見出し画像

「自分の正しさ」のためには、絶対に戦わない。

「それは、戦略が足りないんだよ」

たまに、他人にこんな言葉を投げつけられることがあります。

このセリフを言われる時は、こういったエピソードを話したときです。

高校3年生のとき、体育祭で男子が上半身裸になって競技を行う「棒倒し」をやることが決まった際に、僕は「男子だから、強制的に裸にさせていいとは思わない。脱ぎたくないヤツだっている。俺は、この競技をやりたくない」と先生に言って、その競技に参加しませんでした。

それだけ配慮のない企画を実行することに、腹を立てたのです。

俺と同じ気持ちのヤツだっているから、そいつと見学でもしておこう。

そう思っていたのですが、結果的に、脱ぐのを嫌がっていたはずの太った友達は、その競技に参加しており、僕はひとりぼっちで客席から観ていました。

この話をすると、「もっと先生たちと戦うべきだよ!」「もっと作戦を立てて意見すべきだよ!」なんて言われることもあります。

確かに、先生に反抗する勇気がある僕なら、この企画ごと潰して、自分が新たな企画を作ってもよかったのかもしれません。

でも、そこまでしてしまうと、ただの自己満足だと思います。

自分の視点からすれば、「自分が巨大勢力と戦って、勝ってやったぜ!」と思うかもしれませんが、棒倒しを楽しみにしていた人からすれば、「高3最後の楽しみが奪われた…」「別に上半身裸でも良かったのに…」と思うでしょう。

「絶対的な正しさ」なんて、どこにも存在しないのです。

強制的に自分がやらないといけないなら、無理にでも企画を変えようと動きますが、別に僕が参加しなくても迷惑をかけないなら、自分が参加しなければ良いだけの話です。

どちらの意見が正しいかを決めなくても良いと思いますし、自分の主張の正しさを証明する必要もないと思います。

当時、棒倒しを疑問視する生徒がいなかったことには、さすがに驚きましたが、「絶対的な正しさ」なんてものはないので、彼らを否定する気にもなれませんでした。

むしろ、こんなに納得している人が多いことで、戦う必要はないと思います。

学校の決めごとを放棄すること自体、「戦っている」と捉えることもできますが、僕は自分の正しさのために、誰かに面倒をかけることはしたくありません。

そして何より、戦うことは、自分自身もかなり体力を消費します。

僕は、戦いを省略していくことが、「戦略」だと思います。

たとえ自分が勝っても、得るものが多くない場合は、積極的に戦わない方がいいと考えています。

少なくとも、「自分の正しさ」を証明するための戦いは要らないです。

もっと誰かが喜ぶことで、もっと自分が勝って嬉しいことで、もっと成長できることで、戦っていきたいです。


面白いと感じてくれた方、よろしければサポートお願いします。純粋に僕が嬉しいだけでなく、もっと量が多く、もっと高品質な作家活動ができます。どうぞ、よろしくお願いします!