猪瀬直樹
日本に欠けているのは「ソリューション・ジャーナリズム」であり、当事者意識だ。
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日本に欠けているのは「ソリューション・ジャーナリズム」であり、当事者意識だ。

猪瀬直樹

 僕はいまのメディアのあり方に危機感をもっている。

 今回の自民党総裁選挙(石破茂×菅義偉×岸田文雄ー菅で決まり、焦点は二位争い)も、これからの日本をどう構想するか、という百家争鳴の議論にはならなかった。僕は党員投票をやってビジョンを戦わせて欲しかったが、残念ながらコロナ対策のために政治空白を長期化させてはならないという「大義名分」の方が優先されてしまった。
 メディアはその「大義名分」を大人しく受け入れて、結末が見えているゲームの中継にいそしんでいる。これから何か新しいことが始まるかもしれないという未来への期待感を、メディアは伝えられていないのではないか。そのためにはメディア自身が「こうあるべきだ」「こうしたい」と提案をしていかなければならない。

 たとえば、「デジタル庁」の創設にしても、縦割り行政の打破(国交省の治水ダムと農林水産省の利水ダムと電力会社の発電ダムがバラバラに運営されていたことなどが掲げられたが)にしても、霞ヶ関全体のなかに横たわるもっと大きな非効率な既得権益の壁をどう破るか明示されていないし、数値目標もない。中身がないのならメディアがもっと具体的に提案すればよい。「デジタル」といっておけば日本のIT産業の遅れを取り戻せるという錯覚があるのではないか。

 コロナ禍のなか、いやそれ以前から、僕は「ファクトとロジックが情緒に流されてしまう」と主張してきた。本来なら、国民が感情に流されないように、メディアが専門知識を活用しながら前提や背景を説明したうえで、ファクトとロジックでこうあるべきだ、と報道しなければならない。しかし、コロナ禍で閑散とした渋谷・銀座を映したり、トイレットペーパーが空の棚を映していたように、むしろセンセーショナリズムを煽るようなやり方がすっかり定着している。さらに、政治家や芸能人が不祥事を起こすと鬼の首をとったような報道をするが、もううんざりである。伊勢谷友介の大麻問題を、覚醒剤と同等に扱うなどどうかしている。法律違反であってもハーブと劇薬ぐらい違いがある話だ。

 僕は『公〈おおやけ〉-日本国・意思決定のマネジメントを問う』(NewsPicksパブリッシング)で「ソリューション・ジャーナリズム」を提案した。

 第Ⅲ部の冒頭部分にこう書いた。

 ジャーナリストは社会に起きている問題点を見つけ、ただそれを批判すればよいのではない。
 問題点を見つけると自ずから、ではどうすればよいかとつぎのステップに進むはずだ。行政なり企業なりが気づいて修正していく道もあるが、どう修正するかという道筋も課題の分析のなかから導き出されるはずで、そこまで示せばビジョンと呼べるものに到達できる。告発や批判で終わるのではない。求められているのは、ソリューション・ジャーナリズムなのだ。
 アメリカではこうした動きは早く、1970年代から速報性や当局発表とは違う独自の発見・分析にもとづく調査報道(インベスティゲイティブ・ジャーナリズム)、小説スタイルで人物描写など映像的なシーンを駆使してディテールから真相に近づくニュージャーナリズムが拡がり、さらに近年には課題解決を目指すソリューション・ジャーナリズムが生まれている。
 課題をどのように解決すればよいか、欠点を集めて批判するのではなく、うまくできている事例を見つけることも必要になる。その道筋を探すのが、責任を取る「家長」として作家の立場である。
 行政や企業に責任を押しつけるのではなく、彼らが新しく生まれ変われるようなクリエイティブな提案をフリーハンドでする仕事が、日本の「近代」のなかで途絶えていた本来の広義での作家の仕事、クリエーターの役割である。(『公〈おおやけ〉』p.162・p.163より)

 メディアが紋切り型の批判を繰り返すのは、当事者意識が欠如しているからだと思う。「中道左派」のようなふりをして適当に政府を批判しているのがいちばん居心地がいい。あるいは「排外主義」に依って他国を批判して溜飲を下げていれば情緒的な賛同を得られる。
 客観報道といえば聞こえはよいが、報道する側にも当事者意識は絶対に求められる。それがないと深い報道はできない。当事者に負けないくらいの情報を集めたうえで、「もし自分が当事者であればどう決断するだろう」と考える。そうして多様なメディアが、情報と情報を対峙させてアウフヘーベンさせていくことで、解決策が見えてくる。

 同時に、僕は『公〈おおやけ〉』で、福澤諭吉が西洋近代の“society”を「人間交際」と翻訳したことに注目した。

 人びとが自発的に集って交流し、グループをつくり別のグループと関わり合っていく。こうした人びとの自発的なつながりの総体が「人間交際」であり、現代的な「社会」と一致する。福澤はsocietyが人と人との交わりであることを強調した。
…(略)福澤諭吉が「社会」を「人間交際」と訳したのは、人と人が交わる空間は狭い縦割りの状態ではない、国民国家(ネーション・ステート)の均一の空間のなかにある、と考えたからである。
 ネーション(国民)は「人間交際」の土壌から生まれるのだ。この「人間交際」で発揮されるべきものが「公徳」である。「私」の範囲より広い場所での自分の役割は「人間交際」の世界では「公務」とされる。「公務」とは私的な感情で左右されるのではなく、説得力のある論拠が求められる。今日風にいえばファクトとロジックによる説明である。
 こうして「人間交際」のなかに「公」が形成され「ネーション」が生まれるはずだった。
 ちなみに「演説」という方法も福澤諭吉が実践した。「人間交際」という空間がなかったので、不特定多数へ向けて大きな声で、ファクトとロジックにより訴え、語りかけるスタイルが存在しなかったのである。(『公〈おおやけ〉』p.107・p.108より)

 メディアはファクトとロジックでソリューションを提案していかなければならない。多様で多彩なメディアにその役割を期待したい。
 しかし、メディアは、新聞もテレビも出版社も、組織が大きくなって部署がいくつにも枝分かれすれば「会社(サラリーマン)メディア」になってしまう。要するに、それは圧倒的に肥大化したがゆえに身動きがとれない行政(官僚機構)と変わらない世界になってしまう。
 クリエイティブなソリューションを提案したくても、硬直化した世界では発想が乏しくなってしまうのではないか。
 僕は作家として、道路公団民営化や地方分権改革、東京都政改革で解決策を提案し、実行してきた。その見地からも、どこに問題がありどう解決したらいいのか、政策提言のあり方や国家ビジョンのつくり方のアドバイスができると思っている。
 僕は僕なりの「人間交際」を、Facebookのグループ上でのチャットやzoomを使いながらオンラインサロンという形で実践している(サロン入会手続きはページ下のリンクをクリックしてください)。コロナの感染が下火になってきたら、リアルでやることも考えていきたいと思っている。僕のところに取材に来る記者とはその場でmessengerやLINEで連絡できるようにしているが、拡くもっと多くのメディアに携わる人と関わっていきたい。組織人である必要はない。一個人として、だ。

 僕は作家活動を狭い意味で考えていない。個別・具体的な「私の営み」を、普遍的な「公の時間」につなげるのが作家の仕事である。作品を書いているうち、現実の解決策を思いついたら、直接、実行してもよいのである。
 僕は作家としてそうしたが、読者もまた仕事に固定観念をもたないようお勧めしたい。(『公〈おおやけ〉』p.258より)

『公〈おおやけ〉』の最後にこう書いた。まだ読んでいない方にはぜひ読んでもらいたい。『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)は多くの読者に読んでもらえたが、『公〈おおやけ〉』は現代版の『昭和16年夏の敗戦』のつもりで上梓した。危機感を共有できた読者ともっと議論を深掘りさせていきたい。



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猪瀬直樹
作家