"ムショ"のコミュニケーションから"シャバ"を考える~映画『プリズン・サークル』~

以前の拙稿で2021年にスクリーンで観た映画をリストアップした。
その映画のほとんどについて、習作という意識で頑張って何かを書いたが、書かなかった映画もある(別に誰かに頼まれた訳でも、それによって収入を得ている訳でもないので、書かないことについて何とも思わない)。

その中の一つが『プリズン・サークル』(坂上香監督、2017年)だ。
この映画については「書かなかった」のではなく「書けなかった」。
無知な人間が初見だけで何かを書けるような内容ではなかったからだ。
調べて書けばいいのかもしれないが、"正しい情報"以前に"情報そのもの"がほとんど検索に引っ掛からないと思われる(実際に調べてないが)。
どれほど情報が規制されているかは、坂上監督に対して撮影許可が下りるまで6年掛かったという事実から、察することができるだろう。

それほど情報が規制されている映画の舞台は、ずばり「刑務所」だ。

「島根あさひ社会復帰促進センター」
刑務所という文字は見当たらない。しかし、最大収容者2000人のれっきとした刑務所だ。犯罪傾向の進んでいない、初犯で刑期8年までの男性が対象とされている。

「島根あさひ」はPFI(Private Finance Initiative=民間の資金や経験を活用して公共施設の建設から維持管理・運営までを行なう手法)刑務所と呼ばれる官民混合運営型の刑務所の一つで、その運営手法は日本の刑務所としては特殊ではあるが、映画は刑務所自体の特殊性を扱ったものではない。
「島根あさひ」は、それよりもっと大きな、大多数の日本人にとっては信じられない、「ありえない」ほどの特殊性を持っている。

あるところで一階に降り、小さな教室の前に到着した。扉が開くと、一面にレモンイエローの世界が広がった。
柔らかいパステルカラーのトレーニングウェアを着た訓練生たちが3、4人の小さなグループに分かれて木製の椅子に座り、身を乗り出すようにして話し合っていた。(略)
入口付近のグループが、即座に椅子を一つ加えて、席を勧めてくれた。私は彼らに促されるまま着席し、そのグループに加わった。受刑者と同じグループで座ることが許されるのかとドギマギした。
突然、別のグループの男性が手をあげた。彼は「質問してもいいですか」と支援員に聞き、支援員は監督の私さえよければと言った。私は即座にうなずき、その支援員は彼のほうを見て、「〇〇さん、どうぞ」と質問を許可した。
耳目を疑った。職員が受刑者に対して、「さん」づけで、しかもにこやかに、丁寧語で対応している。それまで軽く10を超える国内の矯正施設を訪問していたが、こんな光景は見たことがなかった。というよりも、通常、刑務所では受刑者が訪問者に顔を向けないように指導されるため、こうして互いの顔を見合うこと自体がありえなかった。ましてや訪問者が受刑者と同席し、質問の受け答えをするなど、想像もおよばなかったのである。
(略)
夢を見ているようだった。「ありえない」という言葉が何度も私の中でこだました。

「島根あさひ」では、TC(Therapeutic Community)の手法を用いている。
TCについて坂上監督は、『一言で説明するのは難しい』と前置きした上で、『コミュニティの力を使って問題からの回復を促し、人間的な成長を実現しようとする』アプローチであり、『欧米を中心として世界のあちこちで実践されている』と説明する。
『コミュニティの力』を使うことから、上述したように、何も知らない我々はもちろんだが、坂上監督自身ですら『ありえない』と驚くほどのことが「島根あさひ」では行われているのである。

映画を観た後、私も『ありえない』光景に意識を奪われ、そのことばかりを考えていたのだが、別の視点で映画を捉えた人も多かったようだ。

『プリズン・サークル』の舞台は刑務所だが、これは「刑務所についての映画」ではない。語り合うこと(聴くこと/語ること)の可能性、そして沈黙を破ることの意味やその方法を考えるための映画だと思っている。
事実、映画を観た人々が最も驚くのは、受刑者という立場の主人公たちが、刑務所という場で、本心を語っているということに対してである。「そもそも弁が立つ人を主人公に選んだのでは?」と勘ぐられることも多い。語るにそぐわない場で、語るにそぐわない人々が語っているということなのだろう。また、スクリーンの中でサークル(円座)になって語り合う受刑者の姿を見て、「自分もあの輪の中に入って語りたい」と口にする人や「なぜ塀の外には語り合う場がないのですか?」と問いかけてくる人も多い。
私たちは、どこかで語ることを諦めてきたのではなかったか。それ以前に、語ることを諦めさせられてきたのではなかったか。そんな問いが立ち上がってきた。

つまり、「島根あさひ」のTCでは、受刑者(ここでは「訓練生」と呼ばれる)どうしが語り合っているのだが、その「語り」は壮絶である。

たとえば、自分の生い立ちについて発表する。その言葉を聞いていた他の訓練生は相づちを打ったり質問をしたり、言い淀んでいる発表者の発言をちゃんと待ったり、時には言葉を促すように補助したりする。
発表者は、もちろん自分の生い立ちを話せるまでに時間がかかるが、繰り返し繰り返し発表する機会を得ることで、次第に自分と向き合い素直な言葉が出るようになってゆく。
そして、他の訓練生もただ聴いているだけではなく、発表者の言葉を自分と照らし合わせたり、質問をすることで自分自身に気づきが起こったり、自分の経験や思いから発言者の言葉を補足してあげたり……を繰り返し、自分自身を見つめ直す。

ここで行われているのは「対話」である。
「対話」である以上参加者は「対等」であり、誰かを論破したり、マウントを取り合ったりといったものではないし、目的やゴールのない「会話」でもない。
「島根あさひ」のTCの目的は、あくまでも「自分の罪を正面から根底から正直に振り返り、心から反省し償い、真の更生を目指す」ものである。
そしてその目的は、対話する双方とも同じである。
だから、時に相手を傷つけるような言葉を"あえて"使わなければいけない場面もある。
たとえば、相手が自身の心と向き合わない・嘘をついている場合、はっきりと指摘しなければならない(時もある)。
しかし、その指摘は、指摘した者自身をも傷つける。
それをわかって”あえて"指摘しなければならない時もある。

"シャバ"に生きる我々は、「共に傷つく」リスクをはらむような「対話」を避けていないだろうか?
SNSを始めとするネット上で繰り広げられる「分断」による「炎上」や「論破」。
「分断された両極からの言葉の応酬」により、全く歩み寄らない「両極の人々」は言葉をより先鋭化し、それに辟易した人や無用な被弾を恐れる「中庸の人々」は無難な書き込みをするか、あるいはネット言論に見切りをつけて去っていく。

坂上監督は言う。
『私たちは、どこかで語ることを諦めてきたのではなかったか。それ以前に、語ることを諦めさせられてきたのではなかったか』

だからこそ今、人々にとって「対話」が重要であり、”ムショ"でのそうした取り組みを知って『「自分もあの輪の中に入って語りたい」と口にする人や「なぜ塀の外には語り合う場がないのですか?」と問いかけてくる人も多い』のではないだろうか?

「対話」の重要性は、データからも明らかだ。

TCの効果を検証した調査結果がある。「島根あさひ」のTC修了生148名と、TC以外の一般受刑者2517名を対象に行なったもので、TC修了生の「再入所率(再び罪をおかして刑務所に収容される割合)」は9.5%と驚くほど低く、一般受刑者の19.6%と比較すると半分以下に抑えられている。そして、再入所したとしても、TC修了生のほうが、より長く社会にとどまる傾向があることも判明した。


本稿は、坂上監督自身による映画のプロダクション・ノートにあたる書籍『プリズン・サークル』(岩波書店、2022年)を基にし、書籍及び映画が現代の"シャバ"のコミュニケーションに不足している"何か"を考えるヒントになるのでは、という側面から書いた。
しかし、書籍及び映画はそれだけでなく、「刑務所」に入る人たちが、どういう生い立ちを経てきたのか、TCによってどう自分自身や犯した罪と向き合い更生し、戻った"シャバ"でどう生きているか、そんな彼らを"シャバ"にいるのが当然と考える我々がどう理解していくのかを考えさせるものでもある。

読むのは辛い。
それは彼らの生い立ちや犯した罪、TCでの「対話」の壮絶さによるものだけではない。
"シャバ"にいる「まっとう(と思っている)」な大衆が、「犯罪者」に対して如何に偏見を持ち差別しているか、ということがつまびらかにされているからだ。
その「まっとう(と思っている)」な大衆とは、他人ではなく自分自身である。
だから、自ずと己の中にある「偏見」「差別」と向き合わざるを得ない。
だから、読むのは辛い。
だからこそ、読まなければならない。


付記:TCは「島根あさひ」に入所している受刑者全員が受けるわけではありません。

刑務所においては「改善更生」や「改善指導」に位置づけられ(「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」30条及び103条)、希望制で、応募と審査を経てTCの参加者が決まる。通常の改善指導は、薬物依存や性犯罪などに限定されているが、TCでは罪種が問われないため、薬物事犯から窃盗、詐欺、性犯罪、傷害、強盗致死まで幅広い。

(2021年4月17日「所沢ミューズ シネマ・セレクション」@所沢ミューズ マーキーホール)


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