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『寝ても覚めても』のラストシーンが映画史に残る理由。川を通して愛は修復される

映画『寝ても覚めても』は本当にとんでもない映画だ。はじめて観たときは、クライマックスの展開に度肝を抜かれ、「すごいものを観た」というような感覚とともに呆然と動けなくなるような体験をしたのを覚えている。

そう思ったのは、ロマンチック・ラブを、日常にある愛を捨てるほどに抗いがたいもの、突如現れた天災のようなものとして描いているところに強く惹かれたからなのだが、今観ると、明確に別の解釈ができることに気づいた。

この映画は「愛は修復可能」であることを描いている。そう気づいてから、再びとんでもない映画だ、と思い知った。

『寝ても覚めても』公開当時と今の解釈の違い

あらすじ
大阪に暮らす21歳の朝子は、麦(ばく)と出会い、運命的な恋に落ちるが、ある日、麦は朝子の前から忽然と姿を消す。2年後、大阪から東京に引っ越した朝子は麦とそっくりな顔の亮平と出会う。麦のことを忘れることができない朝子は亮平を避けようとするが、そんな朝子に亮平は好意を抱く。そして、朝子も戸惑いながらも亮平に惹かれていく。東出が麦と亮平の2役、唐田が朝子を演じる。

『寝ても覚めても』を、観たことあるなしに関わらず、浮気の映画と思っている人は多いだろう。出演者のゴシップを抜きにしても実際に浮気がクライマックスになっている点で、浮気の映画と言っても間違いはない。

むしろ、それほど抗いがたく夢のような瞬間があの映画で描かれていた浮気であり、そこがこの映画の主題だとずっと解釈していた。永遠が瞬間に凝縮されたロマンチック・ラブは失われたら二度とは戻ってこない。だからこそ美しい、的な解釈。

そう、永遠のロマンチック・ラブ最高!派だったのだ。むしろ失われた愛が大好物だったのでなおさらだった。

だが、『愛するということ』を読んでからこの映画について振り返ってみると、現実に根を下ろした愛を能動的に選び取る話だと思うようになった。愛の関係性について、僕の理解よりも1歩進んだ解釈できることに気がついたのだ。(『愛するということ』については以下の記事参照)

要するに、日常と地続きの愛を築くことって素晴らしいよね、というロマンチック・ラブと比べると面白みに欠ける話なのだが、結局のところそれが幸福な家族、幸福な人間関係を築く上で何よりも大事だとこの本から学んだ。

公開当時の感想「日常の愛を捨てるほどのロマンチック・ラブこそ至高」

まず、公開当時の解釈について。(ネタバレ注意)

観ていないと何がなんだかわからなくなるので、そもそもの前提の話から書く。

朝子(唐田えりか)は大学の頃、麦(東出昌大)と運命的な出会いをし、若い頃特有の情熱的な恋愛を経験。そして麦は失踪し、朝子は喪失感を抱えたまま社会人になり、麦はよく似た亮平(東出昌大)と出会い、付き合うことになった。最初は麦の面影を見てつらくなっていた朝子だったが、次第に麦に似た亮平ではなく、亮平自身を愛するようになった。

そこで幸せに終わるかと思いきや、亮平と朝子が東京から大阪に引っ越して結婚するという方向をする友人との食事の場に、突然、亮平と同じ顔の麦が現れ、朝子に手を差し出す(東出昌大が同時に2人画面に現れるすごいシーン)。

「なんでいまなん?」と言いつつも、躊躇なく麦の手を取り、亮平を捨て、麦とともに行く決断をする。麦の車に乗り北海道へと向かうあいだ、友人から「お願いだから戻って、亮平さんに謝って」と電話が来るが、朝子は「戻らない」と強い意志で答え、携帯を捨てる。

このシーンは、日常の延長にある愛など永遠の思い出と結びついたロマンチック・ラブの前にはいとも簡単に負けてしまう、というような描写で、観た当時の僕からすると、もし亮平が自分だったらと考えると本当に参ってしまった。それと同時に、現実を捨てることができるほどの超越的な恋愛の美しさにやられてしまった。

だが、福島まで車で行ったとき、朝子は突然、「これ以上は行かれへん」「帰らないと、亮平のとこに」と言い、戻ることを決断する。この段階では、朝子は本当に自分勝手でやばいやつにしか思えない。

その後、亮平が住む大阪の家へ行き、亮平からは「帰れ」と拒絶され家に入ることができない。それでも粘り強く亮平を追いかけ、「亮平と一緒に生きていきたい」と言い、家に入ることが許されるが、2人のあいだには深い溝が残っていた。そして2人は家の前を流れる川をともに見る。亮平は「汚い川だ」と言うのに対し、朝子は「でも、きれい」と言う。

この一連のシークエンスを観たときの当時の感想はこうだ。

永遠にも思えるロマンチック・ラブはもう一度天災のように現れたが、それを選ばないという決断をし、永遠に失われてしまった。しかし失われたからこそ美しい。そして、残ったのは幸せだけど退屈な日常。我々はこの退屈な日常を生きていかなければいけない。この川と同じように。

この通り、永遠にも思えるロマンチック・ラブが正しいものと考えていた。朝子が日常に戻る決断をしたラストが間違いだったとすら考えていたのである。日常の愛を選んだことを「諦め」のようにも思っていた。

2人で「川を見る」ことで壊れた愛が修復される

続いて、『愛するということ』を読んで以降の新しい解釈について書く。主に最後の朝子の選択についての解釈になる。

先ほど朝子が、麦とのロマンチック・ラブを捨て、亮平との日常にある愛を選んだことを「諦め」と書いたが、これは今観ると「諦め」などではないと断言できる。

朝子は、現実のこの1回限りの人生を豊かにするために、亮平との愛を築いていく決意をしたのだ。天災のように現れるロマンチック・ラブなどではなく、「愛する」という能動的な意思で、一度壊れた愛をもう一度構築していくことを選び取った。

このラストシーンをもって、『寝ても覚めても』は「愛は修復可能」であり、「日常にある愛を築くことの幸せ」を描いている映画だと確信した。

朝子がこの決断を下す少し前に、大学の同級生の岡崎とその母親に再会するシーンがある。岡崎はALSにかかり全身不随となり喋ることもできなくなっていた。そうした全く変わってしまった状況にもかかわらず、岡崎と母親は大学時代に会ったときと変わらない日常を送っていた。そこにはたしかに愛があった。

このシーンは、直後に朝子の決意がさらに強固なものとなるという重要シーンであり、継続して「愛する」ことの美しさを朝子と観客に伝えるようなシーンだ。

ラストシーンの家の前の川を見る2人のセリフ、亮平は「汚い川だ」と言うのに対し、朝子は「でも、きれい」と言ったこの違いは、実は朝子こそ、愛を築くことに自覚的であることを表しているような気がする。そして2人はお互いに視線を交わさず、川を見たまま、物語は終える。
(エンドロールで流れるtofubeatsの「RIVER」は映画の主題ともリンクしていて本当に素晴らしい)

同じ川を見続けるシーンによって、2人のあいだに存在した、特に亮平が朝子に対して築き上げた「不信」という大きな壁は不思議と消え去ったように思える。その直前に亮平が「俺はきっと一生、お前のこと信じへんで」と言ったにもかかわらずだ。

亮平は朝子と同じ方向を見て、黙って川を見つめることで、朝子の「亮平と一緒に生きていきたい」に対して無言の同意を返したのだと感じた。

この「川を見ること」を通した奇妙な愛の修復作用を描写したラストシーンは、改めてなんと美しいのかと感動した。公開当時の解釈の時点で美しいと感じていたのだが、そのときは「諦め」が含まれた美しさと解釈していた。

しかし、今回の解釈のアップデートによってこのラストシーンは、映画史に残る名シーンと言っても過言ではないと思えるようになった。なぜならこのシーンは、映画の主題そのものをすべて表現しているといえるからだ。

そしてその名シーンに、完璧に照準を合わせて曲を作ったtofubeatsはどれだけ天才なんだ……。「RIVER」もまた歴史に残る名曲としてアップデートされた。

永遠にも思えるロマンチック・ラブの抗いがたい魅力に揺り戻されながらも、日常にある愛を築くことの美しさを描いた『寝ても覚めても』。やはりとんでもない映画だった。既に世界的に評価されている今となっては言うまでもないのだが、本作を作った濱口竜介監督は日本が誇る最高レベルの映画作家だ、と改めて思う。

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