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【論考】本気の人は普通の人と何が違うのか?

 2023年1月18日(水)。16時05分。休みの日。精神科に行った日。結局ソーシャルワーカーさんとは話せませんでした。別のソーシャルワーカーさんと話すことになりました。また別のソーシャルワーカーさんにブログを教えることになり、「これこそが統合失調症の導きなのか」とかよく分からないことを思いました。

 ブログを教えたのは三人目ですよ。ブログをカルテ、ないしは最近の健康観察に使うというのがそもそもの間違いのような気はしますが。

 新しいソーシャルワーカーさんに、「いや。普通に文章力にびっくりしました」と言われました。読者さんからは「よかったね」くらいにしか返されないと思いますが。いや。自分の中でも「よかったね」くらいしか思うことはないのですが。今後の進路とかどうなるのでしょうか。結局全ては杞憂で、来年度もパートタイマーでひそひそこそこそとブログを毎日投稿し続けるような日々になるのでしょうか。

 しかしながら。昨日、異世界小説っぽいものを書いてみて思ったことは、文章力とか、語彙能力とか、やっぱり大学一人暮らしの頃からてんで向上や変化が見られていないということですね。どうしますか。Amazonでフロイト全集とか、キルケゴール全集とか買いますか? 恐らく中古の軽自動車一台は買えるくらいの値段になってしまうと思いますが。

 向上心や、変化に重点を置くとしたら、同志社大学を退学してしまったその瞬間に、文章を極めたいとする道からは離れていったことになります。統合失調症に負けた、その瞬間から、私の文章の向上や、語彙の収集、その他、やりたいことや自己実現など。あの瞬間に手放してしまったと言えばそれまでで。──しかしながら、なめきった一人暮らしを送っていたのもまた事実で。朝に起きることなどせずに。コンサータも貰えずに。一人で戦うにはどうしようもない人生を送っていたことも事実にあります。

 本気ってなんなんだ。と問われる方も大勢いるかと思われますが、本気とは《《それ以外をしないこと》》だと勝手に定義付けています。本気で小説家になりたいのならば、小説を書くか、語彙力を磨くこと。他には新しい定義や理論を温故知新のように、古くに活躍した哲学者や心理学者。小説家の文章の中から抜粋したい文章を引っこ抜いて覚えておくこと。実際にそればかっりやっていて。要するに、大学一人暮らしの頃の自分は《《本気》》だったのだろうな、とは思います。

 毎日文章を書くことは、別に小説家に必須のすべきことではありません。一発。とても面白い小説を書ければ、そっちのほうがいいですし。駄文ばかりの文章を綴っていたとしても文章力は一向に向上しないし、変化することもないかと思われます。

 自分が毎日ブログを書いているのは、特には意味のないこと、というのは「分かってるよい」と思ってしまいますが、逆を辿れば、もう自分は小説家として生きることはないだろうな、と、また徹底的に諦めた結果、ずっと文章を綴っているのだと思います。暇ですね、と言われればそれまでですが。

 挨拶が遅れました。

 こんにちは。井上和音です。精神科から帰って来ました。

 もう一個、本気の定義を上げておこうかなと思います。

 本気とは、もとい本気の人は《《お金の使い方》》が本気の人と、そうでない人との差があります。

 例えば、本気で小説家になりたい人が居たとします。本気なんです。ということは多くの語彙や理論に触れなければいけません。無限にある本の中で、どのフレーズが本当に感動させてくれるのか。どのような選択が人に感動を生むのか。そういう表現の方法を一生学び続けるというか、どちらかというと探検家に近いものがあります。

 そういう人は、本などを買う際には新品の本はまず買いません。古本で安い本だろうと、内容が同じなので、予算が限られている以上は、必ず古本で買います。電子書籍などもってのほかです。一人暮らしの頃は、部屋が本だらけになろうが、どうでもよかったです。とにかく浴びるようにして文章や漫画、アニメや映画などを観ていました。

 しかしながら残念なことに、食費すら削ってしまった挙句に私の場合は栄養などが足りずに統合失調症になってしまいました。本気になり過ぎたのかもしれません。過ぎたるはなお及ばざるが如しということわざがある通り、やりすぎて、それこそ頂点だけを見て、一直線に上へ上へと向上心だけを持っていたら、統合失調症にやられてしまいました。結論として、一人で生きていくこともできなくなり、本気で生きることも辞めたように思われます。

 それだけストレスや、焦燥感などもいつの間にか自分の降りかかっていたのかもしれませんが。

 田舎の実家に帰って、図書館なんかに行っても全集などまず置いてありません。本屋大賞に出るような本くらいしか置いておらず「努力する意味もないな」とか思ってしまいました。

 本当に面白い本や、世の中に出回らないけれど、よく研究された本などは都会にしかなく、都会の古本市などは小説家として努力する上では格好の祭りだったと思われます。大学生っていいなあ、って今でも思いますし、都会に住んでいる小説家志望の方々もいいなあ、ってずっと憧れを持っています。しかし、私には、統合失調症と発達障害というどうしようもない障害がありますし。向精神薬という永遠に自分の能力を縛り続ける封印のお守りのようなものも、一生持っていなければいけません。病院が変われば、出される薬も簡単に変えられてしまい、安定した生活が一気に崩れ去る──そんな現実の中を生きています。

 今の担当医からコンサータを処方してもらうまでには一年半かかりました。今や、コンサータは必須の薬として医者から認定を受けているのですが。最初からコンサータを出してくれよとずっと思っていました。医者との交渉の戦いがずっと行われていました。

 努力について書いてしまいましたが、今の自分は二つの行動指針を見てみても努力していない、もしくは努力できない環境にいることは間違いなく。これから先も努力はしないのだろうなと思ってしまっています。これが要するに、徹底的に諦める、の先に見えた普通の生活なのかなと思っています。

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