様、暢くんの帰りを待ってたんだね」

狛音が涙をぬぐいながら穏やかな表情で言った。「暢くんになでてもらって、安心して虹の橋に旅立ったんだよ」

「虹の橋?」

僕の声はふるえていた。

「天国の手前に虹の橋があって、生きているとき愛された動物はその橋に行くんだって。橋のたもとには草原や丘がひろがっていて、食べ物や水もたくさんあるの。

動物たちは元気なからだを取りもどして、あたたかい陽の光のなかを走りまわって暮らしているけど、ひとつだけ不満なのは残してきた大好きな人と会えないこと。

ある日、遊んでいたうちの1匹がふと遠くを見あげる。しだいに目をキラキラさせて、仲間から離れて走り出すの。大好きな人のすがたを見つけたんだ。
2人は抱き合って、キスの嵐で再会をよろこびあう。そして一緒に虹の橋を渡るんだって」

いつか虹の橋で元気に走りまわる綱プーと再会するところを想像した。
毛づやはもとに戻っており、からだはふっくらしていて、抱きあげると顔じゅうなめまわされた。僕らは虹の橋をわたり、光にみちた外の世界へと飛び出していく。

闘いぬいてボロボロになった綱プーが涙でにじんでいる。ベッドで冷たくなっていく綱プーを見ながら、そんな夢のような話に思いをはせた。

「綱プー、よくがんばったね」

頭をなでながら声をかけると、

「ワン!」

庭のほうから犬の鳴き声が聞こえた。綱プーの声に似ているような気がした。ゆっくり顔をむけると、靴下をくわえて走る綱プーが庭に光って見えた。

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