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『時間』 1

あの人について、私は穏やかな夢を見ることがなかった。

例えば山の中の小屋にあの人が住んでいて、たまに訪ねて行った時には素朴な野菜か何かの白いスープとコーヒーを振る舞ってくれて、丸い小窓から覗けば外には白い蝶々が舞っている。

帰り際に振り向けば、2階の丸窓から微笑みかけてくれる。そんな夢を見ることが無かった。

あの人が出てくる夢といえば、風のない事には風がないのだけど、それは穏やかなものではなくてとても不穏で、また不安で、そして怒りと羞恥に満ちた夕闇に取り残されるあの人を見るような、そんなのばかりだった。なんでなのかわからなかった。

あまり考えたくなかったのかもしれない。

「わからなかった」なんて言ってしまえばどこかミステリアスな雰囲気を含んだまま胸の奥へ閉まっておけるのだけど、私の中の負けず嫌いというか、このままでは負けっぱなしなんだという気持ちがそうはさせなかった。私は考えた。思い出した。


あの人は、とても優しかった。あの優しさは「優しさ」と呼んでいいものか迷うほどで、少し冷たく見ると自分がなくて空っぽだからあそこまで他人に尽力できるのではと思ったりもした。だけどあの人は「自分」というものを確固として持っているようにも見えた。または、無意識に、そう見せることに長けていたのかもしれない。

ドキリとした。感覚のエッジとはこんなものかもしれない。

このとき私は、普通なら予想というか考えの及ばないようなところまで言葉が入っていってしまって、まるで深い思考のフリをするような、そんな危うさを感じた。

彼は……彼は自信の無い空っぽの空間に浮いていたのだ。あくまで仮定ではあるのだけれど。でもそう思ってみると、私は、彼がまったく自信のない空っぽな場所から自信を得ていく過程を目の当たりにしていたのかもしれないと思った。


「移行期間」とはいつだって宙ぶらりんだと思う。どこに依ることもなくて、そのまま命が燃やされていく。そこには何となく火の印象があって、燻るオレンジの光が、弱く、弱く夜の中に光るのが見えるような気がする。

風が吹き込むたびにかすかな音を立てて色が濃くなるのだ。

批判に対して反応するように。

その火を見ているうちに、私の中に生まれた彼の空虚な印象は、次第に動きを伴う煙のように思えてきた。

消えてしまうかもしれない。

散って、なくなってしまうかもしれない。

彼の中にも煙の出どころとなる火があって、いま、その火はきっと弱く心もとなく揺れながら、燃え移る場所を探しているのかもしれないと思った。

風なんて吹かないでほしいと、私の心の奥では思っているのかもしれない。彼について見る夢が必ず無風なのは、私がきっとそれを望んでいるからなんだと思った。


彼はどこに。

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