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大自然と人自然、西表島からドヤ街までの旅のルポルタージュ

この1週間の旅のルポルタージュです。
とてもたくさん行く旅のなかで、それを記録することは滅多にないのだけれど、今回はなんとなく、言葉に残して振り返ってみたいと思った。

一部公開できないこともあるけれど、ルポとしてあったことをただそのままに、いざ書きます。

まず、この旅で起きた主要トピック。

・鴨川から讃美歌が聴こえる

・ろうの人たちと音楽で踊る

・野外フェスの心得を教わる

・石垣島で馬とマングローブに触れる

・西表島の最秘境を目指す

・蟹獲ってたら遭難者と会った

・モリで魚を捕まえて、猪を捌く

・母なる森と別れる

・関西の逃げBarへ

では参ります。

旅立ち前日の空。この色をなんて言うのかずっと悩んでた。錆びたワインの色とか、血だったらちょっと心配になる色とか、そんな感じに落ち着いた気がする。

はじめに

今回の旅は京都で「Silent it」の依頼と、アドバイザーとして関わっている野外フェス「Ichi Fes」の合宿があったこと「JUNGLE CLUB DAO」のツアーで西表島へ、そして全国旅行割の関係で再び関空へ戻ることになったお陰で紡がれた物語。

鴨川から讃美歌が聴こえる

旅の初日は京都の鴨川から。
鴨川は東でいえば多摩川とか、代々木公園みたいな自由領域感が心地よい、日本10大好きな川の1つ。

現場の準備を終え、心をいい状態にととのえるために川辺に座って、ただ川を見つめていた。橋の下から2人の学生らしき女性のきれいな声が聞こえてくる。讃美歌だった。

この辺りは今回依頼があったドイツ大使館の施設や、教会、お寺、中華料理屋にインド料理屋や、いろんな国々の文化が混在する場所。そのうえ鴨川河川敷で遊ぶ家族、部活の練習、放課後のデート、飛ぶ犬、散歩する老人、夕日。

この世界の多様さを、賛美してくれたように感じた。

ろうの人たちと音楽で踊る

ご依頼があったゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川さんの企画で、目が見えない、耳が聞こえない、足が動かさない、などなどの特徴をもつ方々や、ドイツ、オランダ、イギリス、日本、などなど多国籍な人々が集うサイレントディスコが催されました。

こんないい感じの中庭の木の下で

Silent itでは必要な機材類をお貸しだしして、DJをさせていただきました。

サイレントディスコ中のコミュニケーションは手話or筆談のみというルール。そもそもサイレントディスコは皆ヘッドホンをつけているので、声でコミュニケーションとれない。

主催のKAZUKIさんは自身もろう者でありながら、サインパフォーマーや俳優として活動していて、今回はバーテンとして手話でオーダーされるドリンクを捌きつつ、サインパフォーマンスを披露。

とてもかっこよかった。
音が聴こえる聴こえないよりも、身体が動く動かないよりも、互いを知り合い、足りない部分は手を伸ばし合い、みんなが楽しいをつくる、それがフェスティバルだと思うから、この空間はとても心地が良かった。

この辺りについては下記にまとめたので、映像と併せて、よかったら。

野外フェスの心得を教わる

翌日は朝からアドバイザー兼DJ出演をしている京丹後で11/5に催される野外フェス「ICHI FES」の合宿へ途中参加。

今年初開催ながら、NVCや対話などワークショップ畑のメンバーが多いこともあり、とてもしっかり運用されているチーム。

午前中は互いのことを知り合うワークを通して、コミュニケーションが忙しなくなってくる今後に備える。それを分かってても多くのチームはそれに時間を割かないから、初開催なのにその時間を作れることがすごいし、とても大事なことである。

ランチは京都でフェスといえばvillageのタツさんかなと思い、ICHI FESを紹介しにお店へ。
villageはナチュラルヴィーガンフードのお店で、京都内外からたくさんのアーティストがライブをしている京都のフェスティバルシーンの重要拠点(と自分は思ってる)

タツさん自身も20年以上野外フェスのオーガナイズをしていて、とても柔らかく暖かく、ふんわりと整っている方。彼はチームの形として「花」を意識していると言っていた。

リーダーがいて三角に束ねるのではなく、花弁のようにそれぞれが役割を持ち、任せて、みんなで好きなようにつくる。それが無理なく楽に、みんなで楽しめるフェスをつくるのだという。

タツさんたちはもうだれかが頑張らなくてもいい状態にチームが醸成されていて、それはフェスづくりとしてとっても理想的だ。

じぶんはフェスの組織形態を八卦に準えているけれど、まぁほぼ花弁と同じで、DAOを通してより自律分散的に自動的にそれが成り立つ仕組みをOzone DAOで絶賛設計中。

ICHI FESも非常に自律分散していて、それぞれが前のめりにフェスに関わっていて、こんなチームがどんな時間を生み出すのか、ぜひ味わいにいらしてください。

石垣島で馬とマングローブに触れる

翌日、伊丹空港から石垣島へ飛び、旅は沖縄編に。

目的の西表島へ旅立つ前に石垣島のペンションに1泊滞在。ツアー会社に適当に選んでもらったペンションはこんな感じでした。

本棚を見ればなんとなく人となりが分かりますね

そして長年フェスを共につくってくれていたサエさんが石垣島に移住していたので、いろいろと案内してもらう。時間が経てばライフステージも変わるし、住処も変わるけど、どこに行っても友達がいるのは有難いことだ。

これは沖縄そばを食べるカラスと西表じゃないネコ

ミストサウナのような小雨と台風のような風が吹くなか、車で最近の近況共有などを。

乗馬用の馬を見に行く。目隠しみたいのは目にハエが入って病気になるのを防ぐためとのこと。
一本マングローブ。あたりにはマングローブの種がいくつか根づいていて、時間が経てば1本じゃないマングローブになる。
謎の手。

マングローブは枝のように根が生えて自重を支えること、辺りに貝が集まるのには理由があること、いろいろ教えてもらった。

互いに違う環境で3年も過ごせば、シェアしあえる情報の種類も異なって、ランチをしつつ、お互い生きづらいね、などと話していたけど、得たことも、困ったことも分かち合える友達がいて有難い。

西表島の最秘境を目指す

その日の夕方には風で大揺れする船に乗り50分、西表島に到着。今回の拠点となるゲストハウス「mana」へ。

自然食のショップもやってる
庭が既にジャングルみある

夕飯で今回の旅を共にする3人と邂逅。
webメディアの編集長、クリエイティブ企業等々の経営者、XR企業の元代表、といった面々。

そして翌日、朝6時に起きて西表島の中心地にある大秘境「マヤグスク」へ。

すごい眠そうだし実際寝てる

ジャングルを往復8時間ほど歩くハードトレイル。フェルト靴を借りて、湿地や川も渡る。

まさにジャングル

西表島の90%は亜熱帯の原生林で、内地とは植生も違えば、見たことない虫や鳥も羽ばたき、国外に来たような気分。

こんな道をひたすら歩く
イリオモテソウ
川にはこんな穴がたくさん空いてる。流れた小石で削られて自然にできたのだそう。

そして辿り着いたマヤグスクの滝。マヤグスクとは現地の言葉で猫の城を意味し、イリオモテヤマネコがいるくらい山奥深い場所にあることから名付けられたらしい。

前日の雨量によって水量は変わり、この日は10のうち6くらいとのこと。
この滝、なんと登れます

上を登るとこんな景色

水量がなければ更にこの上にも行けるらしい
滝の縁までいける
地層が積み重なり水流で切り開かれた天然の城

マヤグスクの上の空間はとにかく清いエネルギーに満ち溢れていて、極めて純度の高い自然の安らぎが囂々と流れ続けるものだから、ここまでの疲労も全回復してしまう。

(↑立体音響で現地の音を録音したのでイヤホンかヘッドホンをつけてお楽しみください)

原始華道では神への祈りとして花をただそのまま立てていた。剣山など当然ないので砂や石などで、出来るだけまっすぐに立てる。以前、対馬の白嶽へ登山した際に、あまりに畏れ多い山頂からの景色につい花を立てたくなったものの、強風で花が立てられず、代わりに石を積んだ。

神々の世界とこの世界を交信する手段として、自然界への感謝を告げる手段として、人はよく何かを立てる。この場所も、ついその畏敬の念を現したくなる場所だった。

積んだ石や立てた花は最後に元の場所に戻す


蟹獲ってたら遭難者に会った

マヤグスクから無事帰還し、一行は西表島東部地区の一番端っこにある南風見田キャンプ場へ。

これは朝に撮った写真

(すごくいい音が鳴っていたのでバイノーラル録音しました。ぜひイヤホンかヘッドホンで聴いてみてください🎧)

夜の帳が下りる頃、夕飯の支度を始めた。猟師さんにいただいた猪豚を1口カツにしたり、スープにしたものや現地の野菜を炒めたり、揚げたりして食べる。

キャンプ場に隣接した海岸で、幽霊ガニというカニが獲れるのだという。
せっかく揚げ油も用意できていることだし、幽霊ガニという名前も気になり、僕ら4人は食事中に砂浜まで向かうことにした。

ホタルが光る雑木林を抜け、波音が広がる砂浜へ。波打ち際の方まで歩いていると、白く光る影が素早く目の前を横切った。JUNGLE CLUB DAO発起人の七沢さんは、見たことない速度でそれに飛びつく。ちょうど虫を捕まえるカメレオンの舌と同じくらいの速度で。

これが幽霊ガニ

それぞれ1匹ずつ、食べる分だけ捕まえると、ここらにはエビもいるとのことで、エビを探すため河口付近を捜索し始める。

エビも透明で、後ろ向きに逃げるを追って捕まえる。日本最南端のこんな島田からできる原始的な生命活動に僕らは夢中だった。

振り返ると、5人目の見知らぬ男性が立っていた。
たぶん全員1度それに気付いてから、一回ずつは見て見ぬ振りをしたと思う。

しかし無視できないほどの距離に、幽霊ではない人間存在としての確かな解像度に、いよいよ話しかけざるを得なかった。

「どうしたんですか?」
「遭難みたいな感じです」

長髪で長身の、学生と思しき若い青年は木を杖にしてよろめきながら、答えた。強風で前髪が煽られ、目は見えないが大きな口は笑みをつくっていた。

この島には罪を犯し、追われ、流れ着く人も少なくないという話を事前に聞いていた僕らは、その曖昧な表現に警戒した。牽制としてひっそり石を持ったり、何かあった際に抑えられるように後ろに回り込んだりした。

「キャンプ場はすぐそこだから大丈夫。今日どうする?明日は?」と七沢さんが聞いた。

「いや、何も決まってないです。帰るお金もないので何とかしようかなと」

この島では多くの人がトレッキング中やガイドなしで森に入ることで命を落としてもいた。七沢さんはそれを僕らに入念に喚起していたし、かつ彼を訝しんでいたこともあり、強めの語気でこう言った。

「いろいろちゃんと計画して行動したほうがいいよ。死ぬからね、まじで。ここらへん」

「死ににきたんです」
と彼は答えた。

あぁ、そういう感じ、という空気が流れた。
彼は死に場所を求めて、片道切符で日本の一番端っこまで来ていた。
しかし遭難中に希死念慮が人に会いたい気持ちに変わり、人を求めて砂浜を2日間歩き続けていたのだと言う。

彼は自らをジョーと名乗った。リュックにはナイフや水筒、麻紐など基本的なサバイバル用品が詰められていたこともあり、魚をとって食べたり、滝まで水を汲みにいったり、なんとか生き延びていたらしい。

人里のあるエリアから完全に離れたこの場所から、集落への方向を指し示すことはできたけど、帰るお金もなければ、身分証もなく、島に身よりもなければ、空腹と疲労でよろめいている彼をまた一晩歩かせるようなことは、どう考えても人の道から外れていた。

「とりあえず一緒に飯食おう」

と、僕らはキャンプ場へジョー君を招いた。自殺寸前の子に出会うことはこれで何度目かだった。”現代の駆け込み寺”をコンセプトにしたシェアハウス「リバ邸」で管理人をしていた頃、夜にそういう子が駆け込んで一晩中話を聞くこともあったし、逃げBarに逃げてくる人の中に、そういう人もいた。

そういう時はだいたい、理由を突き詰めて解決しようなどとは思わずに、体温→水→食事という人間として基本的な状態を整えることと、あとはいい音楽と雑談、その中で聞いて欲しそうなことがあったら聞く、という感じでいた。

なのでまずは火を囲み、水を与え、食事を皆で振る舞った。ジョー君は皿に乗せた猪や野菜や米、コップに入れられた猪とトマトのスープを、あっという間にたいらげた。それを見て皆少し安心していたように思う。

「若いうちは狭い世界しか見れないからね」
と七沢さんは過去の自分と彼を重ねて話し始めた。
18年前、七沢さんは彼と同じように片道切符だけでこのキャンプ場へ辿り着いた。当時していた音楽のことしか考えられず、その後のことなど何も考えられなかったという。

そこで現地の建設会社で日銭を稼ぎながら、海に潜って魚を突いたり、この島の自然に助けられながら生きてきて、その恩返しのためにJUNGLE CLUB DAOを立ち上げて、島の環境保全に寄付をしていた。

七沢さんは18年前の自分に語りかけるように
「生きててよかったよ」と言った。

ジョー君は両手で顔を覆って、たくさん泣いた。

DAOとは別に個人でキャンプに来ていた笹本さんも、ジョー君を気にかけて、最後の日のためにとっておいたステーキ肉を1枚焼いて、全部彼の皿に乗せた。

ことあるごとに、ジョー君は泣いていた。

その後も共に五右衛門風呂に入り、火を囲み、たくさん食べて、話して、一夜が過ぎた。

翌朝、ジョー君は笹本さんと共に離島めぐりの旅に出た。
出発する頃には表情も明るくなり、気力も戻っているように見えた。
連日の暴風で、雨風も凌げない砂浜じゃろくに寝れてなかったのだろう。

お金の工面も笹本さんが面倒を見ていただけることになり、しばらく島を巡った後に地元に帰ることができたとの報告も聞いた。

彼の名前はジョー。茨木でエアコン整備をしている、V系バンド好き。
日本の南の果てで起きた、嘘みたいな本当の話。

その日の夜の星空


モリで魚を捕まえて、猪を捌く

その後も七沢さんがコーディネートしてくれたワイルドプログラムが続き、昼から海に入り、モリで魚を突く。

モリを工作するところから始まる
目の前の海岸は遠浅なので素人でも割と安全

結果的に僕らは1匹も捕らえることができなかったけど、師匠が大物を捕らえ、夕飯確保。魚突きはことごとく躱され、めちゃくちゃ難しかった。

アカジンというレア魚をGET

その日の夜はmanaで宴会とのことだったので、魚を持って一度manaへ帰還する。到着とほぼ同時に、猪が捕まったとの情報が入り、解体現場へ向かう。

まずは体毛を燃やし、金束子で擦って綺麗にする

到着するとバーナーで体毛が炙られ、解体が始まろうとしていた。
体毛を綺麗にした後、首を落とし、背中から身体を開き、それぞれの部位に切り分けていく。

猪の目は青く、この世界ではない別のどこかを見つめているように見えた。猟師さんたちは日々のルーティーンとして笑いながら淡々と解体を進め、僕らは時に顔を歪ませながら、目を離さずにそれをただ見つめていた。

同じ哺乳類の生き物から肉塊へ、肉塊から商品へ、商品から料理へ、1つの生命が解体の経過と共に僕らとの関係性上の観念を変えていく様に、人が、自らの頭の中で完結させる自然観の在り様を見た気がする。

焦げた体毛を落とす作業だけ手伝う

そしてmanaへ帰り、調理されたアカジンや猪に加え、タコライスやゆし豆腐、白身魚と野菜のオイル煮込み、などなどご馳走が並ぶ。

猪や魚はもちろんだけど、西表野菜がとにかく美味しかった。島では大規模農業をほとんどしていないので市場には野菜が出回りづらいけど、現地に行くと食べられる太陽の恵み。

調理は人類最大の発明だと言われる。調理が発明されたお陰で人類は劇的に食べられるものの種類が増え、必要な栄養素を確保し、保存ができるようになり、生存繁栄をしてきた。

自然が育んだ生命を日々体内に取り込む僕らはこの自然に何をすることができるのか、人がいなくなれば勝手に回復する自然に対して、人はどう関わるのか。そもそも自然の一部としての僕らは、不可逆な生命の大循環の中でなぜ思考するのか。オオツノジカの角のように肥大化し過ぎてしまった脳は、自然と自らを切り離して語るように、いつの間にか成ってしまっている。

この島にいなくても僕らは日々の中で、その問いと向き合い行動することができるけど、この島の環境は人を生態系の一部としての自然状態へ整え、クリアに世界を見ることができる。意味という病の処方箋は、ただ自然と共に在ることなのかもしれない。

母なる森と別れる

manaのオーナー夫妻

帰りのフェリーに向かう車の中で、manaのオーナーのカズさんとこの島の自然が持つ包容力について話していた。広大な原生林の放つフィトンチッドに癒され、人に侵されず多様性を保つ鳥や虫たちのサラウンドに包まれ、エメラルドブルーの海には極彩色の魚が泳ぎ、それぞれの環境に付き纏う危険や緊張感がちょうどいいスパイスになって、人を自律させる。

包容力とはただ遍く人々を優しく包み込むということではなく、自然な状態でそこにいていいことの認証、自律を遍く動植物に対して与えていることそれ自体、その平等をいうのかもしれない。

人世界の社会保障とは異なる、ソーシャルインクルージョン的ではない自律を求めつつも、マングローブは様々な生き物の家となり、地衣類の繁殖を許し、落葉は餌となり、昆虫や鳥は植物の受粉を助け、自律して生息することそれ自体が相互扶助になり、それを生態系と呼ぶ。

人社会の組織や社会でも生態系という言葉が使われ始めて久しいが、人は自らに最適化した都市という環境に順化するあまり、都市生活より長く遺伝子に刻まれている森林育ちの哺乳類としての自律を忘れかけてきた。純然なる環境の奴隷として適応してきた我々が忘れかけてきたものを取り戻すには、やはり環境に再順化(リバース・ドネスティケーション)されにいくしかない。そうしてやっとweb3本来の思想的社会が自律分散拡張していくのだろう。

関西の逃げBarへ

全国旅行支援を適用する関係上、出発した地域と同じ地域に到着しなくてはならなかった。ということで関空へ到着。

新大阪から家に帰るまでの途中で、ふと思い立ち釜ヶ崎芸術大学へ向かう。
釜芸は西成区にある通称「釜ヶ崎」と呼ばれる日雇い労働者の簡易宿泊所が立ち並ぶ、いわゆるドヤ街の商店街にあるゲストハウスのふりをした芸術大学。

店頭にはバザーが展開され、ふらっと中に入ると天井には半紙が張り巡らされ、ゲストハウスのスタッフから路上にいたようなおっちゃん、泊まりにきた外国の人々、有象無象の混沌とした生活のジャングルが広がる。

フリースタイル書道

釜芸は、様々な入り口に誘い込まれてやってきた人々を遍く誘い込み、共にご飯を食べたり、話したり、学びや表現の機会を作る、開かれた場。はじめて知ったのは2014年の横浜トリエンナーレ。なんて現代的で土着的で、民藝的で地に足ついて頭が飛んだアイディアなのだろうと感嘆した。

「学びたい人が集まれば、そこが大学になる」というコンセプトのもと、希望者は誰でも無料やカンパで音楽や絵画、写真、詩など、さまざまなプログラムを受講できる。

釜ヶ崎という様々な事情を持った人たちが流れつく場で、仕事も家族も行き場もない人たちも、そうでない人たちも混じり合い、互いの知恵を交換し、それぞれに表現を試みる。その作品群が何とも心にくるのだ。

その日もいろんな人たちと共に夕飯を囲んだ

関西の逃げBarなんて言ってしまったけど、逃げBarの大大先輩で、在り方もやり方もとても尊敬している。フェスのフリをしたスペキュラティブデザインであるソーシャルフェスも、今思うと釜芸に影響を受けて生まれたのかもしれない。

庭にはみんなで掘ったらしい井戸があり、祀られている

様々な運命や時代の波、信念や娯楽、交差する人間模様において、人社会も立派に混沌系だ。そこにネーミングやセパレートが成されるのは、一定の人たちの生きやすさのために必要なのかもしれない。でもその前に、分ける前に、どれだけ相手のことを知っているのか、街のことを知っているのか、ヒノキもツツジも知らずに、それを森と呼んでいないだろうか。

不安や恐怖から生まれる偏見は大抵、未知に起因する。でも自分が仮想の世界を思い描いて、それを現実世界でフェスとして表現しているのは、未知以上のエンターテイメントなんてないと思うからで、未踏の体験でヒューマンスケールしようぜって、破壊的に見えるかもしれないけど、破壊的創造を愉しむことは文明の土壌を耕し続けるにあたり、持続可能だと思っている。

知らない人を知ることは思っている以上に強烈な娯楽であり、想像機会だ。西表島で知らない植物に興味を持って観察するように、この人間ジャングルにおいても好奇心豊かに、解像度の高い個人をたんと味わっていきたい。

そんな旅のまとめ。
Ho. Mitakuye oyasin.


 
アメミヤ @amemi_c5


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