見出し画像

愛雨 | 三千字小説

愛雨:雨を好むこと。

ドアを開ける。
アルミ缶の中の砂利をぐるぐる回したような、大粒の雨音。
雨は近所の子らの声だとか、人との距離だとか、余計なものを除いてくれる。

散歩道を歩き出す。焦げ過ぎたメロンパンのようなアスファルトは雨をよく撥ねた。まるで初めからそこにあったようなに振る舞うアスファルトの下には、ちゃんと土が広がっていることを、俺は知っている。

遠くから救急車の音が聞こえる。
庭先にイチジクの木が生えた古びた水色の邸宅を通り過ぎ、突き当たりの小径を右に曲がる。

邸宅の庭には白い小屋に赤い屋根のオールドタイプの犬小屋があった。中では白いポメラニアンが吠えるタイミングを伺っている。4つ足を構え、首をすぼませ身体は小さく震え、準備万端といった模様。

いつ吠えられてもいいように、俺も犬の挙動を見つめていた。1歩、2歩、慎重に歩みを進める。犬は吠える前の初期咆哮のような「ゔー」というエネルギーを溜める動作まで入っていた。しかし結局通り過ぎるまで犬は吠えなかった。溜められたあのエネルギーはどこに行くのだろうと考えていると、「ワン」と1オクターブ高く外した鳴き声が聞こえた。

小径を過ぎると国道に繋がる。国道沿いのコートダジュールの前の歩道橋は駅前の川のような藻色をしていて、大雨によく馴染む色合いだった。車の振動で揺れる歩道橋を登り、橋の上から国道を見下ろすと、俺が昔工事した道路が1部だけ貼り間違えたタイルのように黒く冴えている。管理責任などないものの、毎回通るたびに綻びがないかを確認をする。あるいは、自尊心を1gくらい取り戻すために。

国道沿いのチェーン店の看板は雨でぼんやり霞み、遠くのものに関しては美しいもののようにも見えた。

歩道橋を降りると団地の側道に差し掛かり、歩みを緩める。ゆっくり歩きながら、左手に張り巡らされた緑のフェンスの先にある公園を遠くから覗く。
「いた」
と心の中で言った。

青いレインコートを着た娘がジャングルジムを登っている。前の雨の日は見かけなかった分、元気な姿が見れて嬉しかった。

元妻はそれを見守りながら、団地の陰に生えた何かをエコバックに摘んでいた。本当は立ち止まって娘を見ていたいが、傘は物陰に隠れるのに適さない。また、この団地はさっと通り過ぎてしまいたくなる奇妙な匂いもしていた。

別れたあと、娘は紫外線にあたれない難病を発症した。晴天時は夜まで外に出れず、曇天の日も防護服を欠かさなかった。雨の日だけ、友達が誰もいない公園で1人、遊ぶことが許されていた。雨の日だけ、娘を遠くから覗くことができた。

妻と別れた理由は数えればキリが無いがないものの、言うなれば体内のウイルスを白血球が退治するみたいに、一つになり過ぎた故の自然な免疫反応のようだったと思う。

一方的に別れを告げた。人といることの当たり前の複雑さを放棄して、1人で楽になろうとした。

それに気づいたのは別れて数ヶ月経ってからだった。大いに反省した。あまりに酷いと思った。自暴自棄になり、気を失うまで酒を飲んで時間を潰した。気づけば金もなくなり、見窄らしい身なりになって、頭を下げて復職した土木の会社で後輩にこき使われ、娘や妻にはもう関わららないことが2人のためだと、会うことも連絡することも自制した。

情けなくて、涙もとうに枯れていた。側道が団地の影に隠れようとする時、雨が小雨になり始めた。雨音が止み、高い湿度は娘の声を耳元まで運ぶのを助けた。

「ねぇ、パパに会いにいっちゃだめ……?」「ダメ! パパとはお別れしたの」弱々しく懇願する娘に対して、妻は苛烈にそれを制した。俺は傘を閉じて陰に背中を預けた。

「私はお別れしてないもん」と娘は俯く。妻は弱まった雨空を手のひらで確認し、その手で自分の顔を包み、皺を延ばしてから微笑んだ。「雨止んじゃうから、ほらもう家に帰ろ」と娘の手を取って団地の階段を登った。

帰り道に傘はささなかった。梅雨のまだ少し冷たい雨が白いシャツを背中にピタリと貼り付ける。気持ちが悪い。いつもそう思う。


翌日は晴天。
俺は現場に出ていた。川を渡す小さな橋の補修工事。昼の休憩中、煙草のヤニが歯に黄色くこびりついた作業員が、顔まで10センチほどの距離まで近いてきて「おう、昨日の巨人戦見たか」と臭い息で話しかける。俺はすぐに息を止め、後ろを振り向き「っす」と一息でできる最大限の拒絶をした。

顔を上げると、橋の向こうに青い傘が見えた。顔を透明なカバーで覆った白い厚手の服、小さなシルエット。娘の姿だった。最初は早歩きで、そしてすぐに慌てて走り出した。

「おい……何で、こんなところ……」
陽射しの方へ立ち回り、背中で影を作り、中腰になって娘の顔を見た。カバー越しだが、久しぶりに見た娘の目はこの世のものとは思えないほど愛おしく輝いていた。

「会いたくて……」
「それなら、雨の日に……」
「雨の日はここいないじゃん……」

娘が雨の日に妻の目を盗み、歩道橋を超え、犬のいる家を抜けて、1人で会いにきていたことに、胸が痛んだ。

「……大体、パパはもうお別れしたんだから」
「私はしてない!!」
心臓を切り裂くように娘の声が響いた。
娘の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。

俺はいつも失った後に大切なことに気づく。
もう失いたくない。
「……ママのとこ帰ろうか、一緒に」
「うん」
娘は泣きながら頷いた。

俺は現場監督に頭を下げて少しだけ昼休憩を延長させてもらった。
娘の元まで駆けて戻り、手を繋いだ。
「お仕事、何してたの?」
「基礎を直してたんだ。ここで手を抜くとこの橋はいずれ壊れちまう」

「そっか、大事だね」
「ああ、イロハのイだな」
「何それ?」
「うーん、今でいうアイウのアみたいなもんだ」
「何それー」と娘は笑った。太陽のようだった。 

どれだけ世界が複雑でも、子どもの言うことにだけには耳を傾けなきゃいけない。こんなこと、大人のイロハのイだ。

できる限りの日陰を選んで、足早に団地に向かう。これから妻に会うことを考えると心拍数が上がった。娘の防護服は指先まで紫外線を通さないマテリアルで覆われていて、俺の酷い手汗がバレない服を着ていて、よかったと思った。

灰色の団地の影に入ると、一安心してゆっくりと3階まで登る。
ドアの前に立つと、何やら中から音楽が漏れていた。気になりながらも、まずは一呼吸置く。娘も気持ちを察してか、それを静かに待った。


ドアを開けると「Singin' In The Rain」が大音量で耳を包んだ。
娘は手を強く握り、顔は強張っていた。軽快な音楽に反して、嫌な緊張感が漂った。恐る恐る居間に入ると、木製の長テーブルの前に置かれた椅子に腰掛ける妻が、マグカップで何かを飲んでいた。

「あら、来たわね」
と妻は目を大きく開き、嬉々とした表情で俺の目をまっすぐに見た。
娘は微かに聞こえる声で俺の目を見ずに言った。
「パパ、逃げて。ママ、キノコ食べたから、危ない……」

キノコ……? と疑問に思っていると妻はマグカップに入っていた白い液体を自らの頭頂部へ注いだ。牛乳の匂いがした。そして天井に刺さる勢いでまっすぐに立ち上がる。黒い長髪から牛乳が雨のように滴り落ちていた。

手元のスマホを操作して「Singin' In The Rain」はさらにボリュームが上がる。妻は横の椅子に引っかけていたビニール傘を手に取り、音楽に合わせて振り回し始めた。卓上のマグカップとか花瓶、文房具を入れた瓶などは薙ぎ倒され、暴力的な音が響き渡る。俺はすぐ娘の前に立ち、娘は俺の足を抱き抱えた。
「いいわ、抑えておきなさい」
と妻は満面の笑みで言って、身体を回転させながらこちらまで近づき、ビニール傘で俺の頬を強く振り抜いた。一瞬何が起こったか分からなかったが、じわじわと痛みが追いつき、頬を触れると指先には血が付いていた。

妻は体の中心軸を失ったみたいにふらついて、右側頭部を痛そうに抑え、左目で俺の顔を睨んだ。曲は終盤に差し掛かっていた。

I'm happy again. I'm singin and dancin' in the rain.

妻は後ろ向きによろめき、ベランダに続く戸に手をかけて開けた。ベランダに出ると、手すり壁によじ登った。

「おい、やめろ、何しているんだ!」
と俺が強く叫ぶも、妻の元には軽快な音楽だけが届いているようで、恍惚とした表情をしていた。

I'm singin and dancin' in the rain.

妻は傘を開いて、後ろに一歩跳ねた。

曲を締めくくるように、銃声のような落下音が響いた。
落下地点には、白いキノコが群生していて、血を吸った。

[fin.]


#雨ことば三千世界  

梅雨のあいだ、雨が降るたび毎日、約3千字の”雨のことば”を題材にした小説を書き続けています。

雨に関連することばは「雨のことば辞典」を参照に「あ」から五十音順に1つずつランダムに選び、雨が降っている間に即興で書き上げます。

詳しくはこちらへ。


雨宮の最新長編小説はこちら。
本作は「人が植物へ輪廻する世界」を体験する体験作品として10月8日開催に向け制作中です🌱


「こんな未来あったらどう?」という問いをフェスティバルを使ってつくってます。サポートいただけるとまた1つ未知の体験を、未踏の体感を、つくれる時間が生まれます。あとシンプルに嬉しいです。