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2020年コロナの旅 −5日目:経緯、人生

遡ること一年前、2019年の12月12日、京都。

私は暗いアパートの部屋でベッドに腰かけ、膝に乗せたノートパソコンとにらめっこしながらあることについて逡巡していた。スウェーデンへの航空券を、買うべきか否か。一人で海外旅行に行ったのは同年5月のベトナムが初めてで、それもどえらい目に遭って命からがら帰ってきた。片道切符でヨーロッパへ向かい、果たして無事に帰ってくることはできるのか。不安を押しのけて、私はウゥゥゥッという裂帛の気合とともに「購入」ボタンをクリックした。

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海外旅行に行くのはそれなりのお金も時間もかかるし、ほとんどの日本人にとってそうそう気軽にできることでもないとは思うが、私はなぜここまで大げさな気合いを動員してまで海外旅行を企図せねばならなかったのか。それは私が当時、耐え難い焦燥感にとらわれていたからである。なぜ焦燥感にとらわれていたのか。というかそもそも、「私」とは何者なのか。まず簡単に自分の来歴から話したい。

私の名はコウスケ。令和の今は昔、平成初期に東京の片田舎に生を受けた。
小学校では地球環境問題に強い危機感を覚え、ベネッセの付録の歴史漫画がきっかけとなり江戸時代の江戸のサステナブルな発展に注目。
すると江戸時代の日本には、私がそれまで身の回りで見たこともないような目くるめくような芸術と技巧と義理人情の世界が広がっていたことがわかり、同時に子供向け歴史漫画に出会って第2次世界大戦敗戦、ひいては欧米諸国による帝国主義のせいで江戸までの優れた日本文化が滅ぼされたという結論に至る。
その結果あっという間に愛国、というよりは軍国主義みたいなものに染まり、尊王攘夷、大日本帝国万歳、頭を丸刈りにしてタンクトップに短パンを身にまとうというコスプレまがいのことまでして見たこともない戦前昭和をレペゼン。肥後守を用いた工作や戦争ごっこを友達の間で流行らせるなど、方向性はともあれトレンドセッターとしての頭角を現す。
11歳の時には第一回江戸文化歴史検定を受験し、3級を取得。江戸東京たてもの園という戦前の日本の風景を再現した博物館で建物の管理とガイドを行うボランティアを始めた。
少し前の9歳の時には南方熊楠の伝記を読み、自分はこのようにならねばならないと一念発起、熊楠の幼少期に倣って凄まじい濫読の日々を過ごしていた。1週間に興味のある本を5冊と興味のない本を5冊読むというオリジナルの学習法により私は地元で神童のような扱いを受けるようになる。
このままいけば末は博士か大臣か…といわれた私であったが、残念なことに、中学校に進学し思春期の盛りに入ると浮世之助もかくやというほど女の子にのめり込んでいき、ほとんど一切の読書をやめてしまった。
生来、狷介孤高の性甚だしかったため、周りの中学生たちと知的に一線を画した存在であるという感覚を味わうため読書勉強もしないではなかった。しかしながら随分モテたので、あまりの逸楽に勉強は日に日におざなりになる。それでも昔とった杵柄か、大して勉強もせず良い高校に入り、そこでも色恋沙汰にうつつを抜かして受験勉強に手はつかなかったが難なく京都大学に合格。中学高校大学ですっかりかつての国粋主義を放棄し、代わりに国際交流に面白さを感じるようになっていた私は、ウィーン大学への交換留学を経て5年の大学生活の後に外資系コンサル会社に就職するという一見エリート街道まっしぐらな人生を歩んでいた。
しかし蓋を開けてみれば、ほとんど生得的と言っていい知能のおかげで社会の中で浮上してきた私には努力する力がほとんど無く、一般企業で活躍することは難しかった。
そんな日々も家に帰って料理をして、ウィーンから連れて帰ってきた恋人の箆(ヘラ)と食事をしながらドラマを見るなどすれば容易に耐えられたのだが、ある時恋人と湖畔を歩いているときに、木々の輪郭がぼやけて見えたことに途方もない恐怖感を覚える。
2018年に言語学という、実学とは到底言い難い学問を修めて京都大学を卒業してから、なぜか採用してくれた東京の外資系コンサル会社を、視力の低下を理由に1年後の2019年の夏に退職。
大学時代の友人にフリーランスライターの仕事を依頼してもらったりはしていたものの、基本的には貯金を切り崩して糊口をしのぐ。さらに退職の直後、2015年から4年半交際して同棲していた箆が、貸していた35万円とともに蒸発するという事件が発生。困窮を極めた私は家賃節約のため、東京の二人用のアパートを引き払って大学時代を過ごした京都に引っ越すことにした。親と仲が良ければ実家に帰るという選択肢もあったろうが、私は両親と昔から折り合いが合わず、かつ私はそれからの人生について親の影響を極力排して生きていきたいという望みがあった。ゆえに私は両親には一言も告げず、友人らの助けを得つつ京都への引っ越しを一気呵成に敢行したのであった。
元々、退職後に海外を放浪したいというぼんやりとした願望があった。箆とまだ同棲していた頃、オーストラリアで仕事を見つけたので移住してみたいと彼女に言ったところ、「まずいろんな場所を訪れて自分が住めそうなところを見極めたほうがいいんじゃない?」と言われた。それは確かに道理にかなっていると思ったので、まずは世界中の色々な国を見て回ってみたいと思っていたのだ。そういう経緯で、京都の家で寝食するつもりはなかったので物置同然の部屋を借りた。家賃1万5千円の下宿にはネズミがおり、引っ越しを手伝ってくれたフィンランド人の愛人を震え上がらせた。

引っ越し後、最初は無為の日々が続いた。たまに友人に依頼してもらった記事を書きはするが、京大の友人たちと小旅行を繰り返すうち貯金はどんどん目減りしていく。ある朝、いつも通り昼過ぎに目を覚ましてベッドでダラダラしていた時に、不意に危機感、焦燥感に襲われた。

「このままではジリ貧だ…」

そこで私は光輝ある大日本帝国陸軍よろしく、全ての戦力を投入して最後の大戦(おおいくさ)に出ることとした。即ち、残りの財産をはたいて念願の諸国漫遊に出ることを決意したのである。

諸国漫遊と言っても、大まかに目標を決めねばならぬ。そこで、昔から憧れの地だったトルコを目指すことにした。トルコにはウィーンや京都で知り合った友人たちがたくさんいるし、ヨーロッパとアジアの2大陸にまたがる唯一の国というステータスに兼ねてよりロマンを感じてきた。


さっそくSkyscannerで関空からイスタンブールへの航空券の価格を調べると、乗り換えありでだいたい安くて6万円ほど。しかし私の場合、先を急ぐ旅ではない。乗り換えが必要なのであれば、せっかくならその乗り換えの国にも少し滞在してみたい。みるとモスクワ乗り換えのものが安そうである。そこで今度は日本からモスクワへの飛行機を調べると、タイ経由の航路が安い。そこで今度は日本からタイ、タイからモスクワへの飛行機の価格を調べると乗り換え込みの抱き合わせで買うよりもはるかに安かった。すなわち、日本からタイのバンコクが12,000円で、バンコクからモスクワが20,000円ほどだったのだ。合計32,000円。思っていたよりも圧倒的に安い。

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当時のインスタグラムストーリー
(@kkoskekk)

高鳴る胸を抑えて、タイ及びロシアへ旅行する際の注意点をググる。
すると、ロシアへ行くにはビザが必要だということがわかった。北方領土の問題があるため、日露の国境は実は未だに定まっていない。ビザの取得のために遠くの役所まで行く交通費と手間と時間、またビザ代を考えると、モスクワは頓に魅力を失い始めた。

しかしタイ−モスクワ間が20,000円というのは大きな光明だった。これならビザのいらない他のヨーロッパの国にも格安で飛べるかもしれない。

そうやってしばらくSkyscannerと取っ組み合いをするうち、ノルウェー航空がバンコクから北欧へ格安の便を出していることがわかった。なんとバンコク−オスロ間が159€だという。これは当時のレートで20,000円をわずかに切っていた。結局もたついているうちにその便は予約されてしまったが、同じくノルウェー航空でストックホルムに177€で行ける便を見つけた。

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合計30,000円ほど、出発日は5日後の12月17日。買うべきか否か。
片道切符で、いつ帰ってくるかも分からないし、そもそも帰ってこれるのかもわからない。収入は極めて少なく、旅行には交通費だけでなく宿泊費などもかかってくる。お金のかかる行為である。航空券探しに没頭しているうちにすっかり日も暮れ、暗くなった部屋で一人、しばし考えを巡らせた。

しかし結局、どれだけ頭を使っても、どれだけ入念に準備をしても、行かない理由をすべて取り除ける日は来ないという結論に至った。ならば、気力、体力、知力の充実した今が良い。お金は…切り詰めればどうにかなるだろう。

私は久しぶりの高価な買い物に、高いところから飛び降りるときのようなフワフワした感覚(クレヨンしんちゃんで言う、「おまたがヒュー」的感覚)を感じつつ、不安から自らの気をそらすために奇声を発しながら2枚の航空券を買ったのであった。

2019年12月12日18時53分、私の旅が始まった。

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旅が始まったちょうど一年後の2020年12月17日より毎日、一年越しに写真日記を公開していきたいと思います。ご興味ある方は是非チェックしてみてください!

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