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乾元 | 三千字小説

乾元(けんげん):空のこと。雨の別称。「乾」は天。「乾元」は天の道、宇宙。

地球表面には年間平均1000mlの雨や雪が降るらしい。
しかし、現在大気中に存在するすべての水蒸気を一斉に雨にして降らせると、わずか25mlにしかならない。

つまり降った雨や雪が解けて流れて蒸発して水蒸気として大気中に戻り、再度雲となり、雪や雨となって降ってくることを年間に40回はしていることとなる。平均すると約9日間で、大気中の水は全て別のものになるのだ。

ちなみに人間の血液は約120日間で全て入れ替わるので、人体より何倍も大きい空の方が、人体より約13倍ほど代謝が早い。

中には降ったその場で蒸発して大気に戻る水もあれば、地下水となって流れて2、3年後に海に出るものもある。また深く地中に潜ると100年以上出てこないものもあり、サハラ砂漠の地下水は3万年前の雨と推定されている。更に南極大陸には何10万年前に降った雪が氷となって留まっている。

また、流れて海に行っても、その水が大気に戻るとは限らない。 海からは別の水が蒸発していくのである。なにしろ地球上の水の98パーセントは海水であり、大気中の水は0,001パーセントしかないからだ。

地球の空は平均すると常時、半分は雲に覆われている。しかしそれらの雲のすべてが降水を起こすわけではない。 降水を起こす雲はその中の数パーセントしかなく、ほかの雲は降水を起こすことなくできては消え、できては
消えているのである。

イギリスの気象学者のサットクリフは「無降水雲」が雲の常態であり、「降水雲」は例外だと書いている。その例外的な雲こそが、地球上の生物にとってなくてはならない命の水になっているのだ。


夜、雨を見ていた。
ベランダ、大気の縞模様、その軌道を見ていた。
空を見上げると吸い込まれそうなほどに黒々としていて、得体の知れない大きくて黒い獣が、息を潜めているようにも感じた。

雨は雨として生まれないらしい。
雲の中で、まず雪の粒としてつくられ、それが落下時に溶けて雨になるか、そのまま雪になるか、という違いなのだという。
隕石に似ていると思った。隕石も多くは大気圏で燃えて無くなる。
時間の経過によって、抗えない重力、その摩擦によって、元の形を保てなくなるのは、人間もそうだ。

この空は、雨は、「乾元(けんげん)」ともいうらしい。
雨を降らすほど潤っているのに、乾いているってどういうことだろうと気になって、Chat GPTに質問していたら、そもそも雨ってどうやって降ってきているんだっけ? と気になってきて、教えてもらい、少し雨に詳しくなった。

その成果、そのせいか、なんだか自分と空を重ね合わせていた。
ベランダに出たのは、妻から言われた何気ない言葉が胸の奥で角張った質量を持っていて、あわよくばそれを洗い流したかったからだった。

今日は起業した会社の10年目の創業記念日だった。たまたま休日だったので、昼間に妻と娘と家の近くのイタリアンにランチに出かけた。小学生の娘はなんのお祝いか分からずも、お出かけが嬉しそうだったし、妻は結婚する前から支えてくれていた会社だったので、おもいもひとしおだと感動を何度も伝えてくれた。

この家族の中では、というか多くのコミュニティの中で僕はいちばんニュートラルだった。嬉しいとか、感動とか、怒ったり、泣いたりとか、そういう揺れ幅が少ないことが、コンプレックにも感じていた。

僕らはイカ墨のパスタとかカプレーゼだとかを一通り平らげ、コーヒーを飲んでいた。手持ち無沙汰になった娘は、妻の服を伸ばしてちょっかいを出しはじめ、何やら顔を見合わせていた。2人はこそこそと鞄を漁り始めた。

「パパ、ソーギョーおめでと」青いリボンで結ばれた封筒を娘から手渡された。妻を見ると微笑んで僕の顔を見つめている。何か、良い反応をしなくてはと焦燥感が湧いてくる。

結果「え、あぁ、ありがとう」と僕は挙動不審に答えてしまう。「開けてみてもいいかな……?」と、こういう時に言うべき台詞を思い出し、そのまま読んだ。聞くと2人は「どうぞ」と笑顔で声を合わせた。

封筒を開けると、羽田から金沢への航空券が入っていた。
「たまには1人でゆっくり、羽を伸ばしてきて」
と妻は笑顔で言った。そういえば以前、滅多に見ないテレビをたまたまつけたら流れていた街ブラ番組で金沢が特集されていて「いいなぁ」と小さく呟いたことをふと思い出す。もう何ヶ月も前のことだった。

僕は口角を自然に上げるイメージをした後に「ありがとう」と口角をあげて伝えてみたが、イメージと違って歪な口の形になってしまった。だめだ、これでは喜びが全然伝えられてない。せめて、と思い「仕事に活かせるようにするよ」と妻の期待に応えようと、プレゼントをもらってしまった忍びなさを清算しようと、そう付け足した。

妻は少しの間沈黙し、笑顔がゆっくりとフェードアウトしそうになった瞬間に口を開いた。
「……何にも活きなくていいの。ただ、喜んで欲しかっただけ」と妻はさっきより歪な笑顔で、しかし少し寂しそうに言った。「ドルチェをお持ちしました」とウェイターがやってきて、娘の歓喜の声と共に束の間、突如やってきた晩秋のような空気は風に流れた。

僕はデジャヴを感じていた。以前、会社の社員たちにサプライズで誕生日を祝ってもらった時もそうだった。これだけのことをしてもらったのだから、何か還元しなくてはと、全員のボーナスをあげることをその場で約束した際、同じように乾いた侘しい空気がやってきた。

ぼくは受け取ることが苦手だ。受け取っても感情的に表現することができないし、感謝はしているけど、それをうまく伝えることができない。だからせめて見返りをちゃんと還元できるようにしている。でもそれでも皆の期待には応えられていないのだと、この空気が流れるたびに感じる。

お金も、仕事も、待遇も、一人でいろいろなものを巡らせているのに、外から見ればきっと幸せそうで潤っているのに、俯瞰して見ればぼくもそう思うのに、なぜか乾いている、それがぼくと空の共通点だった。

降水雲と同じように、雨を降らせる雲が当たり前だと思われているが、人間も実は無降水雲のようなドライな状態こそが常態なのではと、思おうとした。

翌る日の週末、曇天の羽田空港、ぼくは金沢へ飛んだ。
飛行機が雲を抜けると、青空が視界を満たしていた。
ここも空、下から見上げた色も空、と思った。

着陸をすると金沢も曇天だった。妻が予約してくれていた宿へ電車で向かう。城下町の美しい街並みに上品な店舗が並び、川を渡す赤い橋を過ぎると宿に着いた。古民家を改修して作られたと思しき宿だった。庭先には古材で作られた小さな水車があり、水は空気と混ざりながら滞りなく回っていた。

室内は黒い漆喰の壁に、花瓶だとか本だとかが、最適限のフォルムで、最低限必要な数だけ、まっすぐ置かれていた。それらが天井から吊るされたLEDのぼんやりした灯りに照らされ、洗練された影の美しさを現した。

シンプルだが品のある和室に荷物を置き、外へ出た。ひとまず昼食を取ろうと、近江町市場に行って2600円の寿司を食べた。それから、あの時テレビで見ていた21世紀美術館を目指して歩いた。

市場は活気に溢れていて、目眩く商店を見るだけでも楽しかった。外に出ると雲間から帯状の陽が差していて、暖かく、シャツの袖を少し捲った。思えばもう暦の上では夏だった。人の心は空模様というけれど、夏の陽気にあてられて、心なしか散歩が弾む。

ワイヤレスイヤホンを取り出して耳につける、Spotifyでランダム再生するとYUKIの「歓びの種」が流れてきた。せめてもう少し不幸せであれば、分相応なのに、と歩き続ける。サビが終わる頃には目が潤いに満ちて、少し溢れた。

(fin.)



#雨ことば三千世界

梅雨のあいだ、雨が降るたび毎日、約3千字の”雨のことば”を題材にした小説を書き続けています。
雨に関連することばは「雨のことば辞典」を参照に「あ」から五十音順に1つずつランダムに選び、雨が降っている間に即興で書き上げます。
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本作は「人が植物へ輪廻する世界」を体験する体験小説として2024年9月22日開催に向け制作中です🌱


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