かつて「思春期の葛藤を経験した大人」が共感する物語~青山七恵著『ハッチとマーロウ』~

私事だが、先日50歳になった。
「半世紀も生きてきたんだな」と感慨に耽る一方で、「50年も生きてきたのに、"大人とは"ということが何もわかっていないな」と愕然としたりする。
私はダメオヤジなのだ。

そんなダメオヤジでも、かつては人並みに「思春期の葛藤」というものがあったはずである。
その葛藤に克ち、それを当たり前に身に着けることができて「葛藤する必要がなくなった(から思い出せない)」のか、それとも、「途中で放り投げて忘れ去ってしまった」のか…
いずれにせよ、今は、何に葛藤していたのかも忘れてしまったくせに、ポーズだけで「そんな青臭い時代もあったな」と懐かしんで見せ、「あゝ、俺も汚れちまったな」と嘯くオヤジになってしまった。

そんな折、「気分転換に」と何気なく購入した、青山七恵著『ハッチとマーロウ』(小学館文庫)を読んだ。

物語の主人公は、千晴(ハッチ)と鞠絵(マーロウ)の双子の姉妹。
ミステリー作家の母親と三人で暮らしている。

ハッチとマーロウ(母親も周りの人たちも本人もこう呼んでいる)は、11歳の誕生日に突然母親から、こう宣言されてしまう。

「とつぜんでゴメンなんだけど、じつは今日でママは、大人を卒業します」
(中略)
「今日からふたりは子ども卒業、子どもを卒業して大人になります」

突飛な始まりだが、とにかく、母親は本当に「大人を卒業」して、仕事もすべて断って、一日中だらだらと過ごし始める。
そんな母親を心配しながらも、代わって、双子が協力しあって料理や掃除など、家の一切の仕事をこなし始める。
これは、そんな双子が大人へと成長していく、一年間の物語である。

この物語はきっと、主人公に共感できる「思春期まっただ中」の少女向けに書かれたものだろう。読者は、「ハッチとマーロウ」という双子の経験を追体験することにより成長していくのだろう。

だが「少女向け」と侮るなかれ。
この物語は、大人だけが楽しめる仕掛けが施されている。

私が感心したのは、主人公を「(顔のほくろの位置が違うだけの)そっくりな双子の姉妹」にしたことだ。
「思春期の成長物語」ではしばしば、主人公にしか見えないバディー(おばけだったり、影だったり、実体はあるが主人公以外には存在を知られてはいけない人だったり)が登場し、主人公の成長を手助けする。
この物語では、そのバディーを「そっくりな双子の片方」として登場させ、「片方がもう片方のバディーになる」という構造を作り、それぞれを対比し、物語を交互に語らせることにより、「成長」を鮮明に表現している。

唐突だが、ここで、「成長物語」の典型的なパターンを紹介する。
最初、主人公の「絶対的庇護者」であったバディーは、物語の途中で正体を暴かれたり、今まで主人公に献身的だったのに急に冷たくなったり、裏切ったりする。
主人公はバディーが「絶対的庇護者」ではなかったことに傷つき、バディーとの「関係が壊れていく」。
そして、クライマックス。
主人公がピンチに陥っている(主人公自ら、その傷心を過剰に肥大させたが故にピンチを招き入れてしまうというパターンも多し)時に、バディーは「何故か現れない」。
一人で切り抜けるしかないと覚悟を決めた主人公は、それをきっかけに「成長する」。

この物語では、9月、それまで「同じ姿かたちのバディー」で安定していた関係が、ある事件をきっかけに、「二人は同じではいられない」ということが決定的になって「壊れ始める」。

そして11月のある夜。二人で寝ていたベッドから起きだして、一人で大人たちの話を立ち聞きしてしまったマーロウ。
ベッドに戻ってハッチを起こそうとするが、ハッチは何故か起きない(バディーは「何故か現れない」)。
(「一人で切り抜けるしかないと覚悟を決めた」)マーロウは、こう誓う。

ーーわたしがこのまま大きくなって、(中略)どこからどうみても立派な大人になったとしても……今日、こうやってひとりぼっちで眠れなかった夜のことを、ぜったいにぜったいに忘れないようにしようって。ほんとうの大人になって、それからどんなに悲しいことがあっても、つらいことがあっても、こんな夜をひとりぼっちでのりこえたわたしだったらきっとなんでもできる。なにがあっても大丈夫だって……だからそれまでは、やっぱり今晩のことはすっかり忘れていようって。

こういうエピソードを「思春期の葛藤を経験した大人」が読むと、自分の過去を思い出して、切なくなってくるのではないだろうか。

そして、7月のエピソード。
東京に来た双子は、母親に「学生時代に住んだ街」を案内してもらう。
しきりに『なつかしい』を連発する母親に、双子は『なつかしいとはどういうこと?』と聞く。

「(前略)ふーむ、それはなかなかいい質問ね。それはまあ、むかし自分によくなじんでたもののことを、あるいは、かつて自分の一部だったなにかのことを考えて、それからそのなにかといまの自分のへだたりのことを感じて、胸がきゅーんとなる感じよね」
(中略)
「長く生きてたくさん思い出を作るとね、そういうものを思い出すときは、ただのきゅーんでは終わらないの。きゅんんんんんーって、『きゅ』じゃなくて『ん』のほうがひたすら、心の奥のほうに向かっていくの。たぶんね、(中略)このどこまでも続いていく『ん』なのよ。それはぜったいにことばにはならないの。(中略)人生の秘密がたくさんつまっているなにかなの。(後略)」

『ん』のひとつひとつに詰めた「むかし自分によくなじんでたもの」「かつて自分の一部だったなにか」、そしてその時々の感情、などを思い出しながら、心の奥に向かっていく。
このセリフが実感を伴って感情が揺さぶられるのは、大人だけだろう。

そして、物語の最終盤、双子は自分たちの将来に思いを馳せる。

「ねえ、ハッチ……もしハッチとわたしがそのときいっしょじゃなくてもさ、ふたりの行きたい国があっちとこっちでちがってて、地球の反対側でバラバラに生きることになってもさ……」
 わたしはすーんと、深呼吸をした。ハッチもした。それからわたしは、ハッチの目を見てゆっくり言った。
「わたしたち、ずっといっしょに生きていられるよね」

二人は「成長」し、もう互いが(成長するために必要な)バディーではないことを理解している。
きっと将来、双子は別々の環境で生きていくのだろう。
その生活の中で、「かつて自分の一部だった互いのことを考えて、それからその互いといまの自分のへだたりのことを感じて、胸がきゅーんと」することだろう。
心の奥のほうに向かっていく、たくさんの『ん』には、母親が大人を卒業した、あの一年のできごとも詰まっているはずだ。
だから、どこにいても、双子は「いっしょに生きていられる」のである。

そして大人の読者には、その双子の姿がありありと想像できて、無条件で胸がいっぱいになり、気持ちよく読了することができるのである。

以上、私が思う「大人向けの仕掛け」を紹介してみたのだが……
そういえば、あの頃「大人になってもこの気持ちを忘れずにいよう」と何度も思ったはずなのに、すっかり忘れてしまった…50歳のオヤジがそんなこと覚えてたら気持ち悪いだけか…
日記も付けてなくてよかった。もしそんなのが残っていたらと考えただけで……
まぁ、あの頃の自意識みたいなものが恥ずかしい、というのが「大人になった証拠」ってことなのでしょう。

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