いもと。の人生Dance & Roll #4

僕は最近ずっと考えている。

それは、僕の音楽について。僕の音楽って、どこにどんな需要があるんだろう?好きな人は好きかもしれないけど、興味ない人にしてみればそれは道端のアスファルトのかけらに過ぎないわけであって、じゃあ僕は誰に向けた音楽をやるのが正しいんだろう?と。

決して上手くもない歌とギターで、決して万人に受け入れらるような曲と歌詞を作れるわけでもなくて、でもそれが一部の変態(笑)には刺さるみたいで。こう考えていくと僕のやってることって一体何なんだろう?って。

よく考えてみれば、僕は昔からそうだった。いつだってきっと時代の先を行きすぎていたんだろう。今流行ってる曲調なんて僕が曲作り始めた時からやってた。僕が作る歌詞と銘打った文字の羅列なんて、きっと誰かの模倣に過ぎないと嘲笑われてしまうようなものばかりなんだろう。

実際に褒められることだってある。「いもと。の語彙がすき」「日本語の本来の美しさを感じる」とか。それは僕が日本語を喋って、日本語で歌うミュージシャンだから、せめて語感くらい良くないとと自分なりに意識して作っているものだからだ。僕の友人に話した内容を此処にも載せると、Adolescent Rebellionというアルバムは10代の焦燥感や不安や劣等感、躁鬱や哀しみを精一杯表現したアルバムなんだ。彼のお気に入りは「いつになったら」だった。この間通話中に質問されたことに答えていたんだ。「なぜ10代の曲なのに煙草が出てくるの?いもと。さんの歌だから?」ということだった。たしかに「いつになったら僕は、煙草のm数上げれますか?」という歌詞を書いた。この理由は、煙草のm数っていうのは普通大人であれば下がって行った方が良いとされてる訳だが、子供のうちはm数が高い方がカッコいいと思うからだ。「アイツはセッターとかピースを吸っているのに、僕はいつまで経ってもマルメンの8mmだなぁ」ということである。

逆にむしろここまで考えないと僕の歌詞の一瞬について考察できないわけだが、これではいけないものなのだろうか?逆に否定的な意見もある。

「展開がなくて飽きる」「変えたほうがいい」「繰り返し聴こうとは思わない」など。
コレに関してはたった一言。うるせえ。
僕は自分の敬愛するThe Jerry Lee Phantomの音楽性を踏襲してるのだ。僕の音楽を否定するってことは、The Jerry Lee Phantom、ひいてはThe Clashを否定することになる。展開がいっぱいある曲が聴きたいならクラシックとかサイケとか聴いてやがれ。

僕にあるプライドは、自分の信じる音楽を皆んなが好きになってくれたらいいなって願望が根本的にあるわけで。好きになってくれそうな人全員に行き渡って欲しいし、逆に嫌いになりそうな人全員聴かないで欲しい。

最近、腹を立てているのは、わざわざ僕は曲を聴いて欲しいと回ってるのに「聴かないよ」「興味ない」みたいな態度を取る輩に関してだ。
なら、絶対僕の曲なんか聴くなよと。どこかしこで流れたって聴くなよ。カッコいいとかいい曲とか話題にもして欲しくないし、カラオケで誰かが歌い出したらその間だけ退室してて欲しいとすら思ってる。あの時一蹴してきた人間に、僕の曲に価値が生まれ出した途端聴き出すミーハーな人間に届けるメッセージなんか無いんだよ。

僕は刺さる人にだけ刺さってくれればいい。刺さる範囲が広いに越したことはないが、それでも好きって言ってくれる人にだけ届けていたいんだ。


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