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愛を築くには「愛する技術」が必要。60年前にエーリッヒ・フロムが言っていたこと

恋愛といえば「落ちる」もので、情熱を伴う胸のドキドキがあるものだと36歳になるつい最近まで思っていた。

だけど実はそうではないのかもしれないと思いはじめたのは、「恋に落ちる」と言うときの落ちる穴の深さが、年々浅くなってきたと感じるようになったからだ。

歳を重ねて「恋に落ちる」ことがなくなった

10年前に好きだった人に感じていた胸のドキドキ、そこにあったはずの深い穴は、5年前に付き合った人と出会ったときはすでに半分以上埋まっていた。

今となっては穴があるのかどうかもわからないほど、「恋に落ちる」ことはなくなった。要するに、恋したときの胸のドキドキが歳を重ねるごとに薄れてきていったのだ。

それでも僕は「恋に落ちる」ことを求めて、マッチングアプリを続けていたのだけど、実はもう「落ちる」ような穴なんてすっかり埋まってしまっていたのかもしれない。

もう誰かに情熱的な感情を抱けないかもしれない。これに気づくことはあまりにも空虚なことで、ともすればもう結婚なんてする意味がない、家族を作る意味なんてない、なんていう虚無主義に陥りにかねない。

そんなときに出会ったのが、エーリッヒ・フロムが60年以上前に記した『愛するということ』だった。

「愛することは技術」と断言するエーリッヒ・フロム

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』では「愛すること」は技術であると断言している。それの意味するところは次のようなことだ。

愛することは工芸や建築のように技術なので、訓練しないと身につかない。にも関わらず、多くの人は愛を技術とは認識しておらず、自然と「恋に落ちて」始まるものだと思っている。だがその受動的な姿勢は、一時的な情熱による恋にすぎない。本当の愛を築くには能動的な努力によって「愛すること」が必要なのである。

愛は技術。そんなこと思いもしなかった。フロムが指摘している多くの人と同じく、落ちる恋の延長線上に愛があるものだと思いこんできたけれど、恋のドキドキ感が薄れていき、もう愛を築くことなんてできないかもしれない……と思っていた僕にとって、目から鱗だった。というより、ほとんど救いだと感じる言葉だった。

情熱的な恋を信じている人からすると、このような言説は妥協に見えるかもしれない。あるいは、まだ出会ってないだけだと言う人もいることだろう。

たしかに出会ってないだけというのは、否定はできない。歳を重ねると情熱のレベルが下がってくるのは事実としてあると思っているが、それでも情熱を少しでも持てる相手と出会う努力はすべきことではある。

だが、どんなに情熱的な恋から始まる恋愛でもいつかは必ず終わりが来る。情熱的な恋だけでは、愛を築くことはできない。努力によって愛を築くこうとする意思は、決して妥協などではないはずだ。

恋愛に希望が持てない全ての人に読んで欲しい

ともかくこの本は、情熱的でふわふわとした感覚がなくなって、恋に落ちることなんてなくなったとしても、まだ愛を築くことはできるのかも、そう思わせてくれる、希望の光を灯してくれる本だと思った。

昔のようにドキドキするような恋ができなくなってきたと感じている人、そのせいでもう誰かと愛し合うなんて無理かもしれないと思っている人、そんな恋愛に対して希望を持てなくなったすべての人に読んで欲しい本だ。

というよりも、何でこんな大事なことを誰も教えてくれなかったのか、とすら思う。

家族や地域のつながりで縁談で結婚していた時代なら、はじめから「恋に落ちる」と「愛すること」は当たり前のように別物として考えられていて、そのために自然と「愛するという技術」を磨いて家族を築いていたのだけど、自由恋愛となった現在は選択肢があるからこそ、情熱的な恋がイコール愛になっていてしまった。

そしてそんな時代だからこそ、「愛する技術」を身につける必要がある。(この時代背景の変遷も本作で記されている)

本書はこの自由恋愛社会で真っ当に愛を築き、家族を築く上で必読書だ。

さらに、この本を読んでいたら、ひとつの仮説が浮かんできた。それは「愛は修復可能なのでは?」ということだ。愛が技術なら、一度壊れかけたとしても技術的に修復できてもおかしくはない。このことについて、また別の記事で書こうと思う。

追記
続き書きました。


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