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先生(シンガポールへの手紙)

大学生のころ研究者をめざしていた。私大は学費が高いので、国立の大学院への進学を希望しており、週1で大学院受験の予備校に通っていた。 

授業は個室で1対1。宿題でイギリスの大学の社会学の教科書を訳してきて、先生が訳文をチェックしながら内容を解説するというものだった。

先生は大学の非常勤講師を兼任している40代半ばの男性。専攻は国際関係論だが、社会科学一般に造詣ぞうけいが深かった。

私はたびたび訳文の文章をほめられた。小説が好きなことを話すと、先生は翌週には漱石そうせきの『こころ』を読んできた。文学にも興味があるそうで、すぐに打ち解けた。

先生は大学院の博士課程に進学したものの、博士号はもっていないらしい。最近は学会にも出ておらず、大学への就職はあきらめているようだった。

先生の力になりたいと思った。就職につながらないかと、大学のゼミの教授に、先生のホームページにあったプロフィールを見せた。

「うちの非常勤講師にどうでしょうか?」

教授の答えは「年の数だけペーパー(論文)を書け。40超えたら単著のひとつも……」と辛辣しんらつだった。
先生には年の半分も論文はなく、著書も共著が数冊あるだけだった。私は研究者になる厳しさを知った。

その年、私は大学院を受験することができなかった。科目登録の計算ミスで受験に必要な卒業見込証明書を取れなかったのだ。つまり留年が決まった。

ゼミの教授がいろいろ奔走ほんそうしてくれたが、決定はくつがえらなかった。
研究室に菓子折りをもっておびに行った帰り、私はビールを1ダース買って、アパートで浴びるように飲んだ。先生に合わせる顔がなかった。

留年が決まったことを報告すると、なぜか先生はちょっとうれしそうだった。
しょげ返っている私に、「きみはもっと上を狙えると思っていたんだ」と言った。来年、先生の母校をめざすことになった。

2年目、私は専攻を政治哲学に変えた。残りの単位はわずかなので大学にはほとんど顔を出さず、受験勉強に打ちこんだ。同級生はみな卒業しており、先生との知的な会話が唯一の楽しみだった。

先生は院生時代のことを懐かしそうに語った。奨学金で洋書を買いあさり、アパートの床が抜けたことを話したあと、先生の瞳に影がさした。
いまは奨学金の返済に追われているそうだ。先生はいつも同じよれよれのスーツを着ていた。

先生に電子辞書を勧めたときのことを思い出した。親に買ってもらった最新の電子辞書を見せ、「ぜったい電子辞書のほうが便利です」と勧めた。
先生はボロボロの紙の辞書を手にとり、「私はこっちのほうが馴染なじんでいるから」と言ったが、お金がないのだ。

「奨学金が大変なら予備校に就職しないんですか?」と私はいた。先生は「じつはここではもうきみしか教えていないんだ」と答えた。

予備校の仕事は減らして、いまは大手新聞社で国際関係の記事の下書きのような仕事をしているという。予備校の給料より安いらしい。大学の非常勤講師をやめるのも名残惜しいようだ。

私は無事、希望していた大学院に合格し、大学も9月卒業をした。先生はとてもよろこんでくれたが、その目はもっと先を見すえていた。

「いまは博士号をもっているのは当たり前。研究者になりたいなら、海外の大学に留学してPh.D.(博士号)を取ったほうがいい」とアドバイスされた。

私は留学について調べるようになった。先生からの期待をひしひしと感じた。父から電話がかかってきたのはそんな矢先だった。

「もう仕送りはしない。大学院には行かなくていいから、すぐ帰ってきなさい」

これまで借金でやりくりしていたが、父の会社の経営が危ないらしい。また私はビールを1ダース買った。

次の日、二日酔いで予備校に行った。最後の授業だった。

研究者への道はあきらめることになりそうだと、先生に伝えた。先生は見たこともない残念そうな顔をした。

「知人にシンガポールに来ないかと誘われていてね。日本に未練もなくなったし、行ってみようかな」と悲しそうに言った。先生の夢もまた絶たれたようだった。

「すぐ帰ってきなさい」と言われても、交通費も引越し代もない。
私はティッシュ配りや交通量調査、資格試験の試験監督など短期のバイトを詰めこんで、なんとか資金を工面した。家賃は敷金で相殺そうさいしてもらった。

広島に帰ってしばらくして、先生に長文のEメールを送った。メールならもし海外にいても届くだろう。
メールではこれまでの感謝を伝え、せっかく受かったので修士課程には奨学金で行くことになったこと、将来は小説家をめざすことなどを書いた。

メールは自動的に送り返された。アドレスが記してあった先生のホームページを見ると、最終更新日は1年以上も前だった。

先生とはそれきりになった。

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