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誕生日をつぶやいたり、私は私を少しずつ許していく / 童話のような夏の思い出を私は経験していた

 ──『
 
 敵同士の戦争孤児が二人。
 一人では生きれない恐怖から、
 お互い手と手を繋ぎ合う。
 大人達は互いを殺し合うばかりで、
 幼い二人を見つけることは出来ない。
 結婚なんかよりも、儀式なんかよりも、
 惹かれ合う二人にただただ目を見張る。

 別々の道に迷い込んで。
 別々の集団へと別れていって。
 時が数年経ったとしても。
 目が合うその瞬間に互いが互いに走り出す。
 抱き締め合う。ただ抱き締め合う。
 離れたくないと、どちらも問わずに語りだす。
 二人だけで暮らそうか。そう言い、互いにどちらにも帰らずに。
 これから先を語るのは無粋というものでしょう。

 』──

☆☆☆

 2023年8月1日(火)。21時54分。

 こんにちは。井上和音です。

 「こんにちは。年賀いやがらせです。巻頭言が久し振りの登場ですね。テンションが高いのでしょうか。ケーキを食べて脳内に糖分が行き渡り、想像力が豊かになったのでしょうか。こういう巻頭言がどんどん出てくれば良い感じの文章だらけになってくれるとは思います。

 なんで井上さんがケーキを食べたかって? 無粋だなあ

 HAPPY BIRTHDAY! 井上さん!」

 今日が過ぎてもまだ20代です。私は若いのだ。見た目はもっと若いのだ。

 明日は休みです。

 「HAPPY BIRTHDAY! は良いのですけれども、井上さん。井上さんの誕生日って秘密事項の一つだったはずでは。大丈夫なのですか。個人情報バレませんか。大丈夫ですか」

 なんとなくツイッターでつぶやいてしまった。今はツイッターとは言わずにXと言うのだっけ。

 なんとなくつぶやいた。最近は自分を許すことが多くなってきているような気がする。ただの個人的な定義だから一様には言えないのかもしれないけれど、諦めるの反対は許すだと思っている。

 諦めることを許そうとも言えるのだけれど。しかしながら、この文章でも、諦めることを許すのならば、続けることを許さないと自分に対しては言うことになる。諦めることを許そうと言っている真意は、もう続けないでという思いがあるから諦めていいんだよと優しさの振りをしながら、諦めさせることを強要しているように感じる。

 許すってなんだと言われれば、個人的には「自由にしていいよ」ということだと思う。特に最近は金銭面。Super Chinese とかいう中国語上達のためのアプリに7,000円をポンっと課金したり。中国語の辞書とラテン語の辞書をAmazonの中古でポンっと買ってしまったり。普通ならば「諦めろ。やめろ。計画的に出費をしろ」と自分に言い聞かせたほうが得策なのだろうけれど、「欲しいのか。良いよ買って。許そう。計画とか先の分からない未来のことなんて考えなくていいんだよ。将来の自分も出費に対して許すと思うよ。大丈夫大丈夫」みたいな感覚になっている。

 その延長線上にあるのが、ポンっとツイートしてしまった「今日は誕生日です」の一言。今ツイートを振り返って見ても10文字も無いんだな。たった8文字しかないぞ。情報量も今日は誕生日ですしかない。

 それで色々な人からお祝いの言葉をもらった。嬉しいね。

 個人情報とか大丈夫だよ多分。何か悪いことでもしましたか。していませんよ。多分。それくらい大丈夫だと思うよ。

 一つだけ懸念があるとしたら、たくさんの人に見られることは嬉しいことで変わりはないのだけれども、たくさんの人に見られているという自覚を持ってしまうと、あまりよろしくないことなどは書けなくなるのではないかと不安にはなる。

 なんでも書いていいとか、書いてはいけないことに制限を掛けてこなかったおかげで今までこうやって続いてきたわけであって。このスタイルを変えたら、多分毎日何かしらを書くという習慣からいきなりリタイアしてしまいそうな気はする。

 多分大丈夫でしょう。何を書いても大丈夫でしょう。少しずつ自分を許していこうね。許すというのは自由に、悪く言ってしまえば自分のことを少しずつひけらかしていこうねと。自分に対して制限を掛けないようにして書いていいんじゃないのと、そういう方針に対して安心してくれるような、心構えをちゃんと持っていいのだよと。

 長く書かずに、一言で書けば自分に対して許していいんですよとそれだけの話なのです。

 出身の高校名とか言っちゃう? いや、言わなくていいよ。無理して自由になろうとしなくてもいいよ。それこそ自由だから。やらない自由もあるものですよ。

 もう短くていいのかな今日は。誕生日おめでとう to 井上さん。

 誕生日の話は終わり。

 8月ですね!

 日も長い。仕事からの帰りの電車の中で、たまたま、YouTube Premium において、AIR_夏影を聴いたのですが、The 8月って感じでした。The 夏でいいのかもしれない。電車の中で空調もしっかり効いていて。窓ガラスに映る風景は遠くで夕立を起こす灰色の入道雲。どこまで行っても灰色の入道雲で、時間が止まったかのような風景。そこでノイズキャンセリングの下で聴こえてくるAIR_夏影。

 あれ。ここってアニメの中だっけ。あれれ。という感じでした。こういうのを幸せって言うのでしょうね。泣いてもいいですかと茫然ぼうぜんと感動の中にたたずんでおりました。
 
 現実の夏なのに、まるで概念の夏の中に来てしまったかのような感覚。生きている限り、こういったたまに起こる幸せには巡り合えるものなのですね。

 私は幸せ者ですよ。全く。

 巻頭言を思い付きながら、かつての集団宿泊を思い出しました。私がリーダーだからといって、夜に震える女の子の手を握り締めて「大丈夫だって」と言いながら前だけ向いて、夜の肝試しにずんずん進んでいった記憶を思い出しました。物語というか、概念のような、こういう経験も実はしたことがあったのだなあと思い出しました。別に恋愛とかではありませんでしたが、少年の夏の思い出って感じですね。こういう思い出を思い出させてくれるような経験をさせてくれた彼女には今さらながら感謝しなければいけないかなと思いますね。

 ありがとうね。偶然会うことはこれから先も無いと思うけれども、なんか話してみたいね。読書仲間としてよく話していましたね。お互いに「童話みたいな思い出だったねえ」みたいに話せたら嬉しいですね。

 やっぱり私は幸せ者でした。過去最高の誕生日をありがとうございました。

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