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連載『レオニード・ヤコプソンの世界』 第2回 ヤコプソンの来日、そしてバレエ『ヒロシマ』

こんにちは!
ヤコブソン・バレエ団(ロシア国立サンクトペテルブルグ・アカデミー・バレエ)の創設者であるレオニード・ヤコプソンの魅力をご紹介する連載『レオニード・ヤコプソンの世界』第2回をお送り致します。

今回もロシア・バレエの研究者である梶彩子さんにご紹介いただきます。
第2回はヤコプソンと日本の意外な繋がりについてです。


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 こんにちは。前回の投稿では、簡単にヤコプソンの経歴をお話ししましたが、今回は、あまり知られていないヤコプソンと日本とのつながりについてご紹介します。

1.青年期の来日

 実はヤコプソンは16歳の頃日本に来たことがありました。それも、旅行などではなく、自分の意思とは全く関係のないところで、当時の不安定な国際情勢に巻き込まれたためでした。

 1917年、ロシア革命が起き、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)では人々が食糧難や燃料不足に苦しみました。そこで、1918年5月、ペトログラードの子供たち900人ほどが、より食糧が豊富なウラル地方へサマーキャンプに送られます。その中には、我らがレオニード・ヤコプソンを含むヤコプソン3人兄弟もいました。

 夏が終わったらペトログラードに戻るはずが、革命後の混乱で帰路が断たれてしまいます。長く寒い冬の足音が近づくも、食べ物も衣服も無く困窮する子供達。そこでアメリカ赤十字が救出のため立ち上がり、極東のウラジオストクに子供たちが輸送されます。一年程を衣食住が保障された環境で過ごしますが、ウラジオストクも日本軍のシベリア出兵により安全ではなくなり、アメリカ赤十字は海路で子供たちを返すことにします。この要請に応えたのが船舶会社の社長、勝田銀次郎でした。貨物船「陽明丸」を客船に改装し、1920年7月13日にウラジオストクを発ち、室蘭、サン・フランシスコ、パナマ運河、ブレスト(仏)を経由し、10月13日にコイヴィスト港(フィンランド)着という経路で子供たちを故郷へ送り届けました。急遽寄港した室蘭では地元の子供達との交流も行われたそうです。おそらくヤコプソンが最初に訪れた外国も日本ではないかと考えられます。ヤコプソンがバレエを始めたのは、この世界一周から戻ってまもなくのことでした。

リチャード・ヴェニングのアーカイヴより

(一番左の青年がヤコプソン,1919年撮影 / 提供:リチャード・ヴェニングのアーカイヴより   https://petrograd-kids-odyssey.ru/   )

2.世界一周のその後

 その後、第二次世界大戦や冷戦で複雑な政情が続き、世界一周の参加者たちは沈黙を余儀なくされ、子供達の救出計画は忘れられていきました。敵対しあう三国では世界一周の話はタブーとされ、特に海外渡航が自由にできないソ連では、命の危険もある程でした。日本側の参加者たちである、船長や船員たちとソ連の子供たちが再会することはありませんでしたが、アメリカ側の元赤十字メンバー、ブラムホールはその後ソ連を訪れ、かつてのペトログラードの子供達と再会を果たしました。ヤコプソンと世界一周の参加者たちは一堂に会し、ヤコプソンのバレエを鑑賞しました。ブラムホールはヤコプソンの才能に心を動かされ、ヤコブソンのバレエ団「舞踊ミニアチュール」のアメリカ公演実現のために奔走しましたが、残念ながらヤコプソンの急死により叶いませんでした。

3.バレエ『ヒロシマ』

 1969年、ヤコプソンは『ヒロシマ』(音楽: ヘンリク・グレツキ)という短いバレエをつくります。バレエとヒロシマ?と思われるかもしれませんが、ソ連では原爆の悲劇はヤコプソン以前にも1960年代頃から何度かバレエ化されていました。それは核戦争の危機が高まった時期とも重なります。当時の平和を願う人々の声を反映していたとも言えるでしょう。「原爆を繰り返してはならない」という強いメッセージがそこにはありました。
当時の流行に加え、ヤコプソンは、ロシア革命や第二次世界大戦(独ソ戦)等、当時の歴史的な出来事も積極的に扱ってきた振付家です。さらに、日米は子供時代の世界一周で自分の命を救った国でした。その二国間の戦争の結果起きたのが原爆の悲劇であり、決して無視できないテーマだったのではないでしょうか。
 ヤコプソンのバレエ『ヒロシマ』のインスピレーションの源は、丸木位里・俊夫妻の大作『原爆の図』でした。これは、全15作に渡る原爆の表象として大変有名な作品ですが、ヤコプソンはこの『原爆の図』と同じように、被爆の苦痛そのものを踊りで表現しました。それは、平和な生活がいかにして奪われたかを物語る他の振付家のバレエとは異なって、被爆した姿でダンサーが登場する非常にショッキングな作品でもあり、原爆の悲劇そのものは奨励されていたテーマであったにもかかわらず、上演禁止の処分を受けています。禁止処分の裏を返せば、それだけのインパクトのある作品だったと言えます。ヤコプソンは、『ヒロシマ』について次のように述べています。


―――これは娯楽でも、ポアント、アラベスク、マイムといったクラシック・スタイルの中で人々が見たいイメージでもありません。これは本物の人類の惨劇であり、爛れた皮膚であり、火傷に覆われた身体であり、腐敗していく骨です―これこそが、『ヒロシマ』なのです。これは、20 世紀のあらゆる惨禍への抗議となるはずです 。
引用元: Якобсон Л. В. Письма Новерру: Воспоминания и эссе. Нью-Йорк: Неrmitage Publishers, 2001. С. 339(和訳: レオニード・ヤコプソン『ノヴェールへの手紙: 回想録とエッセー』Неrmitage Publishers、2001年、339頁)


原爆の惨禍を人類の惨劇ととらえ、その残酷さから目を逸らさずに創作したヤコプソンの、振付家としてはもとより、芸術家としての姿勢が見て取れます。
 残念ながら『ヒロシマ』はレパートリーに残りませんでしたが、ぜひより多くの皆さんに、こんな作品があったということを知っていただきたいです。

4.おわりに

 約二年半に渡り親元を離れ、最後には北半球をぐるりと周って故郷へ帰った子供達とヤコプソン。自由な海外渡航などとても許されなかった時代に、同世代の振付家よりもいち早く世界を目にしたことは、ヤコプソンの振付家としての世界観の形成に影響を与えたといえます。そして、原爆の悲劇と真正面から向き合い、「二十世紀のあらゆる惨禍への抗議」とした『ヒロシマ』は、ヤコプソン作品の中でも最も悲惨で残酷なバレエです。
 
 今回の記事を通じて、日本との関りを知っていただくことで、ヤコプソンをより身近に感じていただければ幸いです。


【梶彩子/プロフィール】
東京外国語大学ロシア・東欧課程ロシア語学科卒。サンクトペテルブルグ国立大学歴史学部西欧・ロシア文化史学科修士課程修了。現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科博士後期課程在学中。専門はロシア及びソヴィエト・バレエ史。

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ヤコブソンの知られざる過去と日本との繋がり、あらゆる題材をバレエに取り入れた姿勢がうかがえるエピソードでした。

ヤコブソンの『ヒロシマ』は、あまりにも直接的な表現だったということで上演される機会も少なかったようですが、戦争と核の残酷さと恐ろしさを私たちに伝えてくれる作品の一つであったことは間違いありません。
残念ながら、今この作品を観ることはできません。しかし、戦争の記憶が薄れつつある今、このようなバレエ作品があったということを、私たちも知っておくべきなのかもしれません。


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