数学(2022/7/6):キューネン本2冊についての記事_13.ZFC集合論の公理のリスト_11(中間生成物:有限基数より大きい基数)
1.『基数としての自然数全体の集合』までのロードマップ
1_1_1.カントールの対角線論法
有限基数より大きい基数の話をするために、いろいろ下準備をします。
まずは、カントールの対角線論法からです。
これは何か。
「ある函数によって、ある集合の要素の、像をとる。
元々の集合(始域)の要素のうち、この像に所属しないものたちを考える。
そうした要素たちの集合を考えたとき、この集合は像どころかもっと広く、終域にすら所属していない」
という話です。
これは、始域と終域の間の(広義の)函数が全射ではない(よって、始域の濃度が終域よりも大きくない)ケースを考えたい時に役立ちます。
また、全単射ではない(よって、始域の濃度が終域と異なる)ケースを考えたい場合にも役立ちます。
***
どういうことか?
確認してみましょう。
今回は背理法を使います。
「あれを否定する主張は矛盾しており、あれを肯定する主張か否定する主張しかありえないので、結局はあれを肯定する主張が正しい」
という論法ですね。
ということで、これを否定する主張として、
「「外れ者たちの集合」が、何らかの要素の像であった」
場合を考えましょう。
(この像は、像なので、終域に所属しているはずです。)
「この要素が外れ者たちの集合の要素、つまりは「外れ者」であった」
場合、これは
「この要素は外れ者なので、自らの像に所属することもない」
ということと等価になります。
ここで言う「自らの像」はどこに所属しているのかというと、これももちろん終域に所属していなければなりません。
「外れ者である要素は外れ者たちの集合に所属している」
が、
「外れ者たちの集合はこの外れ者の要素の像そのものである」
ので、これと
「この要素は外れ者なので、自らの像に所属することもない」
ということが、両立しない。
「外れ者の要素は外れ者たちの集合である自らの像に所属しつつ所属しない」
というのは、矛盾です。
***
どうあったって像そのものは終域に所属しているのです。
が、上記の背理法で否定される条件、
「「外れ者たちの集合」が、何らかの要素の像であった」
というものに従って対応する始域の要素の方が、ない。
(あったらそれは矛盾しているからです。)
だから、このような始域の要素は、始域にはありません。
終域にあって始域にないような状況下だったら、定義からしてこのような(広義の)函数が全射である訳がないのです。
全射の一種として、全単射を考えてもいい。
そしてそれも当然この話から自由ではない。
全単射も、成り立たない。
***
単射は許されます。
だから、カントールの対角線論法は、
「単射である」
(広義の)函数に対し、
「(当然ながら)全射でなく、また全単射でもなく、単射である」
という絞り込みをかけたい時に、効果を発揮します。
1_1_2.カントールの定理
次の話をします。
カントールの定理は、
「冪集合が元々の集合より大きい濃度を持つ」
というものです。
***
元々の集合から、冪集合に対しては、単射が必ずあります。
ここからは証明ではなく例示に過ぎないことに注意して下さい。
簡略化のため、正確な証明は致しません。
空集合の冪集合は、定義より「空集合の部分集合全体の集合」です。
空集合の部分集合は(常に部分集合として取れる)空集合しかありえません。
つまり、「空集合の部分集合全体の集合」は「空集合の単元集合」になります。
空集合の濃度は 0 で、空集合の冪集合、すなわち空集合の単元集合の濃度は 1 になります。
次に、空集合の単元集合の部分集合は、空集合の単元集合と、(常に部分集合として取れる)空集合です。
空集合の単元集合の冪集合はこの2つを所属させています。
空集合の単元集合の濃度は(空集合だけなので) 1 で、空集合の単元集合の冪集合の濃度は(空集合の単元集合と空集合の) 2 になります。
2元集合や3元集合や4元集合の冪集合は?
もう基数としての自然数を使っても良くなったので、これを使います。
すると、面白い事実が見えてきます。
結果だけ言うと、2元集合の濃度は 2 で、2元集合の冪集合の濃度は 4 になります。
3元集合の濃度は 3 で、3元集合の冪集合の濃度は 8 になります。
4元集合の濃度は 4 で、4元集合の冪集合の濃度は 16 になります。
実は、n元集合の冪集合の濃度は 2 の n 乗、すなわち 2^n です。
証明しませんが、実例を羅列している時点で、n<2^n なので、これらの間には単射が成り立ちます。
***
そうなると、不安になった人から、
「全単射や全射でないことを証明してくれ。本当に成り立たないんだよな?」
と問われることがあり得ます。
「全射のうち最も単射に近く、これより終域の濃度が大きければ、それはただの単射になってしまう」
ものを、同濃度、すなわち全単射と考えてよいのです。
こと濃度の大小において、2つの間の(広義の)函数が、単射ではあるが、全単射ではないことが分かったら、全射はもう一切成り立たない。
だから、この
「単射である」
(広義の)函数が、
「全単射でない」
ことを証明して、背理法で
「(当然ながら)全射でなく、また全単射でもなく、単射である」
ことを、間接的に証明しましょう。
***
さあ、ここでカントールの対角線論法、そして
「濃度が以上かつ以下なら同濃度」
というシュレーダー-ベルンシュタインの定理を使います。
冪集合から元々の集合への(広義の)函数を考えます。
冪集合から元々の集合への単射があるなら、元々の集合から冪集合への単射と合わせて、シュレーダー-ベルンシュタインの定理によって、集まりと冪集合が全単射、すなわち同濃度であるはずです。
カントールの対角線論法では実際にはこうなっていないことが示されます。
それでは、冪集合から元々の集合への(広義の)函数は、単射ではありえません。
(ここからは証明ではなく例示に過ぎませんが、実際に、空集合は要素を持たず、だから空集合の冪集合の持つ1つの要素(空集合自身)を持ちません。
空集合の単元集合は要素を空集合1つしか持たず、一方で空集合の単元集合の冪集合は空集合の単元集合と空集合の2つを持ちます。後者にはあって前者にはないものがあるので、これは全射になり、単射でも全単射でもありえません。
実は以下同文なので、冪集合から元々の集合への単射は一貫して存在しません。)
***
カントールの対角線論法と、
「元々の集合と冪集合が同濃度であること」
は、両立しないのです。
冪集合が元々の集合以上の濃度であり、元々の集合が冪集合以上の濃度でないのであれば、
「冪集合が元々の集合より大きい濃度を持つ」
ということになります。
(これについては既に『集合一般における基数』の記事で、『濃度における超過』として説明しました。)
そしてこれはカントールの定理そのものです。
1_2.基数における超過
基数における超過は、濃度における超過よりは、いくぶんかシンプルです。
単純に、順序数の(狭義の)全順序関係、超過未満を、基数でも成り立つものとするだけです。
1_3.演算の世界、代数学の一端
1_3_1.代数系
やや寄り道をします。
数学の大きな切り口、代数学の話です。
足し算や掛け算や累乗を一般化した、何らかの演算を考えます。
そして、演算について研究する数学のジャンルというものがあり、このジャンルを代数学と呼びます。
小学校算数の時点でも既に、演算は足し算や掛け算や累乗などの形で出てきますし、特に数の演算は日常生活でも仕事でもたくさん出てきます。研究するだけの価値があるのですね。
(ちなみに、数ではないものの演算というのが、実はいろいろあります。
既に行った文字列の連結も、実はある種の演算と言えるのでした。
あとあみだくじでのラインの移動も、実はある種の演算だったりします。
ここも代数学では研究対象になります。
というよりも、これらは代数学が「実はこれもある種の演算だった」と解き明かした研究対象の例なのでした。)
***
演算の具体例は、たとえば加法(足し算)や乗法(掛け算)だったりします。
これらの演算は、ある集合において、いくつもあっていいのです。
そして、数の場合、考え得る様々な演算のうちいくつかを、統一的に扱うことができます。
具体的には足し算と掛け算と累乗がそうです。
(これは非常に便利な性質なので、小学校算数で数の演算をやると、子供のうちからも演算というものの勘所を掴みやすいはずです。
だからこそ、小学校算数では初手から数の演算をやるのでしょうね。)
数において、足し算と掛け算と累乗の3つの演算が統一的に扱えるのは、よく考えると不思議な性質です。
これらについて、ちょっとだけ詳しく見ていきましょう。
(順序数の和については『形式言語』で触れましたが、その他のパターンについて論じるということです。)
1_3_1_1.(順序数の和以外の)順序数の演算
1_3_1_1_1.順序数の積
順序数の積は
「順序数 β と順序数 α の直積をとる。
するとこれは、辞書式積における整列順序に従う、整列可能集合である。
整列可能集合と同型である、一意的に存在する順序数がとれる。
この順序数 γ を、α と β の積とみなす」
となります。
順序数の和の時より、「0 の単元集合」や「1 の単元集合」などを用意する類の細かいテクニックを考えなくて済む分、簡単になっているとも言えます。
***
順序数の積について、順序数 α に対して
「α×0の場合」
「α×通常の順序数の場合」
「α×後続順序数の場合」
「α×極限順序数の場合」
で挙動が異ならないか確認するのは大事なことです。
具体的には以下の通りになります。
「α×0の場合」は、順序数の積は0と等しくなります。
これを最も初歩的な「α×通常の順序数の場合」の順序数の積とします。
「α×後続順序数の場合」は、その後続順序数と等しい回数、順序数の加法を反復的に適用したものが、順序数の積となります。(つまり、αを後続順序数回分足します。)
「α×極限順序数の場合」は、α とその極限順序数未満の順序数のどれかを掛けたものの中で『上限』であるものが、順序数の積です。
これらを合わせて考えると、具体的でかつ申し分のない、順序数の積ができます。
***
冷静になってみると、
「α×後続順序数の場合は、その後続順序数と等しい回数、順序数の和を反復的に適用したものを、順序数の積とする」
ということが、実はまたしても超限再帰的函数の具体例だったりします。
(ややテクニカルな話をします。
何かというと、
「α+後続順序数の場合は、その後続順序数と等しい回数、後者函数を反復的に適用したものを、順序数の和とする」
とも言えそうに思えるのです。
が、超限再帰的函数の定義にあらかじめ順序数の和を使わねばならないので、これをやるとズルになってしまいます。)
1_3_1_1_2.順序数の冪
順序数の冪について、順序数 α に対して
「α^0の場合」
「α^通常の順序数の場合」
「α^後続順序数の場合」
「α^極限順序数の場合」
で挙動が異ならないか確認するのは大事なことです。
具体的には以下の通りになります。
「α^0の場合」は、順序数の冪は 1 と等しくなります。
これを最も初歩的な「α^通常の順序数の場合」の順序数の冪とします。
「α^後続順序数の場合」は、その後続順序数と等しい回数、順序数の乗法を反復的に適用したものが、順序数の冪となります。
「α^極限順序数の場合」は、底(α^βと書いた場合、α の方)に対し、その極限順序数未満の順序数のどれかを冪指数(α^βと書いた場合、β の方)として累乗したものの中で『上限』であるものが、順序数の冪です。
これらを合わせて考えると、具体的でかつ申し分のない、順序数の冪ができます。
***
冷静になってみると、
「α^後続順序数の場合は、その後続順序数と等しい回数、順序数の積を反復的に適用したものを、順序数の冪とする」
ということが、実はまたしても超限再帰的函数の具体例だったりします。
***
また、順序数の冪には、指数計算を使う方法もあります。
和を求めるために加法を使い、積を求めるために乗法を使いますが、これらと同様、冪を求めるには指数計算を使うのです。
とはいえこれも順序数全体の真クラス上の超限再帰の応用です。恐るるに足りません。
順序数全体の真クラス上の超限再帰としての制限に、冪指数に使われている順序数を使う、というところさえ気を付ければ大丈夫です。
ですので、これ以上特に説明しません。
具体的な場合分けの方の話はちゃんとします。
これも、順序数 α に対して
「α^0の場合」
「α^通常の順序数の場合」
「α^後続順序数の場合」
「α^極限順序数の場合」
で挙動が異ならないか確認すればよいのです。
なお、函数として問題なく使うために、
「そもそも順序数と関係ないものを始域側で入れられた場合」
の例外処理を書いておかねばなりません。そこだけは要注意です。
「α^0の場合」は、指数関数の像は 1 と等しくなります。
これを最も初歩的な「α^通常の順序数の場合」の指数関数の像とします。
「α^後続順序数の場合」は、その後続順序数と等しい回数、順序数の乗法を反復的に適用したものが、指数関数の像となります。
「α^極限順序数の場合」は、底である α に対し、その極限順序数未満の順序数のどれかを冪指数として累乗したものの中で『上限』であるものが、指数関数の像です。
つまり、指数関数の像こそが順序数の冪です。
(例外処理では、指数関数の像は 0 と等しくなります。
「そもそも順序数と関係ないものを始域側で入れられたら、それは無意味であるので、空集合と同じ意味になる 0 しか返さないようにしよう」
ということです。)
これらを合わせて考えると、具体的でかつ申し分のない、順序数の冪ができます。
***
もう一つ、方法があります。
函数集合の始域と終域を共に順序数にしたものを考えると、実はこのような函数集合は順序数の冪と酷似した性質を持ちます。
ただ、条件が緩いので、一致はしません。
そのため、一致させるために、いくつかの条件を設けねばなりません。
順序数から順序数への函数集合の要素は、順序数から順序数への函数に他なりません。
これにある順序数を入力したら、また何らかの順序数が像として出力されます。
さて、この像が0でなくなるような、始域側の順序数を考えます。
(これをしないと、今から言う方法論を使うと、0の冪というものができてしまいます。
考えると面白いかもしれませんが、面倒なのでやりたくありません。
ちなみに、この始域側の順序数そのものは0でも構わない、ということに注意してください。像が0だと面倒になるというだけです。)
今回、このような始域側の順序数の濃度は、順序数としての自然数全体の集合より小さくあってほしいのです。つまり、自然数であってほしい。
こうした始域側の順序数と、0でない終域側の像である順序数を扱う函数全体の集合は、順序数から順序数への函数集合の部分集合となります。
さて、ある特殊な関係を構成します。
上記の部分函数集合に所属する、互いに異なる函数 f と g を用意します。
様々な始域側の順序数によって、これらの像が等しい場合や異なる場合が存在することでしょう。
ここでは像が異なる場合がいくつか存在したものとします。
つまり、函数 f の像に比べて、 g の像が、より大きいか、より小さいかのどちらかとなります。
それらを集めたもののうち、始域側の順序数がその中で最大である場合、これら異なる函数の像のどちらが大きいかを見ます。
上記の条件下で像が大きい方を「特殊な意味でより大きい」ものとして扱うことにします。
つまり、「特別な意味での大小関係」がある、とみなします。
この条件下で、上記の部分函数集合で、この特殊な意味での大小関係を満たすものを考えます。
これは、以前に辞書式積で見たのと似た理由で、整列可能集合となります。上記の部分函数集合を、とにかく全部この特殊な意味での大小関係で並べればよいのですね。
後は、辞書式積と同様に、この整列可能集合を順序数と対応させるだけです。
「この」順序数が、すなわち、順序数の冪と一致するのでした。
奇妙な話ですが、こうして条件をいくつか追加することでも構成できるのですね。
1_3_2.自然数の演算
1_3_2_1.自然数の和
自然数の和は、順序数の和を、自然数に限定したものです。
少し面倒な話になりますが、順序数の和は自然数より面倒で、交換律がありません。つまり、項目の入れ替えが効きません。
1_3_2_2.自然数の積
自然数の積は、順序数の積を、自然数に限定したものです。
少し面倒な話になりますが、順序数の積は自然数より面倒で、交換律がありません。つまり、項目の入れ替えが効きません。
逆に言えば、自然数の積は、項目の入れ替えが効きます。
***
(ここから、数学「教育」上のとある教説(ドグマ)の話をします。
よくわからない方は飛ばした方がいいところです。
そうであることをあらかじめ申し添えて、なお下の記事を、益体もなく書くものです。)
「単位があれば入れ替えできなくなるではないか」
と誰しも思うところです。
このため、単位のない掛け算や単位のある掛け算で、入れ替えしなくていい場合と入れ替えしなくてはならない場合を統合的に扱って、教育時の負荷軽減に寄与したい、というニーズがあります。
これらの事情により、「一律」入れ替えできなくしたい派閥というのが、実は存在します。
まず、これは数学における「実際の」演算上の挙動と異なります。
その意味で、これは端的に妥当性を欠きます。
実態と異なる主張は、世間的にも偽でしょう。
少なくとも、真か偽のみがある二値原理を採用している論理体系(通常の矛盾許容論理・直観主義論理・古典論理)の意味論では、明確に偽です。
***
「偽だろうが、方便としてはこちらが適している」
といいたくなる人もいるでしょう。
ですが、それは、上の目的に照らし合わせて、現実に出力された場合、
「場合分けをした方がいい場合に、場合分けをしなくて済むがごとくする」
という話になる訳です。
現にそういう運用が、何なら肯定的な文脈で散見されます。
平たく言って、場合分けのスキルというものは、社会でとてつもなく役に立つものです。
逆に、これをないがしろにすればするほど、社会ではやることなすこと雑になります。
場合分けをしない場合のデメリットは、場合分けをしないメリットより、ふつう大きいものです。
(卑近な例ですが、
「プライバシーに踏み込まれた際、「親近感により距離感を詰めてきた」と好意的に解釈してくれて、歓迎してくれる相手」
と
「プライバシーに踏み込まれた際に、トイレ中に踏み込まれた時くらいの生理的嫌悪感を抱く相手」
がいます。
場合分けを無視してどちらかを一般化すると、処世でひどい目に遭います。
前者を徹底したら人間関係上の脅威となってしまいますし、後者を徹底したら全員が他人であるような人間関係しか築けなくなることでしょう。
「どちらがマシ」
というのは、一人一人の中にはあるかもしれませんが、一人一人の価値判断を万人に一般化できるかというと、それはどうあったって無理な話でしょう。)
(そもそも根本的に、
「そこは場合分けしなくてもいい、とにかくこうしろ」
という話が通用する事態自体が、特別な場合です。
一般的にこれが通用するという話はありませんし、
「一般の中で何らかの特殊とそれ以外を分けること」
自体が場合分けそのものであり、だから
「場合分けしなくて良い場合の例示(と妥当性を問われる一般化)」
は、場合分けから何ら自由ではありません。)
***
さらには、これは
「「常に」いちいち順序を考えなければならない」
という、およそ非効率の極みのような思考負荷を強います。
この手の強迫観念は、私も仕事に追いつめられるとしょっちゅうなりますが、そういう時に作業効率と正確性が上がるかというと、壊滅的になります。
当たり前です。出力上は差異のないことに、余計な思考を勝手に割けば割くほど、疲弊するし、出力を維持できなくなる。
***
そういう方向性に導く話、支持する理由がない。
場合分けに慣れることは、状況への対応と思考負荷軽減のために、ふつう決定的に必要なスキルです。
それは教えないと社会生活にダメージがあるもので、おそらくどのジャンルに進んでも付きまとうトピックでしょう。
それをしないことを、負荷軽減と称するのは、理解に苦しむ、というのが正直なところです。
「教える側」と「ここでつまづいて落ちこぼれている側」にはメリットがあるのでしょうが、「理解できるのに誤解した、新たに落ちこぼれた側」をべらぼうに増やすことでしょう。
落ちこぼれ側を増やすことが、教育に鑑みて、肯定されるのでしょうか。むしろ、極めて通念に反するように思います。
***
(それにそもそも、小学校算数では、単位のない数同士の積を当面扱うのです。
単位のない数同士の積を、単位のある数同士の積のように扱うこと自体、数学としては
「実際にはそうではないのに、あたかもそうであるかのごとくする」
思考負荷を強いる、脱落への道です。この手の話はさっきもしました。
こちらの理由を鑑みても、やはり支持する理由がありません。)
1_3_2_3.自然数の冪
話を戻します。
とはいえ順序数や自然数の演算の紹介はこれが最後になります。
自然数の冪は、順序数の冪を、自然数に限定したものです。
これに関しては、順序数の冪も、自然数の冪も、項目の入れ替えが効きません。
冪 α^β における底 α と冪指数 β は常に交換できません。
2^3=8で、3^2=9で、これらは別のものです。
そういうことで、慣れましょう。
1_4_1.自然数の冪集合の基数が、元々の有限基数より大きい基数であることを、カントールの定理と自然数の冪を使って求める
さて、ここまで話した通り、
自然数の冪は自然数の積の繰り返しであり、
自然数の積は自然数の和の繰り返しであり、
自然数の和は後者函数の繰り返しであり、
自然数は0か後続順序数です。
何が言いたいのかというと、
「自然数の冪においては、極限順序数は出て来ない」
ということです。
つまり、自然数の冪は、自然数の一種のままです。
***
順序数の冪集合を取ると、その基数は、順序数の冪、特に2の順序数乗と一致します。面白い性質です。
ちなみに順序数としての自然数の冪集合の基数は2の自然数乗と一致します。
***
実際に 3 = {0, 1, 2} の冪集合を考えましょう。
冪集合は部分集合全体の集合なのでした。
3 = {0, 1, 2} の部分集合は
{}, {0}, {1}, {2}, {0, 1}, {0, 2}, {1, 2}, {0, 1, 2}
の8つあります。
2の3乗は8なので、正に上の
「集合としての自然数の冪集合の基数は、2の自然数乗と同等である」
という話そのものです。
***
さて、順序数としての自然数全体の集合は、極限順序数なのでした。
つまり?
0か後続順序数である、自然数の冪集合と比べて、濃度がより大きいのです。
そうなると、
「この超過関係は、基数においても成り立つのではないか?」
と思うところです。
1_4_2.有限基数より大きい基数
さて、カントールの定理を有限基数に適用し、1_4_1. の記述を検討していきます。
「有限基数を特に順序数における基数(この場合は何らかの自然数における基数)として見立てた場合、その何らかの自然数より大きい濃度の集合がある(少なくとも冪集合を取ればよいし、その他のケースも排除しない)」
ということを、上の項目は説明していると考えて良い訳です。
基数における超過をこれに適用すると、
「ある有限基数より大きい基数を持つ集合がある」
となります。
(ただし、その集合が何なのかを確定するためには、選択公理(と等価である命題全般)を使わねばなりません。
ということで、ある集合(有限基数であることを期待しているので、有限集合とします)より大きい基数を持つ別の集合について考えます。
冪集合なら間違いないのですが、その他のケースももちろんあり得ます。
例えば、その種の集合全体のクラスとか、です。
例えば、さっきも書いた通り、特定の自然数の何らかの冪と比べて、自然数全体の集合の方が、より濃度が大きいのでした。
これに上の論法を使うと、特定の自然数の何らかの冪と比べて、自然数全体の集合の方が、より基数が大きいということも言えます。
つまり、特定の自然数の何らかの冪や、自然数全体の集合が、ある有限基数を持つ特定の自然数より大きい基数を持つ集合の、具体例となります。)
2.次回予告
選択公理で、何らかの順序数としての自然数より大きい集合として、順序数としての自然数全体の集合、"omega-0" を使いたい気持ちにかられます。
そうすれば、きっと基数としての自然数全体の集合、"aleph-0" が得られるでしょう。
順序数としての自然数全体の集合の基数、すなわち "aleph-0" は、自然数の一種にとどまる自然数の冪集合における基数よりも、大きくなければなりません。
自然数の冪集合といえども、結局は自然数、有限順序数の一種であり、順序数としての自然数全体の集合に所属するものだから、基数がより小さくなければおかしいのです。
***
どうもいけそうな流れですが、これを言い切るために、あといくつかの性質について、説明しなければならないのです。
次回はこれを済ませて、ようやく基数としての自然数全体の集合、"aleph-0" を構成したいと思います。よろしく。
(続く)