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【コラム】映画「ノットゥルノ/夜」ISIS紛争下の中東を描く圧巻の映像詩(第33回東京国際映画祭ワールド・フォーカス部門より)

第33回東京国際映画祭が2020 年10月31日(土)~11月 9日(月)に開催されます。会場は、六本木ヒルズ(港区)、東京ミッドタウン日比谷(千代田区)ほか。新型コロナウイルスの影響で、今年は賞を競うコンペを取りやめ、コンペ3部門を統合した「TOKYOプレミア2020」部門を設置。国内、アジア、欧州などの新作32本を上映し、全作品の中から観客が投票で「観客賞」を決定します。また、 開幕日恒例のレッドカーペットもなく、代わりにオンラインによる新たな試みを企画するなど、いつもとは違った映画祭となりそうです。

第33回東京国際映画祭予告編 33rd TIFF Trailer

開催目前に迫るいま、たくさんの貴重な上映作品の中から、 ジャンフランコ・ロージ監督のドキュメンタリー映画「ノットゥルノ/夜」(海外映画祭の受賞作などを集めた【ワールド・フォーカス】部門より)のテディ・ジェファーソン(Teddy Jefferson)による作品批評を紹介します(訳:高見一樹)。



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Notturno A documentary by Gianfranco Rosi 
Teddy Jefferson
New York October 2020
訳:高見一樹


歴史を知らない者が歴史を繰り返してしまうと私たちは教えられるが、人の行いはその反対も真であることを示す。知っていることを我々は実行する。歴史を知るということは、何が歴史を繰り返させたのかということ。この歴史の教訓は、繰り返される残虐行為、あるいはISISの中で目覚める人生についてのドキュメンタリーにとってどんな意味があるのだろう? 芸術作品は繰り返される出来事の予防接種足りうるのだろうか ? 免罪は価値あるゴール足り得るだろうか?つまり他人に起こったことに何らかの行動を起こしたという幻想を持ってして聴衆の罪悪感を和らげるのだろうか。
 ISISは、類のない挑戦を挑んでくる。高度なデジタル技術の最新のものを使い、米国のイラク侵攻が生み出した真空地帯に、文字以前の全体主義ー原理主義の社会を築こうとしている。野蛮を伏せるどころか、ISISは新兵が彼らの大義を理解できるように、虐殺や、斬首の動画でYouTubeを溢れさせた。
 ISISの登場を、世界の慢性的機能不全の一つとして異常な出来事だとするのは誤りだが、彼らが異端者とみなしたものの根絶を正当化するスケープゴートの政治、そして批判的な思考に歯止めをかけ、代替の真実を播くそのソーシャル・メディアの使用は、米国を含む世界でますます見られる慣行である。
 ポスト啓蒙主義の社会は、7世紀の神権政治への回帰の意思に抗する思想の戦争に簡単に勝利するだろうと望んでいた。しかし我々が生きているのは、トランプをはじめとする世界の指導者の多くが、反ユダヤ主義についてのエッセイにサルトルが書いたことを成し遂げてしまった時代なのだ。彼ら指導者たちの議論が荒唐無稽だという事実に惑わされてはいけない。サルトルは書く、彼らの目的は理性による説得ではない、対話を完全に行き詰らせることなのだと。いったん彼らが勝利すれば、理性そのものがあらゆる力を失う。

 こんな状況の中で、ドキュメンタリーはどうすれば効果的なのか?どんな言語を用いることができるのか?

 理性の腐敗、共感能力の衰えに加えて、あなたが手にするのはこの監督が持っていた“Nottruno”を織る針だ。人間社会に残虐行為を阻止する能力が欠けているにしても、この社会は、残虐行為を制圧しようとする気持ちに簡単に水をさす。
 ジャンフランコ・ロージがこの映画で採った戦略は、かくして、リアリズムの反映だ: 彼は映画形式の伝統的モード、言葉や映像で恐怖や不平等を描くことは、もはや効果的ではないと認識していた。描写の倫理は爆破されたのだ。磁石に近づきすぎたコンパスのように、理性の極性は撃たれた。

 そして、このようにISISによる統治の地獄の後遺症にどっぷり浸かった“ノットゥルノ”には、ISISへの痛烈な批判の一つも、彼らの支配の分析も、残虐行為のクリップもない。

 “ノットゥルノ”には、暴力の映像が一つもない、軍による征服と弾圧の効果についてのドキュメンタリーである。最も暴力的と言えるのは、女性兵士が、夜、携帯電話で見ている戦いや、心を病んだ患者たちを鼓舞しようと彼らの祖国の歴史の様を見せる映像だ。それどころか、ドキュメントの主題であるISIS統治下での経験に関する直接的なコメントが一つもない。これ故に―むしろそのために―それはあの現実を描くのにとても効果的なのだ。
 W・G・ゼーバルトは、彼の第二次大戦以降のドイツの状態についての研究、『破壊の自然史について(未邦訳)』の中で、以下のような表現を用いる。「理解可能な言葉使いで表現することができない世界…」、「大衆が解読(不)可能な経験…」、「回顧的理解の抹消」。ある世代全体に及んだ、彼らの生活を支配した状態には何の言及もなされなかったのだ。
 今日の私たちにはより関係が深い、1918年のスペイン風邪の流行の生存者は、100歳に近づいた時、そのトラウマがあまりにも過酷だったので流行が終わってしまうと、誰もそのことについて語ろうとはしなかったと述べた。その当時、少女だった彼女はこのことが不思議だった。大人にしてみれば、しかしながら、そのことを考えるのはあまりにも痛ましく、不可解だったのだ。
 ISIS統治からの生還者たちは、彼らが切り抜けた惨事から受けた精神的なショックによって沈黙してしまっていたのかもしれない。しかしもし監督が真実を捉えたいと思っていたのなら、これがその真実だったのだ。かくしてロージのアプローチは、彼の取材対象者たちの条件と、彼の西側の聴衆を条件づけること両方への返答だった。“ノットゥルノ”に登場する人物がISIS下での生活の恐怖を描写していたなら、彼らの言葉は西側の聴衆の関心を全く得られなかっただろう。というのも西側の聴衆というのは、メッセージの病(fatigue)によって感情移入の病がさらに悪化しているのに加え、真実自体も信用できないのである。また別のアプローチが必要だった。

 二つのシーンが、事態の緊急性とそれを一体どのように見せるのかとの間で、監督のアプローチに現れた緊張を描く。

 子供が、吊るされて斬首された死体の書いた彼の絵の脇に立つ。彼はアート・セラピストに描いた物を説明している。 たどたどしく、つっかえながら、目の前で起きた殺戮と拷問を説明している時、彼のトラウマが、極度な吃りとなって現れる。
 もう一つは、この地域の現況を唯一ダイレクトに紹介するシーンだ。二人のクルド人が直近のキルクークでの攻撃について議論している。「もし、ISISが完全にやっつけられなかったら」と一人が述べる。「状況は2014年に戻るだろう。」
 この二つのシーンの間にー少年と彼の絵、そして戦争を語る兵士たちーに、“ノットゥルノ”が糸を通す。彼が描いた残虐行為について語りながら、これは起こったことと少年は言う。これはまた起こりうると、兵士たちは言うーあるいはもうすでに起きているのだ。
 映画には、隠された警告にむけた二つ方針の柱がある。新たな、ゴロつき政権にその標的とされたマイノリティーを虐殺させない。そしてISISが実践するスケープゴートの政治が、多くの世界の指導者たちの実践するスケープゴートの政治とは全く異なるなどと想像しない。

「ノットゥルノ/夜」トレイラー

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イタリア語で、ノクターナルとノクターンの両方の音楽形式を意味するタイトルが、まず最初に監督のアプローチを示す。彼が照準を合すのは、何もおこらない時間、あるいは時間の間、隙間、見えないものではなくて見過ごされているもの、舞台裏、アウトテイク。これは注目すべきことだし、おそらく今日の西側のような、「テイクアウト」や「ニュース速報」に釘付けで、詳細な研究ができないほど謀殺されて、何が重要かについての要約や説明書が必要な文化にはショックでさえある。“ノットゥルノ”は、知る前に見るプロセスの記録である。それは過激なほどに異質な世界との邂逅、それが引き寄せられて、その内側から記録するある意識と感性のプロセスである。ショットが含んでいるもの、それが意味するものを知ることができるのは、後でショットを初めて見た時だけだという監督の疑念を暗示する間(ま)と忍耐がショットにはある。その結果が、親密さと距離感の不自然な均衡なのだ。監督の衝動が、受容の可能性を最大限に引き上げる。かくして、シーンがさらに展開し、映像の奇妙な重力、極度の解像度、あるいは視覚域の深さの感覚が発生するシーンの様々な効果。
 観衆の心は満たされて、信頼が増す。観衆は語られるのでも、導かれるのでもない。それぞれの場面は、無傷で、完全で、干渉のない、音楽やコメント、あるいは暗示もないまま聴衆の前に置かれる。ゴールは、変容でも、驚きでも、愚弄や感動でもない。ゴールは、見せることであって感じさせることではない。同様に見ることが感じることよりも優先されなければならない。


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初めてノットゥルノを鑑賞すると、この映画が異なるモードの映画だという感覚が生じる。この印象は二度見るとさらに深まる:プレゼンテーションのモードと精神への効果が異なるのだ。どんなふうに?
 開始のシーン。どこにでもあるような風景の夜明け、あるいはもしかすると夕暮れ。隊列になって走る兵士の一団が、我々の後ろから現れる:階級、所属も国籍も不明、軍人の服装をした三、四十人の男たち。彼らは走り過ぎて、フレームから消える。少し経つと別の集団がフレームに現れて去っていく。我々は考える、その度にこれが最後だと。しかし、しばらくするとまた別の集団が近づいてくる。とうとう、フレームは空っぽで、静かになる。私たちは、二つのことを観ていた:訓練中の軍隊とその地域の歴史。一つ戦争が終わったと思ったら、私たちは次に備えている。軍隊の後に軍隊、の後にまた軍隊。事実、この短いシークエンスは、次の隊列を予期するようにすでに私たちを条件づけ、隊列の音は聞こえていないのに、聞こえていると考えている。
 次のシーンは反対方向に動く。私たちに向かってくるのは、年齢不詳の、コンクリートの要塞のように、白く頭を覆う、黒いドレスの女性たちの集団だ。老いた、重々しいが、慎重な動きで、画面の四方八方に散っていく。彼らの表情は険しく、緊張しているが、そこには理解し難い感情が混じっている。女性たちは、『復讐の女神』といった古代ギリシア劇、あるいは『女の平和』、『トロイアの女』から飛び出てきたかのように登場する。ある女性が彼女の息子がここで拷問されて殺されたと嘆き悲しみ、女性たちは泣き、目を擦る。その女性は壁の中に彼の息子の気配を感じると言い、壁を背にして立って、鳥のように、あるいはカマキリが羽の表面を挽くように、両腕を伸ばして、開き閉じている。すると彼女は動きを止める。彼女は息子をもう感じてはいない。
 兵士が去り、母親たちが入ってくる。同じ機械のパーツのように、男たちは回って画面の左へ消えて、女たちは右から入って交代する。踊りの振り付けのようにこれ以上ないほどに精確だ。シークエンスの論理もそうだ。: 男たちは戦って死ぬ ; 女たちは産み、悲しむ。地図、名前、軍服がなんであれ、これが本質であり、これからもずっとそうのだ。映画は何も前提とせず、何の説明もなく、何も強制しない。
 過去三年の間に撮影されたのに、シークエンスに同時代のリアリズムを感じない。二番目のシーンは、モダニストの踊り、あるいは実験劇場のようだ。それは例え話、あるいは作り話、あるいは儀式的でさえあるのだが、この三つに全く該当しない。こうしたモードはあまりにも抽象的だ。登場する人々はシンボルでもない、代役でもないし、登場人物でもない。むしろ元型の、元素の、永劫の具体性が彼らには宿る。もっと簡単に言えば、彼らは彼ら自身なのだ。
 この些細な変化によって、こうしたシーンの効果がどのくらい違ってくるのか、よく考えてもみたまえ : もしロージが、日付や撮影場所の名前をそれぞれシーンの前に挿入するドキュメンタリーや話題の映画に共通の慣習:例えば、2018年イラクーシリア国境、あるいはアル・ワアディ刑務所、イラク(でっち上げられた)のようなこうした慣習に従っていたとしたら。捉え方のモードは全く違っていただろう。観衆は、まず与えられた情報にそれぞれのシーンを合わせようとするだろう。観衆が物語を組み立て始めると、彼らは見るよりも想像し、もっと投影するようになる。文字通り、映像は二次的になり、映画が押し進める、ある仮定を支えるようになる。“ノットゥルノ”では、その代わりに観衆に示されるのは、映画の撮影場所(イラク、クルディスタン、シリアとレバノン国境沿い)とこの地域のイシスに行き着く歴史についての15文字程度の描写、冒頭画面の二、三行だ。それ以上はない。ある程度までは、ロージは、完全に異質で不明瞭なある現実へと踏み込んでいくという彼自身の経験を観衆の中に再現する。この戦略は、最後まで続けられて、これがドキュメンタリーであるのであれば、彼の目的は何のかという問を提起する。映画の形式や美学的革新がいかなる政治的関連性よりも重要なのかどうかを問うことには意味がある。
 情報のコントロールは、この戦略の核心である。映画制作の別分野からの参照にではあるが、ミステリーとサスペンスの本質的差異である情報の役割についてのヒッチコックの着眼点とのある有効な並行関係がある。
 「映画の登場人物よりも観衆の方が知らないとき、ミステリーなのだ。その逆の場合が、サスペンスなのだ」。後者の構造は、悲劇の反語法にも当てはまる : ソフォクレスの「オイディプス王」は、例えば、王の都市に広がる疫病の原因、つまり王なのだが、その原因を突き止めようと躍起になる王を観客は見ながら、そのことを知っているのだ。
 サスペンスでは、観衆は彼がこれから見ることになる何かが語られる: 例えば、登場人物の座っているテーブルの下で、五分後に爆弾が爆発するとか。このことを知っているから、オイエディプスと同様に聴衆は注視し、登場人物に極度に移入する。これ故にヒッチコックは、サスペンスは根本的に感情的な形式だとしている。対称的に、ミステリーにおいては、順序が逆になる: 例えば殺人事件では、原因を見つけ出そうとする過程、つまり誰が殺人者であるのか、その過程を辿る。よって、ミステリーはヒッチコックが言うには、知的なーそれゆえに彼にとっては、二流の形式なのだ。
 この対比はゆがんでいる。一方、“ノットゥルノ”では、情報は戦略的に巧妙に用いられるというより、戦略的に差し控えられる。監督は予め君の反応を、知っているわけでも、説明しようとしているわけでも、導こうと考えているわけではない。けれども、監督がヒッチコックと共有するのは、フォーカスの強度であり、もし曖昧なものがあればそれぞれのフレームに何か重要なことが含まれていると観衆に伝わる強烈な凝視である。ロージの映画の何が素晴らしいのかと言えば、この視覚の強度と平凡な物語や理論の欠落が同居していることだ。
 “ノットゥルノ”では、前述した三行の歴史を除く全ての情報は差し控えられる。明らかに、いくつかの情報開示のプロセスが進行中だが、主題だけでなく、映画が生成しようとしていることを知っているというモードですら、明らかにはされない。歴史的事実についての、どんな事実ついても、導入も議論もない、本当に。この人々が誰なのか、我々に持ち込まれたのは誰の生活なのかについても明確ではない。貧弱な導入情報は、それに続いて何かが芽吹く種子ではない。どちらかと言えば、それに続くものは、そのような情報の関連性に異議を唱えるのに役立つのは、つまりピリオドだ。もっと明確には、映画が成し遂げていることは、生活の事実を、平凡は説明や、その事実を知ることから切り離すこと。
 私たちに提示れているのは、単なる生活だ。人々について語られていることをもとに彼らに対する私たちの視線の、イラン人かシリア人、シーア派かスンニ派か、クルド人かアラブ人か、ちょっとした再調整が厳格に回避される。ヒッチコックがサスペンスのレベルで了解する前提条件の効果が何なのか想像するのは容易いだろうー上述のシーア派かスンニ派などなどの、どのようなレッテルの導入であっても、どのシーンの前でも、あるいは登場人物で交わされる対話の中でも、観衆の、映画とその登場人物との関係を即座に変えてしまうだろう。その導入は違いを見分け、偏見を学習し育てること、そしてレッテルが実際に行動や出来事の根底に潜んでいることを容認するある傾向を作り出す。レッテルが、暴力を正当化し、あるいは誘発するために、誘導されて改竄されるのと同じやり方で。名前や境界を取り除いて、暴力の原動力を失速させる。
 それはそんなに簡単なことだろうか。その地域のほとんどの研究にまさに流布していると考えられる、このようないかなる格付けや操作を消去することに、ロージは異なる効果を求めているようだ。いかなる結論、あるいは理論への到達するという励みなない。ゴールは、剥き出しで変調されない、中立不偏の凝視、ある見方を作り出すことのようだ。あたかも監督は、世界のこの場所では、あるいはもしかするとどこでも、事実を知れば知るほど、理解できなくなると結論してしまったかのようだ。
 ではなぜドキュメンタリーを作るのか? そんなにせっせと全ての技術、慣習と望ましいドキュメンタリーの結果を回避してまで。ロージは聴衆の心に何を起こしたいと望んでいるのか?彼にはいくつかそんな目的があるに違いない、さもなければ、彼はテーマとして世界のこの場所を選ばなかっただろう。しかし映画のテーマが、ISIS支配下での人々へのISISの影響だと仮定しても、彼は何をやろうとしているのだろう?

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もし“ノットゥルノ”に二つヴァージョンがあるとしたらどうだろう:これがあり、そしてそれから完全な改造、セットと俳優たちを使ってクレジット以外は区別することができない作品を作る。そんなヴァージョンは違った影響を及ぼすだろうか?例えば「出演:Samira al Haqq (役:Neda Hosseini ‥の母)」といったクレジットを読んだ後で、私たちの見方はどれくらい違うのだろう? もし息子の殺害を嘆き悲しむ女性は、女優が演じているのだと知ったとしたらその効果はどう違うだろう。フィクション、あるいはドキュメンタリーの分類もまた、「実際の出来事に基づく」というよく目にする表示のように予め仕込まれている形式なのである。
 “ノットゥルノ”に沿ってこの疑問をさらに追求すると、ある興味深い可能性が生じる。つまり、もし“ノットゥルノ”が実際にフィクションだった場合、映画制作の語り口のルールをたくさん犯しているので、不備があり役に立たないと、批判されるだろう。第一に、はっきりとした展開がない。ほとんどの登場人物は再登場しないし、そのほとんどは喋り声すら聞こえない。追うべき主人公もいない。私たちは、誰かの内に秘めた考えや意見を知ることはない。それぞれのシーン、あるいはいづれかの登場人物が、あるシーンから次へとどのように関係付けられているのか明かではない。寓話性から非現実性へ、臨床的なものから平凡なものへと至るシーン(見た目)の在り様の移り変わりは、フィクション映画としては、文体的に支離滅裂とみなされるだろう。それでいて、この変則的な組み立てられ方は、繋ぎ目がなく、十分に首尾一貫してると感じる。“ノットゥルノ”のシークエンスの論理的流れを見出すことは不可能だが、その構築性と完結性には、異常なほどの生々しい力がある。
 ロージは以前、ドキュメンタリーとフィクションの境界で制作していて、事実、二度ドキュメンタリーで最優秀賞に輝いた唯一の映画監督だろう。最初が“ Sacro GRA”そして“Fire at Sea”である。“Sacro GRA”での、見え方、進み方、そして展開はとても美学的に洗練されており、その三つの自然な生起は信じ難く、それが人気映画のシーンだったなら、非常にうまくデザインされ、撮影され演じられたと賞賛されていただろう。しかしその映画は、ある場所の住民の肖像として構成されていて、このアプローチは相応しく、容易に受け入れられた。“ノットゥルノ”では、テーマはより複雑で曖昧だ。実際に、ロージ氏が撮影を始めた時、テーマが何なのか、全くはっきりしていなかった。彼が引きつけられたのは、政治的かつ宗教的に厄介な火薬庫で、改善すればするほどますます悪化するというその地域の評判だった。テーマとして魅力的なのは、遍く誤解された場所というよりは、ドキュメンタリーだった。
 しかし、“ノットゥルノ”がドキュメンタリーであるのか、フィクションなのかという考察は重要ではない。もしフィクション映画だとすれば、メディアの全ての要素に対し過激なほど自由で大胆なアプローチが採用された。そして事実、フィクション映画が掻いた痒みを引っ掻いた: 雰囲気、謎、エキゾティシズム、水々しいヴィジュアル、催眠術のようなリズム。しかし、もっと驚異的なのだ。物語が要求する妥当性に縛れらていない。“ノットゥルノ”に集められた本質的に異なるの要素の連続は、氷の結晶化や溶岩の冷却のような、自然のプロセスの不変の正確さで進む。捉えられたのは、観衆が適合するものを見て、合わないものは看過するように仕向ける、物語の領域や物語の還元主義を超えた何かだ。部分が自由なままなのは、シークエンスにおけるその機能が決して明かではないからだ。なぜなら部分は増加するのではなく、増殖するのだから。観衆はこの世界が何なのかとか、どう機能しているのかを始終理解しようとする事実、つまり映画の思考、願うことならば洞察を刺激する能力が、最後のショットにまで続く。逆説的に、出来上がったトーンの範囲や行われた実験はフィクション、明かに商業的フィクションの許容範囲を超えている。あなたは、“ノットゥルノ”を、フィクションのようだが、ドキュメンタリーの権威があると言うかもしれない。そしてその権威はその代わりに形式的自由を制限する。


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嘆く母親のシーンに若い男がバイクでハイウエイを飛ばすショットが続く。景観の唯一の特徴が水平線の遥か向こうに現れる: 油田の二つの炎。この男は戦争の現実とは無関係だ。彼は銃を持っているが、それは狩猟用のライフルだ。湿地に茂る葦に隠した小さなボートを見つけると、遮るもののない水域へと漕ぎ出し、囮りを投げて、上空のカモへと目配せしながら漂う。彼の映像は、この前のシーンの残酷さを柔らげる感情や、路上の喜びや気楽さの、この映画の他では感じられない何気ない生活の自由な感覚さえ即座に生む。草深い水辺に玩具のボートのように浮かぶ囮りが、この感情を引き立たせる。カモを狩るハンターがシーンの終わりに再び現れるとき、その安堵感の必要性は増すが、彼の役割は変わらない。囮りは以前よりさらに意味ありげに見える。囮りはまるで、シンボル、しくじりのシンボルのシンボルのように際立つ。囮りは一羽のカモすらおびき寄せない。囮りは映画に起こる、繰り返される置き換えと二重化を思い出させる:水道管のゴボゴボという音、機関銃の銃声、広大で空っぽの土地を護る兵士たちが見つめる戦いの映像、子供たちが描く残虐行為、トラウマとなった出来事を演じる患者たち。そして今、もう一つの奇妙で説得力のある二重化の映像が、オレンジの空の水平線、その遥か遠くに、まるで二つの太陽のように並んで、脈打つようにどんどん強烈に燃え上がりながら、オレンジに水面全体を反射して、現れる。二つの太陽は川を滑るようにハンターが横切るのを尾行しているように見える。それは二つの遠い油田のガスの炎。この二つの太陽というアイデアには、相応しい何かが、想像し得るであろう限りに強力で、不自然な兆しがある。
 彼の役割は解放をもたらすことなのか?彼が二度登場するという事実は、映画において重要な役だと考えられていることを示しているだろう、彼は喋らないし、ほかのどんな登場人物とも無関係なのだが。私たちが知っているのは、彼が狩をして、オートバイを持っているということだけだ。彼に移入するほど見ないが、私たちは彼と共に感じているのかもしれない。そしてこれが、“ノットゥルノ”のアプローチを理解する手がかりなのかもしれない。ほとんどの登場人物は沈黙している。彼らを見てはいるが、聞くことはないし、彼らが何を考えているのか知らない。ハンターのシーンは、“ノットゥルノ”に本質的なパラドックスを際立たせる:物語も中心的人物もいないが、それは結びつき、高まっていく。
 もう一つ同じように素晴らしく、しかしその機能は謎めいていて映画の中心に自由に漂うようなシーンがある:夜の車が行き交う交差点の真ん中に立っている馬。ほんの五秒程度(それでもすでに今の映画なら長い)だったなら、興味深い細部でありそれ以上のことだったかもしれないが、しかしシーンはたっぷり50秒続く。最初、そのショットはその場所での街の生活の様子を垣間見せようとしたように思えるが、それは続く。馬は時折、通り過ぎる乗り物のヘッドライトに照らされて、フレームの中央で、カメラをまっすぐ見つめている。それは馬だけに許された時間。馬は私たちを直視して、その効果は驚くべきもので、敵意を萎ませる効果をもたらす。馬は異質であるだけでなく奇妙で、馬自身の基準で変質したこの世界を覗き込む部外者、私たちの認証者、観衆の代理人を務めている。私たちのようには話すことができない馬は場違いで、周囲は車が行き交い、無関心に、頑なに、私たちを見返し続ける。したがって、観衆との最も明快な同一化、あるいは鏡像かもしれないその接触感の強烈な実例を、カメラに目も向けず、考えをほとんど表現しない人間よりも、もたらしているのは動物なのだ。時に馬もまた古代の存在だ。地域に生息し、軍用の乗り物で戦車や車が発明されるずいぶん前からの交通手段だ。だから、馬は部外者であり、祖先、そして監督がある会話で言い表したように、神託なのだ。
 もう一つ、異常に引き伸ばされているシーンが、映画の後半に登場して、同じ不安を産む。まるで浅瀬を削る船、停止することなく、沈んだ物体にただぶつかりながらながら進み続ける:底があるという警鐘の効果。アート・セラピストとのセッション中の少女は、イシス占領下での彼女のおぞましい経験を描写している。患者の中でもひどいトラウマを病んだ彼女は、机上に伏せた頭を横にした状態で話す。彼女は子供が泣いた時、兵士たちがどんなふうに殴るのかを描写する。「これが子供達の血」。机上の彼女の絵にある赤い染みのことを話す。セラピストは振り返って彼女を見ると、34秒間たっぷり、何も言わない。これは彼女が泣き崩れるまでその姿にずっと釘付けになる、よくある「お金のかかったショット」ではない。少女とセラピストの二人はじっと沈黙のままだが、この沈黙の中で何かが起こる。子供たちが彼女に描写する恐怖にセラピストは圧倒されたのか? 彼女自身の恐怖心に?あるいはセラピストは何か全く別なことを考えているのだろうか、もっと些末な何かを?これは「口に出せないこと」の認知なのか?それともカメラのせいで、話したり、行うことが彼女にはできない何かがあるのか?この異常な瞬間に、映画はあらゆる可能性、映画が行き詰まらせた可能性、あるいは失敗してここで終わってしまうという可能性に向けて開く。
 あたかもこの時、映画は穴だらけのようだ。それは俳優が舞台上で台詞を忘れて固まっているその時に演技のリアリテイと劇の策略が剥き出しにされて、スペクタクルの支配が疑問に伏される、そんな瞬間のようだ。そんなところでは、誰もが舞台に上がって、乗っ取ることができる。映画では、ある強力な効果をあげるのは、可能性ではなくて、馬のシーンのような瞬間が導入する突然の不安定性なのだ。演劇とは対照的に(少なくともそういう経験のある監督の)映画において、それは考え抜かれたこととして理解されるか、あるいは編集で消されてしまうのだが。

 しかしもしこれらの瞬間が底を削る船だとして、底とは何なのか?

 『夢解釈』の中で、フロイドは、全ての夢には素材が手がつけられないほど込み入って絡まり、解釈不能の場所があると述べている。彼はそれを夢の「臍の尾で。不可知なものへと達する場所」だと言及している。それは不可知なものへの道管だが、無感覚で、密封された、それもまた起源である障壁なのだ。こうした考えが含意することや、さらに良いことには、これらの自己矛盾が、“ノットゥルノ”の魅力的なレンズを作り出す。これらの、すでに描写された”停止”の瞬間は、映画の全てが、実際のドキュメンタリーの映像、つまり“リアル・ライフ”なのだという事実にもかかわらず、解釈されたり、理解されたりすることができない素材を含んでいるということを提示する。
 もし実際に“ノットゥルノ”が、可知と不可知の両方を含んでいるのだとしても、どちらがどちらかなのかが示されない。その凝視は、絶対的に不変で、とはいうものの同時に厳格な形式で、イメージの表現において断固としている:不安定な素材の混合物へのフォーカスの高度な確実性。
 この映画か夢にかかわらず、この底あるいはへその緒が媒体の限界、コミュニケーションの限界、表現そのものだろう。フィクションというよりドキュメンタリー形式、美学よりは認識論、にとってこれは興味深い問題である。他者の観察を通じて何を理解するのか? 我々が前提とし、慣れている理解の形式とは何か?そして別な理解の仕方とはなんだろうか?
夢への参照は、意識と無意識の区別に関する疑問を導入する、そしてそれが回答不能の疑問だとすれば魅力的なのである:映画は無意識をとらえることができるのか、もしそうであれば、無意識は何に似ているだろう?無意識の力によって引き起こされる、チックや爆発性障害のような行動とは対照的に、この世界の無意識を捉えたと言い得るパッセージがこの映画にはあるのか:一体も通過しない非現実的な検問所、虚な歩哨、溢れて壊れている道路の車の流れ、夜、人気のない街路を走る馬?
 監督による示唆や注釈の不在は、対象者たち、すでに記した通り彼らの考えを私たちは単に知らないのだが、彼らの会話の欠如と混ぜ合わされる。“ノットゥルノ”が提示する唯一明快な情報は、アートセラピストのトラウマを抱えた子供の患者たち、もしくはトラウマを負った精神病の患者たちから提供される。良きことから悪しきことを分ける、今日の世界が慣れて、押し付ける決定的瞬間は、留保されている。映画は素材のタイプを分けたり、あるいは秩序づけることはしない。映画は無意識しか撮影していないとさえ言えるだろうし、そしてこのことが表現の固有のモードを説明する。役に立つ概念よりはずいぶんキャッチーだが。
 これまでの議論の多くにさらに不穏なフォーカスをもたらすもう一つのシーンがある。精神病院の廊下で、明らかに障害のある患者が一足一足と、壁を背にして揺れ動いている。そしてその一方で、右側に向かって、南京錠がかかった二つの二重扉のわずかな隙間から断続的に見える、人が見ていて、火のついたタバコの赤が明滅するたびにこのわずかな隙間に顔が現れたり消えたりしている。その第二の男は誰だ?
 監督は、以前登場したその患者を撮影したことにさえ気がついていたのだろうか?どうしてこの扉は錠がかかっているのか?彼らの背後にあるのは何なのか?他の症状の患者の隔離区画なのだろうか?それとも完全に別の施設?大統領の宮殿?刑務所?それはこの世界に隠された別世界への一瞥、そして私たちはそれを立った数秒間目撃し、二度と見ることはない。これはへその緒そのもの、私たちが決して知ることができないこと、観衆への映画の自律性の限界の警告、落とし戸、不可知の水位。


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最初の2つのシーンで始まった戦争というテーマは、文学やアートでは広範囲にわたり探求されてきた唯一のテーマへと向かう: 愛。夕暮れ、屋上の男と女。女は水タバコを吸っている。二人は深く結ばれている。彼女の吸う水タバコの泡立つ音が聞こえるが、もう一つ聞こえてくる音がある:遠くのマシンガンの銃声。一つの音をもう一つの音と区別しようとして目を凝らすと、ふとある時、女の水パイプがその両方の音を発しているように思える。滑稽だが、おそらく、これが武器の音の起源であり、戦争の音の起源でさえあり、恋人との戯れのために、この二つを作ったのはこの恋に落ちた女性だという考えが導き出される。この考えは、偶然のこの音の配置から自然に生まれた。それはシュールだが、同時にもっともらしい。そしてこの暗示、このトリックによって、最初の二つのシーンでの垣間見た戦争の残酷な現実は、難なく変容する。戦争のおぞましい真実は立証されて、そして消される。
 この三つのシーンの三角法は、興味深い:兵士の行進、武装準備 ; 悲しみにくれる戦死した兵士の母たち;もしかしたら単なる幻想だとして戦争の現実を見失わせる、男女の出会い。それぞれを支配するのは、転置の論理:実際のテーマ、戦争とカリフの統治は映らない。そして事実、“ノットゥルノ”全体の中で、唯一の戦いの映像は、携帯電話で見せられる動画、あるいは患者のために精神病院の医者が用意したメドレーなのだ。唯一私たちが目撃する発砲は、鳥に向けて撃ったハンターのもの。
 映画が進むに従って、一層執拗に繰り返されるある疑問を提起する終わりに向かうシーンでは、この転置はより一層顕著になる。私たちは、市街のある場所の廃墟を見る。なんとか名残を保ったビルの、人気のない街路にばら撒かれた瓦礫、膨らんだ壁、窪んだ屋根、窓や扉のようなものはどこにもない。避難や救護ができるような場所もない。(これも、変容の形式だ。)この風景の映像の向こうから、女性の声が聞こえる。それは、ISISに娘を捕らえられた母親が聞いている携帯の伝言メッセージの録音である。やがて明らかになるのは、その事実の後、百回、あるいは千回とずっと再生されているということ。これはおそらく、母が手にした娘の残したものの全てなのだろう、「もしお母さんと連絡をとっていることをISISが知れば、私は殺される。」という最後のメッセージが暗示するように。残されたこの現在に存在はない。それは時と場所の完全な排除、不在の終わりなき繰り返し:声そのものが不在の印、瓦礫がかつてここに栄えた都市の不在を記すように。そしてそれは記憶に留めて置くべきもう一つのこと、戦争における女性の役割、生を与え、悲しむー不在の印となった女性たち自身である。


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水タバコによって変容した戦争のテーマにもう一つの偏光が続く。次のシーンは、夕暮れ時、間に合わせのバラックへと帰る、無言の、武器と用具を持った女性兵士の隊列を写す。彼女たちはどこにいる? 前線? もし戦闘があるのなら、戦場は遠いはずだ、というのもこのシーンは全くの無音だから。女性たちはブーツを脱いで、順に膝をついてお茶を立てるのにも使う灯油のヒーターを囲む。彼女たちはヘルメットを脱いで、薄暗い光の中、2列に並んで、長い髪を頭上へとなびかせ始める。それはあたかもダンスのようだ。エレガントで、的確な、儀式的だが無駄のない、女性の最も元型的な仕草の一つである髪の手入れ、六、七本の手が同時に、無言のまま、螺旋状に動く。彼女たちは全員が疲労を纏い、銃に寄り添って疲労に潜って眠る。彼女たちは誰? 手がかりは何もない。現役の兵士だが、唯一の戦いの映像を写すのは、彼女たちの携帯。朝になると、彼女たちは駅に向かう、何もない世界の歩哨として、そして塁壁の高所から、武装して、一つとして生き物の動く気配のない広大な平原を監視する。
 夕方になると、彼女たちは壕から武装した乗り物に乗って転がり出て、人里離れた屋敷を急襲する。あたかもSWATのチームのように、全くの無音の屋敷を探索して、武器を剥き出しにして部屋から部屋へと急ぐ。このシーンは、この映画に痛々しいまでに欠けているあること、つまり普通の生活を即座に喚起する映画の中では唯一の短いシーンとなる。私たちが目にするのは、大きな二階建ての家、装飾された柱で縁取られた正面扉、カーテン付きの窓、立派な家具、高級木材家具、ベッド、全て以前の暴動で破壊され、照らしているのは兵士のライフルの先についた懐中電灯だけだが、それでもかつての生活の様子が映る。その孤立と原状回復の不可能性は、沈没船の探索を思わせる。そしてそれもまた、もう一つの不在のモニュメントなのだ。
 女性兵士のシーンもまた、まるで非現実的な寓話のように思えるのだがーそれはあたかもヴァレリオ・ズルリーニの“タタール人の砂漠”のように、それほど遠くないイランのバムでの撮影、過激に武装した前哨地、そこでは数十年ものあいだ目撃されていない敵―、彼女たちは、慎重に映画の残りとその地域のリアリティへと編み込まれていく。二人の兵士がISISがそこにまだ存在しているということについて語る、その交わしている言葉によって。
 このシーンは、このテキストの最初に述べたように、この映画の組成と情報のコントロールのされ方に、極度に注意が払われたもう一つの例である:ヒーターを挟んでその両側に敷かれた簡易ベッドから、二人の兵士が言葉を交わす。このシーンはさりげなく て、気が安まる。事実、その見た目を除けば、違う映画の一場面のように、さりげなく、気軽に感じる。一つには、この二人が登場するのはこのシーンが最初で、そしてこれが最後になるということ。第二に、恋人たちのシーンを除けば、本当の会話を耳にする、これが唯一の機会だということ。第三には、シーンはコミカルで、兵士の会話のパロディーのようでさえあるし、憂鬱な周囲の雰囲気を考えれば殊更に際立たせている:機銃掃射手が、マシンガンの常態的な使用からくる腰痛のことを愚痴っていること、道路の窪みに慎重なドライバーへの文句。しかし、この明確に異なるシーンは、映画の他のシーンから注意深く切り離されている:シーンの後カメラが引くと、兵士のいる部屋が小さな灯に照らされた長方形となって、夜景が映る。兵士たちの会話が真剣さを帯びる :イシスがキルクークを攻撃したという。そしてもし攻撃を止められなかったら、彼らが復活するだろう。このちょっとしたシーンは、“ノットゥルノ”に、唯一、今日の政治の現実へと向かう具体的な方向性をもたらす。そして、これ以上は必要とされない。


8


この地域が耐えてきた残虐行為の二つの詳細な表現が、あらゆる論争とイデオロギーの軋轢を避けるような方法で現れる:一つ目は精神病院で、二つ目は子供たちとのアートセラピーのセッション。
 精神病院のトラウマを抱えた患者たちが、おそらく彼らが病院に収容されることとなった政治的騒乱についての劇を演じている。劇は、監修もつとめる精神科医によって書かれた。台本を患者に手渡しながら、彼らの能力を維持するために書いたと、医師は患者に語るー偶然の政治的な注釈にしては、真実にしては出来過ぎだし、滑稽で、苦々しい皮肉だ。マルクスの定式では、歴史はまず最初に悲劇として、次に茶番として現れる:これは三番目の形式だ。言葉は辛辣で、首尾一貫しているし、ドキュメンタリーにおける注釈としては上手くいっているようだが、その効果はここでは逆だ。感情や活気がないのだから、紙の上では的を得ていた歴史的分析は、意味のない、悶々と混乱した状態になる。ただ医者だけが、演技を活気づけるために腕を振り、張り切っている。私たちはごく普通に字幕を読むことができるのみもかかわらず、それを分析することが不可能になる。その効果はパロディーであると同時に悲劇、不条理で不快、ヴォネガットが現実化したようだ。
 しかしこれは効果的なのか?事実に関する何らかの識見や明晰さをもたらそうするのなら、これは失敗ではないか? 事実は依然として重要でなければならない。実際に、“フェイクニュース”や専門家への蔑視と言った、陰謀理論のこの時代に、事実はさらにもまして重要なのではないのか。“ノットゥルノ”は、因果関係や過失責任を立証しようとするもっと平凡なドキュメンタリーと比較して、知性や感情に違った働きかけをするが、ではどのような結果をもたらすのか?もしそのゴールが、問題についての考えや、当該地域や人々への態度を改めることだとすれば、答えは曖昧だ。ISIS統治の残虐行為に唖然とし、また再び残虐が起こらないことを求める人にとって、この映画は、より効果的なのだろうか?映画は、形式的で美学的な戦略に囚われているのだろうか?それともこの戦略が、効果的なものなのか? 何故なら戦略は、思考のサブリミナルな活性化もたらすのだから。だが実際には、映画は、政治的な行動の流れを変えるようなどんな効果をこれまでに発揮したというのか?ポンテコロボの『アルジェの戦い』?バーンズの『ベトナム戦争』?グリフィスの『國民の創生』?スターリンのプロパガンダ?『チャンス』?『バンビ』?
 精神病院での歴史劇は、最近の出来事の映像をアラビアの歌に合わせて上映して終わる。これらは、映画の中では実際の歴史的出来事の唯一のシーンで、映画では平凡なドキュメンタリーのように置かれている。奮起を促すシーンの連続、政治的な動揺や情熱、銅像の倒壊、砲火を浴びる建物、逃げ迷う人々ーまさに歴史の核心。終わりにカメラは患者たち、聴衆の顔にズームインする。“ノットゥルノ”を観る私たちとの比較は不可避だ (もう一つの傷付いた底)。プロジェクターの揺らめく光に照らされて、歪んだ明暗法の、記念碑的な、トーテムのように、巨大な大理石のローマ人の頭のように顔が現れる。通常のドキュメンタリーでは、鑑賞している患者たちの目に涙を見るだろう。平凡なドキュメンタリーでは、患者の目にあるのは涙なのだろう。ここでは、しかし、映画の他のシーンでもあるように、人々の感情は、不可解で、近寄りがたい。居心地のよい世界ではお馴染みの、安易な情に訴える劇は、ここでは可能ではない。次から次へと顔のクローズアップ全てが、緊張した感情を期待し、欲しさえするように私たちを誘導するが、震える唇すらない。このシークエンスは最も厳格で赤裸々な、この場所での生活の描写なのかもしれない:シークエンスは、我々、そしてこのカメラには、手の届かない、知ることができないこと。
 こんなにも凝縮されたシーンに続いて何が映せるのだろう?その次のショットは、すやすやと眠る赤ん坊だ。この世界の重さ、偽りのない生活、あらゆる美と希望と、将来の展望を感じとるには若すぎる、赤ちゃん、未来、次の世代。



歴史の二度目の服用は、ISISの元での生活でトラウマを負った子供たちとのアート・セラピストのセッションに仕組まれている。彼らは、子供たちが経験した恐怖の絵について話している。学校によくあるようなやり方で彼らの作品は壁にテープで貼り付けられている。事実、これは、同時代の西側からそっくりそのままの、この映画では初のセットだ:新しい生徒の机と平服の教師の、モダンな教室だが、壁に貼られているのは、処刑、斬首、切断の絵で、その描き方は面白いが、その明快さと具体性にはゾッとする。語りは、怒りや憎悪を生み出すどころか、顕にもしない。表現されているのは、感情の未知の、雑多な前兆。ど吃りのひどい少年は一枚の写真を、ISISの指導者、アブー・バクル・アル=バグダーディーだと認めた。少年は彼を刑務所で見ていた。(バグダーディーは2019年10月に殺害された。)彼の語りは、吃りで耐えがたいほどに緊張する。説明することが困難な、驚くべき動きでだんだんと頭を片方へと傾下ながら、少年はずっとその写真を見つめている。ここでもだ、啓示的な静けさ、傷ついた底、魅惑的だが非感情的、まるで臨床的、そして解読不能。
 それから次のシーン:広大で何もない刑務所の庭。門が開いて、ゆっくりと入ってくるのは、最初流れる花びらのように現れ、私たちが次に目にするのは、ついさっき描かれた残虐行為を犯した、まさにそのISISの兵士たちだが、今や解毒されて、姿を変え、オレンジ色のつなぎ服の男たち。まるで個人の心理学ではなく、むしろ流体力学に支配されたプロセスの一部であるかのように、彼らはその空間に散らばって、混ざる。単なるオブジェのよう。シーンは、私たちは、彼らが何をしたのかを知っているという事実にもかかわらず、美しい: 焦げ茶色の色彩の建物と庭、苔緑の正門と守衛の制服、窓枠の底が蛇腹状になった鉄線で作られたハート型の輪。しかし、悲哀に、かき乱されるような、あるいは慰めるようなものは、このシーンにはない: あるのは数学的な、機械的な美しさ。ショットが捉えるのは庭へ入ってくる囚人たちの入場の、はじめの一人から最後の一人まで入れた、その一部始終である。そこには法医学的な完全さと叙事詩的な緊張がある。収容者たちが、場所の隅々まで巡回し始めると、足首の真ん中までしかないつなぎ服と、全員が履く、大きすぎて、引きずっては跳ねるように歩くしかない、黒いフリップ・フロップが引き金となって、ある無関係なイメージがよぎる: 彼らはまるで道化。茶番へと変容を遂げる悲劇。
 それから、彼らの運動時間が終わり独房へと巻き戻される、一列縦隊になって、無限に連なる繋がった昆虫のように、前の男の肩に手を置いて足をひきづるように。このシーン全ては、無言で進む。これらのショットは、もう一つの変容をもたらす。口籠る少年が描き、追体験した恐怖の、贖罪ではなく、むしろ代謝。人々を斬首し、子供たりに切断された頭を食べるよう命じたこの男たちは、個性を剥奪されて、ある有機体に包摂されて、自然の正義によって解毒されたのだ、地面に横たわる身体のように。彼らは、このシーンを遥かに超えて長く続き、そのずいぶん前に始まっていたプロセスの部分なのだ。それは、あたかも紙芝居のように、人間の行為、あるいは歴史のように、生まれついた、本来のスピードと頻度で、歪みなく、全て可視化され、その本来の居場所である多能性の中で初めて見られたかのごとく、捉えられたかのようだ。
 その効果は、脱法ドラッグであるエクスタシーを服用させられて、トラウマとなった記憶を男女のセラピストに八時間以上にわたって支配される、PTSDを病むアメリカ人兵士たちのための、新たな実験的な治療を思わせる。そのプロセスは、患者たちにそのトラウマとなった出来事を遠くから眺め、トラウマを引き起こした経験との個人的なつながりを希釈し、和らげると言われている。彼らがしでかしたことでだけでなく、彼らに起こったことも、彼ら自身を許せると彼らが感じていると、多くの人は言う。


10


“ノットゥルノ”は、この映画の核心に迫る少年の話の映像で終わる。彼の人生のシークエンスは、エピソードの明瞭さと十字架の道行のような広がりで始められ、あたかも日々の生活から離れて神話が結晶化するそんな場所で撮影される。少年が母親と6人の兄弟と暮らす部屋は、舞台のセットのようだ。ラフで飾り気のない、石積みの壁。いつもそこは夜、それともまるで夜のよう。窓はなく正面玄関もない。近くに何があるのか分からないー街、森、廃墟、それとも掩蔽壕。少年は保護者。彼はソファで眠り、家族が床で眠る。私たちが映画全体の中で少年から聞くのはたった一つの言葉。ハンターが、道すがら仕留めた鳥を回収するために少年を雇うとき。それは彼の名前。他の登場人物は、さらに寡黙だ。少年の顔には、墓石のような静寂と緊張、容赦のない、近寄りがたさがある:若く、そして古風な、その両方。目だけが活きて、常に空を走査する、まるで祈りのために、神のために、脱出のために。それは、システィナ礼拝堂の壁から盗まれた顔。
 映画は突如その幕を閉じるように感じる。複雑に絡み合う現実を俯瞰して、映画の最後はこの一つの顔へと辿り着く。決して眠らない母に夜明け前に起こされると、少年は立ち上がる。そして次に写るのは闇の道路の少年。私たちには彼がどうやってそこにたどり着いたのか、1マイル、あるいは10マイル歩いたのかは分からない。彼はそこを通るハンターが彼を雇ってくれるのを待つ。私たちは、今になって彼の家庭の核心的事実を悟る、父親がいないのだ。その理由は決して明かされることはない。彼は“ノットゥルノ”の中で最も目にする登場人物だというのに、他の登場人物と同じ程度にしか彼のことを知らない。彼らが何を感じて、何を考えているのか、私たちが人々を“関係づける”のに共通の指標が全く見当たらない。よく見かける少年だが、よくは知らない。
 最後の映像はそれまでの全てのことを再調整し、整理する。映画全ての要素が少年の最後の映像に宿る。英雄ー反英雄、主人公、元型的な道の側に立つ元型的保護者、彼の人生は容赦のない出来事に支配されている。この役割は彼に与えられたものだ。はじめの兵士の行列と、その後の悲しみの母親たち、そしてこの組み合わせである、何もない水平線を護る女性兵士の軍隊は、今、この顔に結晶する。それは抽象的で神話的なことから、私的で個人的なことへの運動であり、ロージがその末裔であるイタリア・ネオリアリズムの伝統への挨拶なのかもしれない。事実、あたかもこの最後の映像はまた別の映画や、映画制作への途を示しているようだし、“ノットゥルノ”が少年を別世界に運んでしまったかのようだ。彼はそれまでのシーンや登場人物の成就であり、それらを超える最初の一歩、待ち受けるものがより良いものなのかより悪いものなのか、あるいは同じことが続くのかについては何も示されないが。



11


ロックダウンは地勢に不思議な魔法をかけたのかもしれない。普段の生活がフル回転で活発だった時に、慢性的な問題を抱えた中東は、別な星、完全に異質な、西欧の天国とは対照的な、普通の、日々の生活が不可能な地獄のようだった。こういう見方に新しく追加されたのが、ベイルートでの惨事だ。しかし今やその生活はパンデミックによって留保され、数百万の人々が、お気に入りだったり、必要だと思い込んでいた普段の生活の物事や活動に向き合い、そしてもはや本当に取り戻したいのか、よく分からない。そしてこの一時的な疎外状態のなかでは、“ノットゥルノ”のような映画に、最新の注意を払い、見識を持って見入ることができる。不安な感覚、日常生活の糧である恒常的な繁忙が一時的に和らぎ、基礎となる生活の構造を識ることができ、価値のあるもの、値しないものが何かを問うことができるようになっている。この映画を通して今日の西側の人々に、世界のこの荒廃した側にいる人々の身になって彼ら自身を見ろ、というのは無理なことではない。むしろ、この映画を経験する時、あなたに移入されるものの見方は、あなたが映画に背を向けている時でさえ、違った見方へと導く。これは新しいモードなのだ、おそらく知覚的な、おそらく哲学的な、おそらく情緒的な。だが、おそらくはより明晰な。



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ワールド・フォーカス ドキュメンタリー
ノットゥルノ/夜
監督:ジャンフランコ・ロージ
100分 カラーアラビア語、クルド語日本語・英語字幕
2020年イタリア/フランス/ドイツ
*映画祭では、11/7(土)12:05~TOHOシネマズ 六本木ヒルズにて上映

イラクやシリアなど中東の国境付近を監督が訪れ、凄惨な紛争を生きた人々の思いを、美しさの残る景観とのコントラストの中で静かに描き出す。戦闘行為の残虐さに血が凍りつつ、夜明けの希望も抱かせる圧巻の映像詩。

(▲東京映画祭公式サイトより、作品ページ)



東京映画祭ポスター

<第33回東京国際映画祭 開催概要>
■開催期間: 2020 年 10 月 31 日(土)~11 月 9 日(月)
■会場:六本木ヒルズ(港区)、東京ミッドタウン日比谷(千代田区)ほか  
■公式サイト:www.tiff-jp.net
■10月24日(土)より、チケット発売開始!



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