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ウズベキスタンの年越し#04

ようやく着いたご自宅は、近くに大統領も住んでいるという閑静な住宅街にありました。

車を降りると、辺りがまた一段と冷え込んでいることに気付かされます。
アパートの1階、少し見上げた位置にある小窓からはオレンジ色の灯りがぼんやりと洩れだし、私たちを照らしてくれました。恐らく中には数人いるのでしょう、楽しげな笑い声が玄関の外まで聞こえてきます。


「ようこそ僕の実家へ」
半歩先を歩いていたルスタンはそう言って扉を開け、私を優しく案内してくれます。
そこは玄関とは別に設けられたキッチン横の勝手口。一呼吸おいてそっと中へ入ってみると、調度キッチンで料理をしていたお母さんがこちらへ微笑みかけてくれました。
その隣にはキリッとした顔立ちの男性と、お腹の大きな女性、中学生に見える男の子もいます。
皆さんとても嬉しそうに、そしてどこか恥ずかしそうに、私に優しい笑顔を向けてくれました。
玄関に集まって私を歓迎してくれる皆さんの温かさに、つい先ほどまで感じていた不安や緊張がみるみると溶けて身体の外へ流れ出していくのを感じます。

言葉で言い表すのは難しいですが、ご自宅に一歩足を踏み入れたその時から、私の全てがここに受け止められるような、それこそ私はこの家族に会うために長い旅を経て帰ってきたかのような、そんな感覚がありました。
背後のルスタンを見上げると、こちらもにっこりと微笑んでいます。


ルスタンは3人兄弟の長男。
誰よりも率先して私の身の回りのお世話をしてくれたのは、次男のファーホッド、あのキリッとした男性でした。
のんびり屋さんで見た目も話し方もどこかミュージシャンのエドシーランを思わせるルスタンと違い、ファーホッドはいわばディズニー映画に出てくる若い執事のよう。私に一通り家を案内した後も「何かお手伝い出来ることありますか?」と尋ねてくれるジェントルマンでした。
そして彼は何より頭がとても良く切れ、世界を面白い切り口から見ています。ルスタンと同じく日本の歴史や文化のことが大好きで、その他あらゆることに詳しく、それでいて饒舌です。
今は弁護士として働いていますが、この3月からはロシアで医学を学ぶルスタンに倣い、韓国へ留学して法学を極めるのだそう。


余談ですが、ウズベキスタンにとってこの韓国はとても身近な国であり、街には多くの韓国系の人々が生活しています。その理由を、彼らの歴史とともに説明してくれたのは、昨晩のホテルマン、ジャモルでした。(前々回の投稿冒頭に登場しています)

歴史を遡ること1800年代終わり。
朝鮮半島北部に住んでいた朝鮮人は、日本の侵略から逃れる為、ロシア東部へ移住しました。
しかしそこでの暮らしはあまりにも過酷で、その上ロシア(ソビエト)と日本との関係が悪化すると、今度はロシアから「日本のスパイではないか」と疑われてしまいます。そして当時ソ連だったウズベキスタンやカザフスタンといった中央アジアへ、強制的に移住させられてしまったのです。

「こういった歴史から、今も多くの朝鮮人がウズベキスタンで暮らしている。今や日本は最も世界から愛される国の1つだけれど、ここには少なからずこの身近な朝鮮人に同情し、反日感情を持った人々もいると覚えておくといいかもしれないね。」ジャモルの言葉は私にとってとても印象深く、学び多いものでした。


さて、お母さんは私とルスタンのために温かいスープを作っていてくれました。
それを私たちの元へ運んできてくれたのが、お腹の大きな女性、ファーホッドの奥さんであるシャスクロです。

出産を目前に控えていると言う彼女は、明るくも控え目な女性でした。英語が話せないこともあかもしれませんが、シャスクロもお母さんと同様に、男性陣と比べると常に一歩引いていて、私に対してもとても謙虚です。それでいて時折、夫であるファーホッドに体調を心配されている素敵な間柄に、どこか日本の古き良き家庭の姿が重なります。

先日、ルスタンから「シャスクロが無事に出産した」との連絡がありました。韓国への留学を予定していた夫のファーホッドも、流行中のウイルスの影響で韓国へは行けず、家でオンライン授業を受けていると言います。
一刻も早くファーホッドが安全に渡航できる日が来ることを祈るばかりですが、夫婦一緒に子育てができている環境はきっとシャスクロにとって心強く、これもこれで幸せなかたちでしょう。
彼女たちの赤ちゃんは可愛いに違いありません。またいつか、その子に会いに行きたいものです。


お母さんの作ってくれたこのスープ、野菜と牛筋がじっくり煮込まれてあり、身体にじんわり染み渡るような優しい味付けでした。今となってはこの信じられないほど美味しいスープのレシピを、なぜあの時お母さんに教えて貰わなかったのかと悔やまれます。それがこの旅行で唯一の後悔かもしれません。
付け合わせのサラダも、自家製のトマトジュースも、ウズベキスタンのパンであるノンも、日本人の舌に合うどこか懐かしい味わいで、本当に美味しかったです。
そう、ウズベキスタンはパンがとても美味しい国。
個人的には日本のパンが世界一だと思っていますが、2位の国はどこかと聞かれると自信を持ってウズベキスタンだと答えます。ぜひ皆さんもウズベキスタンへ行った際には、このパンも楽しんで頂きたいです。


その美味しいスープやノンを頂きながら、家族みんなとの会話を楽しみます。
少し無愛想に私の隣に座ってくれたのが、歳の離れた3男坊のアリシャー。当時まだ14歳、思春期真っ只中の男の子です。なかなか素直になれないアリシャーですが、ルスタン経由でこっそりとサッカーと日本の柔道が好きなこと、そして日々練習に励んでいることを伝えてくれました。家族みんな、こんなアリシャーのことが可愛くて仕方ない様子です。

そして最後に、彼らのお父さんはこの町で1番大きな病院に勤めるお医者さん。
大晦日のこの日も遅くまでお仕事をされていたようで、私たちが楽しく会話をしていた時に、少しお疲れの様子で帰宅されました。
昼間にルスタンと博物館を訪れた際に、ウズベキスタンでは昔から目上の人へ挨拶する時には右手を左胸に当ててる風習があると教えて貰っていたことを思い出し、お父さんに対しても私なりに敬意を表します。
流石はこの素敵なご家族の大黒柱、お父さんはとても尊敬できる寛大な方でした。


この後も英語の話せるルスタン、ファーホッド、お父さんと4人で色々な話をしました。

まず新鮮だったのは、これはこのご家族だけでなくウズベキスタンで出会った殆どの人に言える話ですが、皆さん口を揃えて私に「君ほど肌の白い日本人は初めてみた」と言っていたこと。
私自身、自分の肌が特別白いとは思いませんが、もしかするとウズベキスタンを旅行する日本人にはこんがりと日焼けした人が多いのでしょうか。もしくは彼らが仮に「日本人は黄色」という固定概念を持っているのだとすると、実際に会った日本人は想像した肌色ではないと思われたのか、はたまた現地に住む多くの朝鮮人の方と私とを比べて、微妙な肌色の違いを感じ取っているのか、私にはよく分かりません。
ただこの現代において、特に外国で肌の色についてはっきりと「あなたの色は明るいね/暗いね」と言うことは滅多になく、あるとしたら日本人・中国人・韓国人の化粧の違いを言及する時くらい。
その世間的にタブーとされている話題をストレートに私に伝えてくれるウズベキスタン人の皆さんは私にとってとても興味深く、その素直でオープンな態度が、意外にも心地よく感じられました。


他に面白かった事と言えば、私の故郷が長崎だのと伝えると、その原爆の歴史や被害についてたくさんの疑問を投げかけてくれたことでしょうか。
お父さんはお医者さん、ルスタンも医学を学んでいることもあり、放射線の被害が長崎の人や街、後世にどのような影響を与えたのかについてとても興味を示してくれました。

余談ですが、私の祖父は1945年に長崎に投下された原子爆弾の被爆者です。私自身もその被害や影響に関心があった為、幼い頃から自分なりに知見を深めてきたつもりでした。
そういったこともあり、ルスタンやその家族がこの被害についてたくさん質問をしてくれたことは、私にとって大変嬉しい出来事でした。
しかし被爆者の子孫である私の体調のことまで踏み込んで質問してくる人達は私の経験上初めて。被爆者やその家族が差別されてきた悲しい歴史もあるような、こちらも世間的にはタブーな話題に、彼らはあくまで自然に、フラットに、そして愛を持って触れてくれます。偉大な方々です。


他にも仕事のこと、家族のこと、たくさんの話をして、皆さんとの楽しい時間を過ごしました。
しかしあまりの心地よさに、私はだんだんと眠気を感じてきてしまいます。決して流暢でない英語を話していたこともあり、皆さんの会話がどこか遠くでなされているように感じてきました。

話を振られてもスムーズに言葉が出てこなくなった私に、ルスタンは小声で優しく「少し寝たらどう?」と提案してくれました。私の変化は分かりやすいそうです。
ここで寝たら、せっかくの家族との楽しい会話や年越しを逃してしまう。そう思い初めは少し躊躇いましたが、確かに眠たくて仕方ありません。
「22:00に起こしてあげるね」と言ってくれるルスタンの優しさ甘え、お母さんに案内されたルスタンの部屋で、つかの間の眠りにつきました。


お母さんのスープ



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