映画『宇宙でいちばんあかるい屋根』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

2020年、映画館で清原果那さん主演の『宇宙でいちばんあかるい屋根』(藤井道人監督、2020年)を観た。
映画自体、結構よくできていて、飽きずに最後まで楽しく観られた。
野中ともそ氏の同名小説(光文社文庫)が原作という事だが、申し訳ないことにその小説は読んでいない。
ここでは感想の代わりに、映画を観ながら、また、帰り道で私が考えたことなど、取り留めもない何かを書いてみた。
きっちり4600文字。
思いつきのため、思い違いや間違いが多いと思われるので、信ぴょう性が全くなきこと、また、誰の為にもならないこと、予めご承知置きを。

(言い訳:当時、本当に取り留めなく書き広げていった結果、逆に収拾がつかなくなって放り出してしまった。今回「折角ここまで書いたのに…」と惜しくなって、無理矢理オチをつけて公開してみた)


バディーによる少女の成長物語

映画自体は大雑把に言えば「思春期の少女の成長物語」ということになると思うが、成長のきっかけをつくる、所謂バディーとなるのは主人公・大石つばめ(清原)が「星ばあ」と呼ぶ、謎めいた(何せ、空も飛ぶのだ)老婆(桃井かおり)である。

こういったバディーによる思春期の成長物語の構造について、以前、青山七恵著『ハッチとマーロウ』を取り上げた拙稿に一例を挙げたことがある。

その時は『ある日突然現れた『バディー = 絶対的庇護者』によって色々経験したあと、大事な場面でバディーが現れず、主人公がピンチを一人で切り抜けることで成長する』と書いた。
この映画は「バディーのために行動を起こすことによって、主人公が様々な経験をし、それを通して成長する」というパターン。

そんな思いで映画を観ていた間、似たようなパターンとして、若かりし頃の田中麗奈主演『はつ恋』(篠原哲雄監督、2000年)を思い出していた。ストーリーはざっとこんな感じだ。

主人公・会田聡夏さとか(田中麗奈)は、余命宣告されて入院中の母(原田美枝子)が父(平田満)と結婚する前に付き合っていたと思われる、藤木真一路(真田広之)なる男宛の手紙を見つける。
結婚前の母が出せなかった手紙を読んだ聡夏は、「死ぬ前に藤木さんに会わせてあげたい」という一心で藤木を探し出し、母に会ってくれるよう説得する。
しかし、藤木はのらりくらりと聡夏の頼みをはぐらかす。それでも諦めない聡夏は、藤木に付きまとい、大人の男(それも、結構だらしない男)の生活に触れ、少し大人の体験をすることにより成長していく。

映画『宇宙で~』は、「星ばあ」が会いたがっている孫を探すことになるのだが、どちらの映画でも、主人公が「頼まれてもいないのに勝手に」行動を起こす、つまり「バディーに背中を押される」のではなく「主人公自ら一歩を踏み出す」ことにより成長するのである。


泣き顔のアップ

結局、映画『はつ恋』はどうなったか?

聡夏のしつこさに根負けした藤木は、母と会う約束をする。
二人が会うのは、手紙に書かれていた丘の上の一本桜の下。
聡夏は病院から(内緒で)連れ出した母と、桜の下で待つ。
が、藤木は来ない。
焦る聡夏だったが、やがて一台のタクシーがこちらに来るのを見つける。
タクシーから降りてきたのは、藤木ではなく父だった。
父は桜の下で3人の記念写真を撮ろう、と言い出し、三脚をセットする。
ファインダー越しに妻と娘を見た父は感極まる。

この時、父役の平田満の顔がアップになる。父の表情が徐々に崩れていき、やがて泣き顔になる。
間もなく妻を失ってしまうという悲しさ、寂しさ、その妻の横で妻と同じように美しくなった娘の成長の喜び、その二人の儚げな美しさ…色々な感情がないまぜになった表情。このシーンが秀逸なのである。

映画『宇宙で~』でも同じように、アップになった表情が崩れていき、泣き顔に変わるシーンが2度ある。
つばめから想いを伝えられた継母(坂井真紀)と、つばめが探し出した孫(らしき男子)と対面した「星ばあ」。
どちらも感動シーンだった。


で、泣き顔に変わっていくアップのシーンが素敵な映画は他にもあって、『ココニイルコト』(長澤雅彦監督、2001年)もその一つである。
確か、前出の映画『はつ恋』と同シリーズの第二作目というフレコミだったように思う(違っているかも)。
ストーリーはこんな感じ。

東京の広告代理店でクリエーターとして働く主人公・相葉志乃(真中瞳、現・東風万智子)は、橋爪常務との不倫がばれて、大阪支社の営業局へ飛ばされてしまう(しかも常務の妻に直接手切れ金を渡された挙句、である)。
志乃は、その支社で同僚となる前野悦朗(堺雅人)の不思議な魅力に惹かれていく。
あるきっかけで二人で食事をした後、橋の真ん中で志乃は言う。

日付…変わっちゃった。
初めて誕生日に、橋爪さんから何ももらえなかった。
電話も……なかった…
私、ずっと靴履いてたんだよ。去年もらった靴…
馬鹿だよね…期待なんかしちゃって…

それを聞いた前野は、東京の方角に向かって、突然叫び出す。

橋爪のアホー
ついでに、橋爪の女房のババアのアホンダラー
厚化粧すんなババアー
何のために外反母趾我慢したと思てんねん
巻き爪が食い込んで痛いわー
ほんまはなぁ、
酒もめっちゃ飲めんねんでぇ、飯もめっちゃ食えんねんでぇ
誰に合わせてきたと思てんねん、ボケー
女房の買ぉてきたパンツ履いてくんな、アホー
今までになぁ、何回留守番電話チェックしたと思てんねん
このアホンダラー

この前野の叫びをバックに、スクリーンは志乃のアップになる。
今まで押し殺してきた感情があふれ出しそうな不安な表情。
それを押しとどめようとして歯を食いしばる表情。
前野に自分の気持ちを言い当てられた恥ずかしさと悔しさ。
そして、そんな言葉に癒されていく自分。
とても複雑な表情を、真中瞳が丁寧に演じている。
一時期、家飲みで酔っ払ってくると、どちらかの映画の顔アップシーンを繰り返し再生していたことを思い出す(なんか、病んでいたのか?)


女優の若かりし頃

そういえば、『ココニイルコト』には大阪支社の同僚役で黒坂真美が出ていた。撮影時期はこちらが先だと思われるが、公開時期としてはテレビドラマ『新・お水の花道』(フジテレビ系、2001年)の方が早い。
そのドラマで、真中はナンバーワンホステス、黒坂は3番手あたり(2番手は伊東美咲だろう)という役であったため、ちょっと違和感があって面白かった記憶がある。

ところで、『ココニイルコト』は原田夏希のデビュー作でもある。
原田はNHKの朝ドラ 71作目『わかば」』のヒロインを務めた。
清原は、2021年度前期 104作目の『おかえりモネ』のヒロインである。

ちなみに朝ドラ 69作目『てるてる家族』のヒロインは、石原さとみだったが、「石原さとみ」でデビューする前、「石神国子」という名前で映画出演していた。
その中の一作が『船を降りたら彼女の島』(磯村一路監督、2003年)である。主演は木村佳乃。

結婚が決まったことを両親に報告するために、愛媛県にある島に住む両親のもとへ帰省した河野久里子(木村)は、ふとしたきっかけから、初恋の男の子の消息を辿ることにした…というようなストーリーだが、その男の子の妹役で石原さとみ、じゃなくて、石神国子が出演していた。

で、この『船を降りたら彼女の島』には、久里子が銀行員で松山の社会人劇団に所属する元同級生の女性に会うために、劇団が稽古する劇場を訪れるシーンがある。
稽古している芝居にはヒロインとして「現役女子高生」を客演させているのだが、この女子高生がサエコ(現・紗栄子)だったりする。
「黒鷹ぁ」
と叫ぶ声が印象的(まぁ、あの声なので)なのだが、当時は全然知らなくて、たぶん、NHKのドラマ『Good Job〜グッジョブ』(2007年)の「二岡ちゃん」を見て、私の中の「サエコ」という人が一致した…のだと思う。

それはそうと『船を降りたら彼女の島』は、磯村監督が愛媛を舞台に撮った映画の二作目にあたる。
一作目は『がんばっていきまっしょい』(1998年)。
主演は田中麗奈。初主演作である。
(田中麗奈といえば…と『はつ恋』に戻る)


普通の設定では「純愛」は表現できない?

そういえば、清原果那は以前、福士蒼汰主演の『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』(三木孝浩監督、2017年)にちょっとだけ出演していたと思う。
確か、小松菜奈演じるヒロインの「後年の若い頃」を演じていたと思う。

同名小説(宝島文庫)の映画化らしいが、これまた読んでいない(申し訳ない)。

ストーリーは…ない(小説版はわからないが)。
あるのは「設定」と「仕掛け」だ。

「設定」は、「ともに20歳の主人公とヒロインが出会って30日後に別れる純愛物語」という、とても簡単なものである。
大事なのは、「ともに20歳」、「30日で別れる」のに「純愛」という「設定」が必然となる「仕掛け」である。

先の映画たちは「ストーリー」で展開するのに対し、『ぼくは明日、~』は「仕掛けの種明かし」で展開するのである。

断っておくが、それがいけない、とは思っていない。
事実、『ぼくは明日、~』の後半、特にヒロインの視点から物語が逆転回されていくシーンで感動した(逆転回の始めから流れるメインテーマが、別れの、電車のドアが閉まって泣き崩れるヒロインの姿と共にクライマックスを迎える…という音楽効果も抜群)。

が、しかし、どこか引っ掛かる。

その引っ掛かりを考えていて、ふと、高橋しん著のマンガ『最終兵器彼女』を扱ったNHK-BSの『BSマンガ夜話』(2002年10月28日 放送分)という番組の中で、漫画家のいしかわじゅん氏が、

このマンガのテーマってさ、『僕たちは恋していく』…まぁ恋愛じゃない? この少年と少女のこんなちっちゃな恋を描くのに、ここまで極限状態を持たせないと、今は恋愛として成立しないってのが、それはそれでスゴイ話だよね

と半ば呆れたように言っていたのを思い出す。

昔の恋愛映画にありがちな「連絡や待ち合わせのすれ違い」という「設定」は、携帯電話やスマホが普及した現代では、逆にリアリティーがない。
身分や社会的立場、身体的特徴も同様だ(こちらは、「現実感がない」のもあるが、「現実にあるだろうが映画の題材にしにくい(たとえば、恋愛の障壁が「国籍」や「身体的障がい」だったり、相手が「反社団体関係者」だったり…)」という問題もある)。
また、「フツーの恋愛物語」は、それこそフツーにブログやSNSに転がっているので、わざわざ映画にする必要がない。

というわけで、その結果、「設定のハイパーインフレ」が起こる。

で、その「設定」の最上級かつ最終形が、2020年に話題になったドラマ『愛の不時着』ではないだろうか。何せ、「元は一つだったのに、内戦で民主主義国と社会主義国に分断され、互いを行き交うことすらできない、実在の2国が舞台の純愛」なのだから。


ちなみに、「今までに観たことがない、身分の差による最上級かつ最終形の恋愛劇」は、2021年現在、日本国において実在(「本物」とは言っていないので、誤解無きよう)のプリンセスを主役に、テレビのワイドショーなどで絶賛上映中……というのはきっと私の思い違いだろう(原発事故もそうだが、現実がフィクションを超えてしまっているのが、21世紀の日本である…のかもしれない)。

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