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「作る」ことの愉悦

飲みに行けないので肉を焼いた。3000円のそこそこ良い和牛肩ロースを買ってきたのだが、慣れないことをしたせいかうまく焼けず、あまりの不出来に思わず笑ってしまった。「いきなりステーキ」の1500円の肉に完敗だ。和牛よ、ごめん。

料理本に「強火で3分」とあったからその通りにしたら、わずか2分で表面は焦げ始め「ウェルダン」と主張するにも無理のある焼き加減に。焼いたあと「肉を休ませろ」とあったので従ったら「表面だけカリカリベーコンの冷めた半熟の肉」になってしまった。

この話を友人の料理人に話したら、
「ハッハッハッ。肉の焼きは結局、数やからねぇ」
という言葉をいただいた。

いつ行っても変わらぬ美味しさで、私達を楽しませてくれる飲食店。私達がお金を支払っていたのは「食材費」に対してではなく、料理人が積み重ねてきた「時間」に対してだったのだと舌が教えてくれる。

同じ肉を喰らう店であっても、料理人が目の前で焼いてくれる鉄板焼専門店が、客が焼く焼肉屋よりも価格が高いのは、そういうことなのだ。

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それでも、毎日のように続ける料理は、腹を満たし舌を悦ばせるにとどまらない「作る」おもしろさを教えてくれる。

昨日より少しだけうまく焼けた時に成長を実感すること。わずかな違いができあがりの大きな差になる、「焼き」という世界の奥深さを知ること。そして、素材が変わっても「変わらない味」を提供する料理人たちの、卓越した「技」が見えるようになること。

「作れる」は、「分かる」の究極形なのだ。

「作ること」は「消費する」のとは根本的にちがう悦びをもたらすエンターテインメントだとすると、それは、料理に限らず、音楽でも映像でも文章でも同じかもしれない。

まわりを見わたすと、コロナをきっかけに料理やお菓子を作り始めた人、文章を書きはじめた人、音楽を始めた人が急増している。ゲームを作り始めた子どもたちまでいる。
作る。その面白さに世の中は急速に気付き始めている気がする。

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「消費」から「作る」ことへの転換は、既存コンテンツの形も変えていくかもしれない。

これまで人気があった「失敗しない○○選び」「絶対見るべき○○」「特別な日に行きたい○○」など「消費」に焦点を当てたコンテンツから、「作る」「作りたくなる」へシフトしていくのではないか。

作りたくなるコンテンツとはどういったものかというと、「作り方」を説明するお料理番組のような形ではなく、「センス」を言語化してくれる形のコンテンツとして現れる気がする。

僕が毎週欠かさず見る大好きな番組に「関ジャム 完全燃SHOW」というのがある。この番組のおもしろさは、目線がマニアックなのに、分かった”つもり”になるところにある。

「プロがギャップにやられたバラード特集」
「あの名曲のイントロはどうやってできたの?」
タイトルだけ見ると音楽の教科書のようなニッチな音楽論だが、だれもが知る有名曲をプロの作り手の目線で紐解いていく。

ビッグアーティストがゲストとして来ることもあるが、番組の真骨頂は、いしわたり淳治さんや蔦谷好位置さんのようなプロデュース、編曲、作詞といった、どちらかというと「裏方」を手掛けてきた人たちによる読み解きだ。

センス・感性のかたまりに見える音楽の世界を、「何がすごいのか」「なぜすごいのか」「”っぽさ”はどこから生まれるのか」を見事に言語化してくれる。
彼らの話の圧倒的な説得力は、まさに自分たちが作ってきたからこそだろう。

言語化されること自体がコンテンツになることは、「文学」の世界でも起きている。俳人の夏井いつき先生が、目の前で俳句を添削しみるみる良くなっていくことが実感できる番組「プレバト!!」が人気なのも、ことばのプロが「言葉の操り方」を言語化してくれ、「できるかも」「やってみたい」と思わせてくれるところにある。

書店を歩けば、かつては作家を支える「裏方」だった編集者や編集出身の人たちが表舞台に立ち、みずから書き、彼らの本がベストセラーになっている。これも「書いてみたい」「書けるかもしれない」という創作欲を刺激しているからかもしれない。

いま「言語化」が求められるのは、みんな「作ってみたい」からなのだ。

コロナが私達から「消費」の楽しみを奪ったとしても、私達の世界を知りたい・触りたい・分かりたいという根源的な欲求はなくならない。
制限された世界で行き場を失った好奇心は、私達を「作る」愉悦へと導く。そして、新たなコンテンツを生み出させるにちがいない。

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