フィンランド人女性が清少納言の謎を追う「サスペンス劇場」~ミア・カンキマキ著『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』~

外国の生活や文化を経験した人が口にする常套句に「日本人は自分の国の歴史や文化について知らな過ぎる」というものがある。
確かにその通りである。素直に認める。言い訳もしない。

外国人は日本の(神秘的な!)文化が大好きなのだという。
それが「日本大好き」の日本人のためにマスコミなどが流している単なる誇大広告だとしても、それらに登場する外国人たちのニッチなものに対する偏執的な熱狂ぶりを見ると、日本文化を愛してくれて嬉しい反面、「何故それなのか?」という不可解さが入り交り、何とも居心地の悪い感覚に襲われる。

ミア・カンキマキ著『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』(末延弘子訳、草思社、2021年。以下、本書)のタイトルを見た時も、「あゝ、また来たか」という感じだった。
『源氏物語』の紫式部ならまだしも、よりにもよって『枕草子』の清少納言である。

500ページ弱の分厚い単行本。
「アナタガタの国の優れた文学を知らない残念なニッポンジンに、私が教えてアゲマース」的上から目線で日本人に講釈を垂れる……という、定番の日本礼賛(を装い日本人を小馬鹿にする)本かと思いきや、読み始めたとたん、著者の有難い講釈を素直に受け入れようという気持ちになった。

いや、そもそも本書は「講釈」ではない。
もちろん、清少納言についての優れた研究本であることは間違いないのだが、日本人好みの「サスペンス劇場(クライマックスは崖の上)」として、ものすごく楽しんで読める(「一気に読めた」というのは褒め言葉ではないので言いたくないが、500ページ弱を読み切るのが全く苦じゃなかったのは事実だ)。


「歴史的事件」の鍵を握る「セイ」を追う「サスペンス劇場」!

2010年9月、一人の外国人女性が京都にやってきた。

私、38歳。出身地:フィンランド。京都に来た理由:だらだらする。「清少納言」出版企画に関わる研究をする。滞在期間:3ヶ月。語学力:なし

P88

彼女こそ物語の主人公であり、本書の著者である。
フィンランドからやってきた主人公は、地獄のような京都の残暑(2010年は特に暑かったらしい。しかも京都は気温以上に湿度がヤバイ)と信じられないほどの物価高(フィンランドで気軽に手に入るチーズは、店員が謝るほどに高価だった)に打ちのめされながらも、彼女が「セイ」と呼ぶ清少納言について調査を開始する。
だが、「日本にはたくさん資料があって簡単に調べられるだろう」という主人公の思惑は安易過ぎた。と言うのも……

私はあなたの本を研究するために京都に来たのに、あなたが書いた本は、厳密に言うと存在していない

P96

主人公は、『あなたを読んだと思う。あなたの文章が残っていないなら、私はいったい何を信じればいいのだろう?』(P113)と悲観する。

セイ、あなたの原本は、平安時代が終わる前にはなくなったと信じられていて、1100年代には様々なバージョンがたくさん出回っていた。初期の写本は、あなたが亡くなって500年後に出ていたけれど、1600年代より前に印刷された版本はなかった。(略)この何百年という間に、知識人たちや書き写した人たちが、手にした文章を編集したのだ。彼らは章段を別の場所に動かしたり、文章を直したり、本物でないとして言葉や文を削除したり、書き写し間違いをしたりした。こういったすべてが、様々なバージョンに目立った違いをもたらした。これらは年を経て、内容の異なる「伝本」になっていった。

P113

主人公は自身の目的を、「調査」から「『枕草子』『清少納言』が、歴史から抹消されようとしている事件」の「捜査」に切り替える。
事件の鍵を握る重要人物こそが「セイ」だが……

「清少納言(10世紀の人)、エッセイスト、詩人。本名は不詳」。正確さでしられている参考図書(略)の冒頭にはがっかりした。生存年も、本当の名前すらもない。

P207

捜査は最初から行き詰まり、その後の捜査も難航する。
主人公はセイの足取りを追って日本国内だけでなく、ロンドンにまで赴く。
しかし、どこへ行っても、どんなに聞き込みをしても、セイの捜査はことごとく「ムラサキ」なる人物に阻まれる。
ムラサキはセイをライバル視していたとの情報も耳にした。
主人公は世界中で、ムラサキこそが歴史の主役であり、セイはその敵役と思われていることに、愕然とする。

ムラサキの性格は、内気、穏やか、塞ぎがち、引っ込み思案、内向的、付き合い下手。女房たちがよくしていた噂話やイジメには興味がなかった。彼女はしとやかで奥ゆかしいとされていた。(略)
セイ。彼女はあなたとは正反対。あなたは自信家で出しゃばりで積極的。軽快な言葉のやりとりがことのほか好きで、自分の知識を見せつけたり、あなたの嫌みの槍玉に挙げられたどうしようもない殿上人をいじめることができるとあれば、なおさらそうだった。(略)
日本人は、ムラサキは白い雪を割って咲き誇る穢れのない純真無垢な梅の花だと思っている。それは(男の研究者たちによる)完璧な妻の理想像。セイ、あなたは桜の花。梅よりも華やかで、それほど清らかではない。セイ、あなたの噂されている男関係、女には似つかわしくない振る舞い、ずけずけと物を言う口、知識をひけらかす恥知らずな態度-あなたのこの不適切さがすべてあなたを汚れた者にした。清らかでありえない者に。

P247-248

裏で操っているのは、ライバルを蹴落とそうと画策するムラサキなのか?
もっと巨大な組織の陰謀なのか?
どちらにしてもセイを貶めたあげく、その存在を歴史から抹消しようとしているのは間違いない。

立ちはだかる様々な困難を乗り越え、紆余曲折の末、主人公はこの事件の裏に隠された謎に気づく。
それは『枕草子』の原本が残っていないことでも、章段や内容が改ざんされていることでも、子細な研究がなされていないことでもない。
そもそも『枕草子』の存在理由自体が謎なのだ。
その謎こそ、1000年もの間、清少納言が悪く言い伝えられ、歴史から抹消されようとしている動機である。

主人公は、2つの不可解な点を発見する。
一つは、セイが仕えていた中宮定子ちゅうぐうていしが権力闘争の計略にはめられ失脚寸前だった時期に書かれた『枕草子』が、それらに一切触れず、さも定子や彼女に仕える女房たちが毎日を楽しく幸せに”をかし”く暮らしていたような描写になっている点。
もう一つは、セイ自身が『枕草子』は「自分の秘密の日記が盗まれて広まったものだ」と頑なに言い張っている点。
この2点こそ、セイ自身が残した-見つけて欲しかったかのような-証拠であり、事件の謎を解く鍵であった。

最終的に主人公は、この一件が「ムラサキの画策」でも「巨大組織の陰謀」でもなく、「セイ自身が仕組んだはかりごと」だと確信し彼女の元へ向かう。

"真犯人"セイは、当然「崖」にいた(さすが「サスペンス劇場」!)。
数歩後ずさりすれば海に転落するというところまでセイを追い詰めた主人公は、滔々と謎解きを語り始める。

セイ、おそらくすべてはこんなふうだった。つまり、あなたは若い定子に仕えるために宮中に上がった。あなたは定子をひどく敬愛し、定子はあなたに憧れていた。あなたたちは親しくなった。定子の父親が亡くなり、叔父が権力を握ろうとしはじめ、すべてが変わった。叔父は天皇と12歳にも満たない自分の娘である彰子を結婚させた。(略)あきらかに権力が交代した。(略)定子とあなたは一緒に残った。定子は内裏の外で過ごす時間が多くなり、ますますふさぎ込むようになった。あなたはサーカスの猿のようにその場の雰囲気を保とうとし、(略)すべてがどんなに素敵ですばらしい-をかし-か熱く語った。(略)そして定子は亡くなった。あなたができたことは、定子の栄華を書き尽くすことだけ。あなたの本の「誠実な」印象の最後の仕上げは、あなたの秘密の日記を人の目にさらすつもりはなかったと断言することだった。抜かりはなかった。(略)
あなたは守護道化師だったのよ。命を賭けて書き、弾丸を受けるために中宮定子の前に身を投げる守護道化師。定子の守護者、それがあなただった。だからあなたは本を書いた。どんなに表面的で、ふしだらで、非情で、「病的な」天皇一家の崇拝者としてあなたが後の世界で見られようともかまわずに。
明るくて、しかめっ面した傲慢な道化師、セイ。
あなたは定子の評判を救うことに成功した。自分のは救えなかったけれど。

P464-465

最後の言葉を聞いたセイは、自嘲気味に少しほほ笑んだ後、主人公の前から消えた!
この後の素晴らしい結末は、是非、本書をお読みいただきたい。


本書の魅力

と、調子良く書いてみたが、全ては私が本書を恣意的に引用して紡いだ創作である。
もちろん著者は「崖」になんか行っていないし、そのシーンの主人公のモノローグとして引用した箇所は「結論」でも「ネタバレ」でもない(のだが、本書を読んでいる私の頭の中に、著者が崖の上でセイを追い詰めたシーンが浮かんだのは事実。だから、こんな創作をしてみた)。

本書の魅力は「結論そのもの」ではなく、著者が『立ちはだかる様々な困難を乗り越え、紆余曲折』しながら、セイ=清少納言の謎に迫るところにある。
清少納言や『枕草子』に無知な(私のような)日本人なら、マンガ(実在するかは知らないが)で読むより、本書の方が圧倒的に理解できるし、何より面白い(何故なら、本書が優れた研究本であり、それ故「知的好奇心」を猛烈に刺激するからだ)。

一方で本書は、優れた「京都ガイドブック」でもある。
著者の「捜査」に付き合っているうちに、我々も知らない京都の魅力に引き込まれていくのである。
しかも、日本に住む我々では(ほとんどの場合)体験できない、「3ヶ月の長期滞在」の魅力をも伝えてくれる。

著者は、東山のゴキブリやネズミなんかが頻繁に出没し、さらにエアコンもないゲストハウスー『その名もガイジンハウス』(P28)ーに宿泊している。
そこでは様々な国から色々な事情で京都に来た男女が共同生活をしている。
著者は宿泊者たちと協力してゴキブリらと対決し、共同のキッチンで食事や会話を楽しみ、市内のバーやレストランに行き、時には地元の人しかいないような居酒屋にも出向く。コンビニも利用する。
フィンランド人が経営するバーを訪れ、同胞たちと盛り上がる。
座禅を体験し、英語が通じる美容院に行く。
歌舞伎を観て十一代目市川海老蔵に魅了され、京都御所で在りし日のセイに思いを馳せる。
さらに研究目的の著者ならではだが、我々一般の観光客が簡単には入れないような図書館などの施設も利用する。
もちろん、毎日アクティブで充実した日々を過ごしていたわけではなく、部屋で「捜査内容」をまとめたりもする。
結構頻繁に、何もせず、ふさぎ込んでいたりもする(それも長期滞在の醍醐味だし、こんな日を過ごせること自体が羨ましい)。


さらに言えば本書は、「自分探し」に(女性が)成功した奇跡的な体験本でもある。

書評ブログには、「何度も読みたい本」、「人生を変える勇気をくれた」(略)「これまでしようと思っていたことを実行することに決めた」(略)「女性一人ひとりのための枕の本」といった声があがりました。

P484 「訳者解説」

著者は『ここから始まる』と書き出し、こう続ける。

私は自分の人生に飽きてしまった。死ぬほどつまらない。(略)
中年、独身、子どもはいない。一人で住んでいる。同じ仕事を続けて10年。(略)いつもと同じ食事をとる(略)ヘルシンキの中心街にある職場へ行って、作業をして、会議に出る(略)帰宅。テレビを見る。だらだらと。(略)余裕をもってベッドに入るものの、寝つけない夜がほとんど(略)
つまらなくて死にそうだ。不安で死にそうだ。ムカついて死にそうだ。何か手を打たなければ。

P10

とうとう爆発した彼女は、「死ぬこと」を選択する代わりに、制度として設けられている1年間の休暇を取得し、「ここではないどこか」で「自分探し」をすることにした。
「自分探し」の目的と、その資金獲得のために思いついた口実が、「(かねてよりファンだった)清少納言の研究」であり、あらゆる財団に応募して、運よく幾つかの助成金が得られた(だから著者はどんなに行き詰っても論文を書かなければならなかったし、だから我々は本書で清少納言や京都のことを知ることができた。感謝!)。

著者は、日本でセイを追いながら心の中で彼女と対話することにより、ゲストハウスで様々な国の人たちと交流することにより、そして、「京都」を体験することにより、自分自身を見つめ直す。
本書の最終盤、セイに近づくために「十二単」を体験した著者は、「単」を一枚着るごと一枚脱ぐごとに自分自身が変わってゆくのを感じる……その描写は圧巻で、読みながらゾクゾクした。
本書は認められ、著者はノンフィクション作家として独立した。


日本に住む者として知っておかなければならないこと

日本に住む我々が、改めて「日本」や「京都」について知ることができるだけではなく、偶然の出来事(と決して軽くは言えないのだが)とはいえ、本書はとても大事なことを我々に教えてくれる。

著者は2010年9月から11月まで京都に滞在した後に帰国するが、その時すでに、翌年春のために同じゲストハウスを予約していた。
『枕草子』研究者なら、「春」は避けて通れない。

「ハル ハ アケボノ-ヤウ ヤウ シロク ナリユクヤマギハ スコシ アカリテ…」

P451

本稿公開日(2022年3月10日)の11年前の同日、著者は京都再訪3日目を過ごしていた。そして翌日。

ハンディクラフトセンター5階の書籍コーナー(略)立ち読みしていたら(略)変な感じがしてきた。最初はめまいかと思ったけれど、それにしてもなぜ私は揺れているんだろう? それから、天上に吊り下げられた会計の看板がぶらぶら揺れ、店全体が船のように揺れているのがわかった。(略)
時刻は14時46分だったと、あとから知った。2011年3月11日。日本は史上最悪の地震に見舞われた。

P336-337

著者はその後に体験したことを生々しく記録している。
言葉がわからない国で、信じられないほどの大きな自然災害(京都もかなり揺れ、何度か余震もあったらしい)と、最もあってはならなかったはずの人災に遭遇してしまった自身に起こったこと、考えたこと……
周囲の外国人の反応、フィンランドの家族や友人の(特に人災に対する)反応……
外国人旅行者の視点から書かれた当時の実体験こそ、我々が本書から教わる最大の「講釈」なのかもしれない。

あの時の記憶が、それこそ「巨大組織」によって抹消されてしまいそうな不穏が漂う現在において、それに抗うためにも、本書を読むべきである。


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