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随筆(2020/11/9):欲望と、満足と、飽きと、解放の自由と、精神的余裕と、「損して得取れ」の姿勢

1.許すよ

許すことをやっていこう。和解することをやっていこう。
生活が、問題や、他人や自分の呪詛や、快楽をもたらさなくなった執着や、強迫的な捉われに脅かされないように。
問題や呪詛や執着や強迫を、飼いならしていこう。

という話を、昨日していたのでした。
おおー。公正の価値観にこりかたまって、恨みがましかった俺にしては、大した成長だ。

でも、具体的には、どうやって?

2.快楽をもたらす欲求を、ガムのように噛め。快楽をもたらさなくなった執着なんか、味のなくなったガムだ。捨てろ

ということを、つらつらと考えているうちに、あることに思い至っていた。

かつては執着していたが、今は執着していないものが、いくつかある。
それらは、どうやったら、執着から解放されたのか。

元々はそれらは、やれば快楽をもたらす欲望であった。
それらが、馴れか、場合によっては疲労によって、快楽をもたらさなくなる。
これは、ふつう、避けがたく、こうなる。
そうなったら、執着としか呼びようのないものになる。
(最初から快楽をもたらさない強迫的な捉われもあるが、これは精神科に行った方がいいですね)

実は、逆転の発想をすべきなのだ。
これらは、ガムだ。

そもそも噛みたくないガムを噛んでいた訳ではないので、せっかくなので、おいしいと思うガムの旨味を、最大限噛み締める。
そして、ガムから味を感じられなくなったら、紙にくるんで捨てて、顧みなければよいのだ。
「旨かった」で終わるべきで、終わらずに執着していても、そこからはもう旨味は何も得られない。
ということで、「もう、いいや」ということで、スパッと終わりにする。
もう味わいたくなくなったのだから、それで終わりにして、よしとするしかない。

これを満足と呼びたくはないだろうが、しばしば満足は、こういう「飽き」という形を取る。
満足は、華々しいものばかりではない。ということだ。

(ちなみに、これは人が絡むものだったら、「今まで有難うございました」と、きちんと手切れをした方がいいですよ。
これは、相手がモノではなく、ちゃんと取引先、ヒトであったということを示す、大事な姿勢だ。
これをやらない人が、信頼を構築するのは、まず無理だ)

3.「もう、いいや」という飽きが、実は解放の自由や精神的余裕をもたらす

実は、飽きにせよ、満足にせよ、「もう、いいや」となると、そこから基本的には自由になる。精神的余裕が出てくる。そういうのが大事なのだ。

どうせ、他に噛みたい味のガムは、まだある。
ないなら、ますます、時間を持て余すくらいには、精神的余裕が出て来る。
そこで、ふと、「そういやあれを噛んでみよう」となったら、そのガムを噛めば良いのだ。
そのうち、自分が欲望に執着せず、つまりは支配されず、欲望と距離を保ちながら、楽しめていることに気付くだろう。
そうなったらしめたものだ。あなたは自由に、余裕をもって、執着と和解できていて、欲望を許せている。ということになる。

そのうち、以前噛んでいたガムが、噛みたくなるかもしれない。
じゃあ、噛めばいいのだ。それも自由だ。
(欲望がバグるような向精神薬は避けた方がよいでしょう。治療用の薬は飲みましょう)

そういうことで、「飽きそう」という感覚を、大事にしなければならない。
それは、自分の精神をつまらなくするのではなく、自由にしてくれる。余裕を与えてくれる。

飽きにはそのようなポジティブな意味がある! こいつは驚いた。

4.意志の弱さ(アクラシア)は「損して得取れ」の姿勢で供養出来る。そのためには、やはり、精神的余裕が必要だ

それに、副作用だが、大事なメリットがある。

余裕がないと、今の苦痛が何より耐えられない。明日もっと快楽が得られても、今の苦痛に耐えられない。
そういう、時間による快不快の感受性の変動に基づく、「明日まで我慢できない。今得をしたい」という、意志の弱さ(アクラシア)の性質が、人間には備わっている。
余裕がない時は、これはたぶん適応的なのだろう。
だが、これでは、どうしたって快楽は大きくならない。

だが、余裕があって、ついでに比較的安全な失敗経験と、何らかの成功体験があると、「損して得取れ」の姿勢が素直に出来るようになる。
こうなると、今の損に耐えられて、後の得を受け取れるようになる。

いや、当初は「最初のひりつくような苦痛の埋め合わせとして、これじゃ全然足りん」と言いたくなるかも知れない。
が、そのうち、昨日我慢したことによる今日の快楽の強さ多さが、今の苦痛を直ちに癒してくれるようになる。
そうなったら、自分の意志の弱さからも、自由になれるだろう。

(だから、本当は、初手における報酬は、それなりに潤沢でなければならないんだよな。景気を良くすれば、そこはふつうはナントカなるところのはずだ)

安全でない失敗経験トラウマになり、自由を大幅に損なうが、そこから自由になることも、やってできないことではない。とはいえここは難しいので、何なら精神科にご相談下さい)

5.欲望を満たしていって、そこからうまくコンボにつなげれば、いつかは精神が自由になるし、幸福を大きく育てることが出来る、というプラン

そんな訳で、

欲望を満たして快楽を大事に噛み締める
欲望は、馴れ(や疲労等)により、快楽が得られにくい執着になる
→快楽が得られにくい執着が生じたら、それはもう十分満足したか、あるいはその一環として、飽きたということなので、スパッとやめる
→飽きたらその欲望や執着とは距離を置けるようになる。これを、欲望や執着からの、解放の自由と捉えてもよい
→解放の自由によって、要らんことに精神のリソースを注がなくて済むので、精神的余裕が出て来る
→精神的余裕(と比較的安全な失敗体験何らかの成功体験)があると、意志の弱さ(アクラシア)に直面した時、「損して得取れ」の姿勢が出来るようになる
→後でたくさん得をするので、意志の弱さは供養され、幸福を大きく育てることができる

こういうプランを試みてみようと思うのです。
やっていきましょう。

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