誰が見ている「夢」か?~映画『生きててごめんなさい』を酔って曲解~(若干、ネタバレ)

映画『生きててごめんなさい』(山口健人監督、2023年。以下、本作)を観終わって飲み屋に入り、抱えているモヤモヤした気持ちの正体を考えた。

2023年にこういうことを書くのはポリコレ的にどうかとは思うが、しかし、私が"オヤジ"であることが、モヤモヤの一因であることは認めなければならない。
つまり、断れない性格につけこまれて社会(会社)の理不尽を一身に背負わされる園田修一(黒羽麻璃央)と"メンヘラ"清川莉奈(穂志もえか)の共依存関係と、さらに、明らかに社会の理不尽の犠牲になっている修一と「自分の都合」でしか生きていない(と思われている)莉奈の立場が、ご都合主義的に逆転してしまうという顛末に、「昭和の教育を受けてきたオヤジ」はモヤモヤしてしまうのである(オヤジはどうしても修一に想いを仮託(共感ではない)してしまう)。

それは確かに"一因"ではあるが、それより大きなモヤモヤがある。
こんなにわかりやすい記号、わかりやすい類型キャラ、わかりやすいフィクション的エピソードを並べた本作に、何故モヤモヤするのか、ということにモヤモヤするのだ。

この"わかりやすいトリオ"が意図的なのは、「類型キャラとしての若手IT起業家が類型的モデル女性に居酒屋(オシャレ系と大衆系のどっちにもなれない中途半端な店、というのがミソ)で復縁を迫る(というのもミソだが)中に、上手く割って入って注文が取れない類型的"メンヘラ"の莉奈」というオープニングシーンからも明らかだ。
さらに、案の定IT起業家を怒らせてしまった莉奈が、近くにあった蟹の足を彼に投げつけて騒動になり、それがきっかけで修一と出会うという、わかりやすいフィクション的展開をみせる。

バイトもクビになり"メンヘラ"故に友人どころか両親とも疎遠になっている”捨て犬”のような莉奈は、修一の部屋に招き入れられ、何もしない生活を始める(そんな莉奈が捨て犬を引き受けてしまうのもわかりやすい)。

修一は小説家を志しているらしく、机の上には書きかけの原稿用紙(手書き!)と、傍らに、保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫、2008年)が開いたまま伏せられている。つまり彼は、わかりやすく「書きあぐねている」。

修一は、勤める出版社の理不尽な指示によって好きな作家のイベントに間に合わなくなる仕打ちを受けるが、その代わり、高校の先輩で現在はその作家の担当編集者である相澤今日子(松井玲奈)と再会する。しかも、修一が執筆中の小説は、今日子の出版社が募集している新人賞向けのもので、応募前に今日子が見てくれるという、都合良い展開となるも、その代わり、都合良く、仕事も小説の執筆も行き詰まる。
一方、莉奈は莉奈で、修一の忘れ物を届けた時に彼が担当する売れっ子コメンテーター西川洋一(安井順平)に気に入られ、行きがかり上、修一の職場で働くことになり、そこでも何故か気に入られてしまうという、都合良い展開となる。
物語は、頑張っているのに全く報われない修一と、何もしていないのに勝手に上手くいってしまう莉奈、と、わかりやすく立場が逆転する。
そのわかりやすい立場の逆転が、わかりやすく二人の破局につながる。

ここまでは、「昭和生まれのオヤジ」としてのモヤモヤはあるものの、「ご都合主義的物語」としては引っ掛かりのない展開と言える。

問題はその先だ。
と、ここまで考えて、既にお酒は2杯目に突入している。
私は酔った頭で曲解を試みる。

莉奈が出て行った部屋で、修一は仕事そっちのけで小説の執筆に没頭し、新人賞の募集締め切りギリギリに完成させる。

酔った頭に突如、平田オリザ著『幕が上がる』(講談社文庫、2014年)が降りてくる。
高校演劇部を舞台にした物語は、部長のさおりが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を題材にしたオリジナル脚本を書き、演劇大会に臨む姿が描かれる。
芝居の結末に迷うさおりに、主役を務める中西さんが言う。

「『銀河鉄道の夜』って、結局のところ『夢落ち』だよね。(略)いまの作家がこれを書いたら、少しださいかもしれない」
「うん、私もそう思ってる」
「さおりの書いてくれた台本は、そこのところはけっこうおしゃれになってるんだけど、なんだかこう、もっと、『夢だけど夢じゃなかった』って感じになるといいんじゃないかな」

何故この物語が降ってきたかというと、修一が書いた小説の行方が「夢落ち」という展開になるからだが、では、どこからどこまでが「夢」だったのか?

通常考えるのは、小説が完成して今日子と彼女が担当する作家に認められるという部分だが、本当にそれでいいのか?

夢とは裏腹に、修一は今日子から、かなり辛辣な評価を受ける。しかも小説の内容以前の、もっと初歩的なところで。
彼の机の上に伏せてあった『書きあぐねている人のための小説入門』には、こう書いてある。

ワープロより手書きで書くことをすすめる

私は手書きで小説を書いている。(略)私が手書きを続けているのには次のような理由がある。
小説は、つねに「今書いていることが面白いかどうか」「いま書いている部分と全体の関係はどうなのか」ということを考えながら書き進めるものだが、手書きのほうが、いま書きつつある小説が"一望"しやすいのだ。ここでいう"一望"とは、ストーリーの流れが見えるということではなく、小説のそれぞれの部分と全体がどう関連していて、それが全体としてどういうイメージをつくっているかを把握することで(略)原稿用紙だとパラパラパラパラと物理的に紙を繰るから、場面ごとの長さなどが肉体的(?)につかめて、それが全体の見通しにも通じる。

修一はこの本を読みながら(その影響かはさて置いて)手書きで原稿を書いているが、まさに今日子に指摘されるのは、保坂氏と違い『「いま書いている部分と全体の関係はどうなのか」ということを考えながら書き進め』られなかった(というか、それ以前の)点である。

上述したとおり、『仕事そっちのけで小説の執筆に没頭し』た修一だが、結局小説は認められず、仕事もクビになってしまう。
心神喪失状態で自宅のベッドに横たわっていた修一が、不意に起きる。

横たわっていた彼は「夢」を見ていたのかもしれない。どんな?
大体、いくら理不尽な仕事だからとは言え、自分の都合で会社に損失を与え同僚たちに迷惑をかけてクビになった男が、上司を面と向かって正論で糾弾できるだろうか?
それを間近で見ていた同僚女性が、『迷惑だけど、嫌いじゃないです』なんて、クビになった男に言うだろうか?
エピソードそれ自体は類型的だが、本作についてはそれを逸脱している、というか、修一にとって(クビが事実だとしても)都合が良すぎる
横たわっていた彼は「夢」を見ていたのかもしれない。

それはそれとして、修一が起きるのは莉奈が「荷物を取りに来た」と言って現れたからだ。
ここで思い出すのは、修一が今日子に語った小説のプロット。
『物理学者の男の前に、死んだ妻が幽霊となって現れる』
莉奈は幽霊ではないが、もしかしたら、ベッドに横たわる修一の見た「夢」かもしれない。

一緒に部屋を出た二人は寄り道をする。
少し会話を交わした後、先に莉奈が歩き出す。
穴が開いたポケットから、修一の部屋の合鍵が落ちる。
それは同棲し始めた当初にもあったエピソードで、その時は莉奈が鍵を拾ったが、彼女はもう拾わない。合鍵は修一の手元に戻った。

ところで、上述の『幕が上がる』にある『夢だけど夢じゃなかった』は、引用しなかったがちゃんと元ネタが書いてある。
それは映画『となりのトトロ』(宮崎駿監督、1988年)の「トトロが急成長させた大樹はなかったが、そこに小さな芽が生えていた」というエピソードで、私は「小さな芽」を「莉奈が落とした合鍵」になぞらえてみる(『幕が~』では「クルミ」)。

「莉奈が落とした合鍵」が『夢だけど夢じゃなかった』としたら、では、本作はどこから「夢」なのか?

もしかして、最初から、ご都合主義的に莉奈と出会った、あの日から……

そう考えれば、類型的キャラによって、"わかりやすい"フィクション的エピソードが展開するのも腑に落ちる。

つまり物語は、合鍵を拾うことによって『夢だけど夢じゃなかった』と気づいた修一が、『夢だ(った)けど』という気持ちで、莉奈のトークイベントに向かう展開となったのではないか?

しかし、だとして、これは誰が見ている「夢」なのか?
混乱する私は3杯目のお酒を呑み始めている。

トークイベントの後、物語は、冒頭の居酒屋に(既に出会って、既に別れた者として)戻ってくる。
あの日若手IT起業家から逃げた莉奈は、今度は修一から逃げる。
莉奈は、あの日修一に背負われてやって来た踏切に一人でたどり着く。
修一が追いつく。

もしかして、これも「夢」ではないのか? 誰の?
私がモヤモヤしているのは、『夢だけど夢じゃなかった』が、誰のものかわからないまま重層的になっているからではないか?

そういえば、ちゃんと説明していなかったが、『書きあぐねている人のための小説入門』は、タイトルどおり、小説の書き方を保坂流に指南したものだが、そこには『一生に一度だけ使える「結末の裏ワザ」』が紹介されている。

どんな話でもいい。小説の最後に、登場人物はじつは全員死んでしまっている、ということを明かすのだ。

もちろん本作ではそんなことは明かされない。
しかし、こう考えてみることはできないだろうか?

あの日、騒動を起こした莉奈と、彼女を助けようとした修一は、何らかのアクシデントに遭遇した(踏切のところでかもしれない)。
これは昏睡状態に陥った二人が見ている「夢」。
それが、冒頭に挙げたトリオとご都合主義的物語の意味?

遮断機が上がった踏切で、莉奈は震えた声で言う。
『これ、渡っていいヤツ?』
そして、おずおずと足を踏み出す。それを追おうとする修一。
物語は唐突に終わる。

渡った先に何があるのか? 二人はどうなったのか?
いや、修一はどうしたのか?

私のモヤモヤは、きっとここにある。
タイトルが何を示唆するのか、考えたくない。
日本酒を3杯呑んでご機嫌になった私は、そのまま帰途につくことにした。

メモ

映画『生きててごめんなさい』
2023年2月8日。@シネ・リーブル池袋

本稿は本当にお酒を呑みながら考えたことをベースにしている。
当日は池袋で本作を観て地下鉄で有楽町駅まで行き、東京国際フォーラム地下にあるお店で、3蔵の立春朝搾り(2月4日・立春の朝に搾った日本酒)を呑んだ。
だから本稿は酔っ払いの曲解であり、もちろん製作者の方々の意図とは全く違う。

パンフレットで山口監督はこうコメントしている。

(ラストについて)僕もどうなるか分からなかったというのもあるんですけど(笑)、彼らは成長できたのかできなかったのか(略)

(タイトルを)話し合っている時に、「莉奈のアカウント名の『イキゴメ』って何の略なの?」って藤井(道人プロデューサー)さんに聞かれて、『生きててごめんなさい』の略です」って言ったら、「それだ!」となりました。今になって思えば、莉奈の想いがアカウント名に込められていて、それが映画に重なる想いなので、いい、インパクトのあるタイトルになったなと思います。

(と引用して、実は物語は『イキゴメ』が書いたネット小説なのでは?と思ってみたりするが、それとて所詮は酔っ払いの戯言である)

莉奈を演じた穂志もえかさんも、新聞のインタビューにこう答えている。

事情は違えど、恋愛とか仕事とかがうまくいかないという経験は、誰にでもあると思います。この映画を見て、『ああ、私だけじゃなかったんだ』と少し楽になってくれたらうれしいです

朝日新聞2023年1月27日付夕刊

本作、穂志もえかさんが本当にいい。
『街の上で』(2021年)や『窓辺にて』(2022年)の今泉力哉監督作品とは全く違うキャラクターで、「昭和生まれのオヤジ」としては莉奈の性格にモヤモヤするものの、本作での彼女の演技、とりわけ表情は素晴らしい。
上述の新聞記事はこう伝えている。

映画の中盤、修一がイライラを口にする場面が見どころだ。莉奈の表情が徐々に固まり、口調に震えが交じっていく。それが長回しで捉えられる。「私自身、不安や嫉妬を感じるタイプ。莉奈と自分の間には境目がなくなっていました。自分に置き換えて修一の反応を受け止めていたら、ああいう演技になりました」
台本にないセリフを自分でいくつか足したという。例えば、殺処分にされかかった子犬を連れ帰り、修一に責められる場面。「私に助けられるのはこの子だけなんだよ」。あるいは、順調に進み始めた莉奈の仕事に修一がケチをつける場面。「なんで応援してくれないの?」
「役者なら、台本に書かれたことだけで表現すべきなんですが、撮影中はもはや莉奈として生きていたので、つい出ちゃいました。(略)」

(同上)

それを裏付けるようにパンフレットで彼女はこうコメントしている。

(対話している被写体を交互に)切り返しで撮っている時など、気持ちをつなげないといけなかったシーンの撮影で、カットがかかった後も、ずっと号泣しながら黒羽さんに後ろから抱きついていました。

もう一人気になったのが梅田彩佳さんで、本筋とは関係なくあのような役で登場したのを観て、私は何故か嬉しくなった。


本文で引用した保坂氏の『結末の裏ワザ』が、何故『一生に一度だけ使える』のか補足しておく。小説家を志す人は留意されたし。

この裏ワザは、じつは『ひょっこりひょうたん島』がヒントになっている。(略)作者の井上ひさしが明かしたところによれば、島の住人たちは、(島が漂流するきっかけの)火山が噴火したときに、みんな死んでいたという、いわば"裏の設定"があったというのだ。(略)「じつはみんな死んでいた」という種明かしには何とも不思議な(強烈な?)効果がある。(略)
"死"でなく、すべてが一人の人間の妄想が生み出した架空の出来事だったという種明かしも同様の効果を持つ。これはフィクションというものの基盤に対する本質的な疑いが噴出するからかもしれないし、「この世界はすべて私の妄想なのではないか」という一種"唯我論"的な不安が誰の心の中にもあるからかもしれない。
しかし、そんな効果のことより、やっぱり私は、『ひょっこりひょうたん島』が、"裏の設定"をとうとう最後まで出しそびれるほど長続きしたことに意味があると思う。所詮"効果”は効果でしかない。効果やトリックが好きな人は使っていいが、その人はその分だけ小説のほんとうから遠ざかったと思ってほしい。しかし、小説家を目指す人にとって、新人賞はものすごく高いバーに感じられるから、そのために一度だけ使ってもいいんじゃないか、と言っておくことにする。

(太字部、原文では傍点)



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