ファーン。あの音で起きるわけである。
ファーン。
不安、と当て字をしたくなるような甲高いサウンドで目を覚ます。
フオーンでもいいが、その場合は、不穏、と当てよう。
なんにしても「安」らかでも、「穏」やかな音でもない。心ざわめく。
長さにして5秒ほどか。結構長く響くから意識せざるを得ない。
そう、これは葬儀場を離れる霊柩車のクラクションである。
わたしは毎日その響きにいささかの哀切を誘われながら、起床する。
中学か、高校に在籍している時分、実家から徒歩3分のあたりに葬儀場が開いた。
施設の立地する方向から、長く間延びしたサイレンのようなものが
朝方になるたび聞こえてくることは漠然と認識していた。
しかし物心ついてから葬儀に参列したことのないわたしはサイレンと結びつけず、
胸中になんらの哀切も不安も不穏も掻き立てられないでグウグウ眠っていた。
梅干しを知らぬ文化圏にあるひとがソレを見たところで
唾腺を刺激されず、したがって唾液も分泌されないのと同じである。
ニュースやドラマ、漫画、小説などの各種メディアを通して、
葬儀場を霊柩車が離れる場面の描写に触れたことはきっとあるはずだが、
毎朝自分が耳にしているあの音色に結びつけることは一度とてなかった。
しかし先頃曾祖父を亡くしたとき、音の正体をついに理解した。
あれは腹立ちまぎれに誰かが鳴らすクラクションに過ぎないんだろうよ、
と、心のどこかで納得して放っていただけに、愕然とした。
死せる者が旅立とうとしている報せだったとは。
その瞬間、どこかで見聞きした気がする無数かつ無名のファーンと、
目下、ほかならぬ我が曾祖父を載せた車が鳴らすファーンが一致した。
するとそれ以降聞くファーンも一連のファーン絵巻に組み込まれる。
換言すれば、<物語>、あるいは<意味>が付与されるわけである。
ほとんど毎日、わたしの近くで誰かが生物学的終局を迎えている。
朝8時半から9時にかけて、つまりわたしが起き出す頃合いに。
わたしがその事実をどう受け止めるかは措いておいて、
確かに命が一つ現世を離陸しようとしていることの認識をわたしに迫る。
恒星のランダムな並びをオリオン座と誰かが巧みに名づけたがゆえに、
彼を「構成」するベテルギウスが近く爆発する旨を聞くと、
ああ、彼は右肩を失ってしまうのか、とおもい、いくらか悲哀が湧く。
ただ満天の星の一つが消えるのとは、いまや感情の動揺ぐあいが異なる。
<物語>を知ったわたしにできることを考えなくてはならない。
そうだ、わたしもいつかは離陸するのだ。なにも「彼ら」と変わらないのだ。
毎朝、わたしはその響きを認めておもむろに起き出すと、
受験期に憶えた般若心経をひととおり誦じ、
また、死者が誰か分からないなりに、
きょう、恒星がすぐそこで消えゆく事実に合掌、瞑目する。
万事安らかであれよかし。
I.M.O.の蔵書から書物を1冊、ご紹介。 📚 かくれた次元/エドワード・ホール(日高敏隆・佐藤信行訳)