見出し画像

tel(l) if... vol.8 マグカップ

登場人物

千葉ちば 咲恵さきえ
 
主人公。進学コースの女子生徒。伊勢のことが好き。

伊勢いせ
 特進コースの社会科教師。咲恵と卓実の勉強を見ている。

麹谷こうじや 卓実たくみ
 
特進コースの男子生徒。


「伊勢先生」
思わず名前を口にした。本物だ。
久しぶりすぎて、現実感がなかった。

「ぼくに用があったんじゃないの?」
「え?」
「社会科準備室の前で見かけたから、どうしたのかなって」

「あ、えっと……」
上手く言葉が出てこなかった。
卓実の冷たい視線と声、さっきの女子との会話が脳裏にこびりついていた。
それはいま、関係ない。
そう思って話そうとすると、涙が出そうになった。

「テストの成績、あんまり良くなかった?」
そうだけど、そうじゃない。
先生きっと、追いかけて来たこと、後悔しているだろうな。
困らせてしまう前に、用件を言わないといけない。
分水嶺にいるのに、進むことも引くこともできなかった。

先生は「まだ時間あるかな?」と聞いた。
私が肯くと、先生は一度職員室に行って、生徒指導室の鍵を取って来てくれた。

生徒指導室って初めてだな。こんなふうになっているんだ。
「千葉さんは来たことないでしょう」
先生が窓を開けながら言った。
心の声が聞こえたのかと思った。

「暑くない?」
私は首を振った。
先生は換気のために扇風機のスイッチを入れた。
「寒かったら消してね」と言うと、また、どこかに行ってしまった。
暑くはないが、空気がこもっている感じはした。

待っていると、やけに長く感じて、思わず時計を見た。
いつもなら家に帰っている時間だ。
そういえば、お腹が空いたかもしれない。

「千葉さん、ドア開けてー」
「はっ、はい!」
慌ててドアを開けると、コーヒーを持った先生がそこにいた。今日はマグカップが二つだ。

「えっ、淹れてくれたんですか?」
びっくりして涙が引っ込んでしまった。
「ぼくもコーヒー飲みたかったから」

コーヒーはまだ熱くて少しずつしか飲めなかった。
深煎りの豆だろうか。
さっきまでのモヤモヤが消えていく。

コーヒーを飲みながら、私は先生に中間試験の点数について話した。
クラス一位になったと言っただけで、「すごい!」と褒めてくれた。
「なんだ、てっきり点数が下がったのかと思ったよ」

私が進学コースでのクラス一位はさほど凄くないこと、思ったより点数が上がらないことを伝えると、先生は「点数だけがすべてじゃないから」と言って笑った。

「麹谷くんもなかなか良い結果だったみたいだよ」
「卓実と話したんですか?」
「麹谷くんとは授業でも会うから」
「いいな」

思わず本音が漏れた。私はコーヒーを飲んでごまかした。
「美味しいです。ありがとうございます」
「それで、用事ってなんだったのかな」
A3の画用紙を持って帰りたいのだと言うと、先生は、「そんな理由で泣いていたの?」とは言わず、輪ゴムと袋を見繕ってくれた。

「すみません。明日、返します」
「返さなくていいよ。それと、明日は学校休み」
ツボに入ったのか、先生がまた笑った。
恥ずかしいけど、先生が笑ってくれたならいいか。

言われた通り、画用紙を丸めて輪ゴムで留める。
どうしてこんな簡単な方法が思いつかなかったのだろう。
今日はとことん冴えないだな。

「けっこう、遅くなっちゃったな。誰か保護者の方、迎えに来てくれそう?」
「はい。駅まで来てくれます」
「うーん……それだと、学校から駅までひとりか……」
「大丈夫ですよ」
「うーん……麹谷くんが一緒に帰ってくれたら良かったんだけどな」

さっきのことがあって、先生には私が危なっかしく見えたのだろう。
失敗した。こんなに先生を困らせてしまうなんて。
でも、これ以上、先生に何かをしてもらうのは申し訳なさすぎた。

「担任の先生は?」
私が答えると、伊勢先生は明らかに落胆した。
「もう帰ってるな」
「心配しすぎですよ」
「そしたら、無事に着いたら連絡くれる?」
「伊勢先生にですか?」
「そう。そこの駅についたときと、ご両親と合流したときにメッセージ送って。それから、何かあったら連絡して」
「わかりました」
伊勢先生って本当に生徒思いなんだなと思った。


続きはこちらから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?