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随筆(2020/8/7):応答時の会話文は相手の前の話題に依存して意味を持つので、文単体だけ見ても正確な意味にならない

A「俺は39未婚男性だが、お見合いするからには、一応幸せな共同生活をやっていける人との縁談に持っていきたい訳よ。
特に幸せでない共同生活だと嫌だし、不幸せな共同生活だともっと嫌だし。
まして、共同生活をやっていけないなら、実質独り暮らしと変わらんのだし、立場のことだけ言うんなら、書面上の婚姻だけで良くないっすか、となるので…」

B「はあ。39未婚男性が、そんな高望みをするの、虫が良すぎませんか」

A「は? あれか? 要は、39未婚男性が幸せな共同生活を望んだら、それは高望みだから、いけない…と仰有る…???」

B「そんな話はしていない。悪意で取るのやめなさい」

***

さて、この会話のうまく行ってないところを、振り返ってみましょう。

Bの言うことは、一見もっともなんですよ。

「高望みであり、実践として『禁じるかどうかはともかく』やらない方が良くはある」

という話と、

「高望みであり、実践として『禁じられてしかるべき』である」

という話は、だいぶ違います。

イスラム法学の義務規定の区分でいう、
『ワージブ/ファルド(義務行為)』
『マンドゥーブ/ムスタハッブ(推奨行為)』
『ムバーフ/ハラール(許容行為)』
『マクルーフ(忌避行為)』
『ハラーム(禁止行為)』

の並びで言うと、忌避行為禁止行為くらい違う。
(イスラム法学の義務規定の区分は、生活の上では使いやすく便利なのですが、丁寧に見るならもっと解像度を高めないといけないでしょうね)

文単体で見れば、真面目に言えば、こうなる。

***

しかし、もう一度、今度は会話の前に着目してみましょう。

Aは「このようにしたいという目的意識がある」と最初に言っている訳です。

で、Bはそれに何か言いたいことがあるし、特にこの場合に関しては、平たく言えば、異議がある訳です。

上の5段階ですが、これは解像度をかなり高く取ったものであり(足りないけど)、たいていこんな解像度を人は採用しておりません。

解像度を極端に落とすと、実際にはしばしば、
許容行為以上は、やることを妨げられない『肯定的行為』であり
忌避行為以下は、やることを妨げられうる『否定的行為』である
という解像度を採用している人、かなり多い。
(肯定的行為とか、否定的行為とかは、私が勝手に呼称しているものです)

このレベルでの解像度では、忌避行為と禁止行為は同じカテゴリーだし、これを区別しようという話は、この解像度では何の意味もない。
だって、忌避行為だろうが、禁止行為だろうが、変わらずBは、そのやることについて、「妨げられうる」という態度のままだからだ。
その強度が激しくないか激しいかだけの違いに過ぎない。
いずれにせよ、「妨げられうるし、これに抵抗しないと、実際に妨げられた時にどうにもならない」と考えるべき局面だ。
そこに加えて何の御託を弄しても、ここは何も変わらない。
じゃあ、そういうことをやればやるほど、「御託を弄したクソ」ということになってしまう訳だ。

***

そもそも、異議を唱えるということは、しばしば警告と同じように扱われることが多い。
警告している人は、たいてい嫌悪感があるからそういうことをしているわけだ。
そして、嫌悪感を抱いている人は、しばしば余裕がない。こんな不快感に耐えたくない。耐える謂れがない。
なんか引き延ばしにかかって、その不快な行為をやめようとしないやつには、直ちにそうした行為への妨害が許されてしかるべきだ。そう考える。

で、外形的には、
「警告する。それは妨げうるものだ」
ということは、
「警告する。それをやったら妨げるし制裁する。あらかじめ、やるな、ということだ。つまりは禁止である」
ということとすら、日常的には区別しがたい訳だ。

「嘘だろ!?」
と思うかも知れない。でも、よくあることだ。

そもそも、異議を唱えることと、警告を出していることと、「これでダメなら直ちに制裁するつもりだ」と暗示的に威嚇することの間に、区別があるか。
実際には違いますよ。でも、これを、5秒以内に答えろ、という判断を強いられるとなると、それはまた別の困難をはらんでくる。
こんな(ヘマこいたら制裁される)危険な判断を、直ちにしなければならない時が、しばしばあるわけだ。

正確さを犠牲にしてでも、数秒後に制裁を受けないことを重んじるなら、
「起こりうる事態の中でも、確率の低くない限りにおいて、最悪の事態を予測して、それを避けるべく動く」
というのがふつうは暫定的最適解ですよ。
過剰な心配だろうが、ベタオリして安全牌だけ切るのが大正解ですよ。こんなん。

そんな時に、
「これは単なる忌避行為なんですか、それとも禁止行為なんですか」
と呑気に訊いてくる、不快行為人間を前にしたら、かなり高い確率で、直ちに制裁が実際になされる訳だ。
そこまでして測る正確性に、なんか、メリット、あるか?

訊いたら罰せられうるから、訊くだけ損であり、異議が出たら初手で直ちにやめる。これが暫定的最適解であろう。
特に、相手への理解も相手との信頼関係もまだない場合は、この理屈を採用しない理由がない。
分からないし信じられないのに、なぜ何事も起こらないと思えるのだ? 油断が過ぎる…

***

そんな訳で、実は、解像度は高ければ高いほどいいという訳ではない。

目的に合わせて、適正に合わせなければならない。
会話の上では、相手の目的にも合わせねばならない。

ここが、要だ。

これが出来てないなら、そりゃあ会話はこじれるだろう。「そんな(レベルの)話はしていない」ということがしょっちゅう起きるだろう。
こんなことは当たり前で、相手の目的にそぐわない細かい解像度は、相手にとっては本当に誤差でしかないからだ。
誤差でないと思っているのは勝手だが、それを考慮したら、なんか目的に鑑みて、大勢に影響があるのか?
たいてい、そんなものは、ないのではないか?

だから、ここでごたごた言う人、
「自分の目的に鑑みれば、大勢に影響のない、そんな誤差のことでごたごた言う、自分の話を聞いてないし分かってない人」
ということになってしまう。

相手のシンプルなニーズの話を聞くと、低解像度人間呼ばわりして、会話をせずに「自分は高解像度人間である」と称してマウントする人、いる。
こうした高解像度ワナビー、相手のシンプルなニーズは、要は妨げられてもしょうがないものである、と言い放っているだけだ。
当然、この時点で、実践的には敵対行為と捉えられても、何もかもしょうがない。
要は妨害行為をしているのに、敵と思われたくない? 敵と思われないような信頼関係、ちゃんと結んできたか? ダメならそりゃあふつうに敵視もされよう。当たり前ではないか。
しかも本人には、宣戦布告をしている意識はない。下手すると、マウントしている意識すらないであろう。そういうところへの解像度は低い。ワナビー! かなり厳しい気分にさせられる。

『解像度を高めて具体に寄せる』
『解像度を落として必要最小限の抽象に寄せる』

「両方」やらなくっちゃあならないってのが「会話」のつらいところですね。
ま、いずれにせよ、やらなならんのですが…

柔軟に、やっていきましょう。

(いじょうです)

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