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「ポロロピン病」

「ポロロピン病の典型的な波形ですね」
医者は、ごく当然のように、平板な声でそう言った。のぞき込むと、先ほど私の頭に水泳キャップを被せ、その上から妙な電極を何本かくっつけて計測した脳波が、医者の持つ書類の下の方にお粗末な図となって描かれている。医者の声の調子とは正反対に、ダイナミックなその波形。山あり、少し大きめの谷あり、同じく山あり、大きく左右に振り子を描き、一瞬の横ばいを経て、鋭く飛び出すほどの山あり。
いやいや、こんなに波乱万丈な脳波をたたき出すような人生を歩んできたつもりはない。つつましやかに、規則正しく、きちんきちんとやってきたのだ。それがいきなりポロロピン病だなんて。ちょっといくらなんでも突然すぎる。
「ポロロピンというのは、どういう文字を書くんですか?」
尋ねてみてから、そうだそうだ、と思った。もちろん聞いたことはある病名だ。しかし、私にとっては字に書くこともできない、そういう距離感の病なのだ、いきなり典型的にポロロピンですねと言われても困ってしまう。やや震える指先と唇が気付かれないといいなと思いながら、私は背筋を伸ばして医者の目を見た。
「どういう文字、というと?」
「例えば、ポロロのロは露という字を書くとか、ポロロとピンの間に点が入るのか、それともポロとロピンの間に点が入るのか、そういうことです」
「ああ」
医者は明らかに退屈そうに、二枚目の書類を無造作に差し出して言った。
「全てただのカタカナです。治療のためには七十万ほどかかります、当院でご案内できるのはこちらの治療法のみになります。効果はあります。分割も受け付けますが、大きなお金なのでよくお考えになってください。治療後に再発する可能性もあります。その場合は、同額で同じ治療を再度受けることができますのでご安心を。他になにかお聞きになりたいことはありますか?」
いいえ、と一言、私は診察室を出た。
静かなクリニックの待合室には、小窓から正午前の柔らかい陽射しが差し込んでいる。指に宝石をたくさん着け、綺麗にお化粧をしたマダムがひとりと、小さな声で女に治療を勧める男、機械のように頷き続けるぼんやりとした瞳の若い女、そして淡々と仕事をするナースが受付に三人ほど見えた。
この中に一体、何人ポロロピン病が隠れているんだろうか。
もらった書類を開き、もう一度、自分の脳波とやらを見てみる。
ポ、ロ、ロ、ピーン!
なんだかその形は、指揮者が振る細い棒の、先端が描く軌道のようだと思った。

ポロロピン病。働きすぎ、過度なストレス、長期的な悩み、自己との不一致などにより発症しやすい。人口の二十人にひとりは患っている、代表的な現代病の一つ。症例として、喉の奥がポロロピンと詰まったり、胃がポロロピンと痛んだり、動悸がポロロピンになりやすかったりする。また精神的に、自分だけがポロロピンだと感じふさぎ込んだり、逆に周りの全ての人間がポロロピンだと感じて疑心暗鬼になったりする。ひどくなると、睡眠障害によるポロロピン夢を見ることも。再発率は高め。軽度のうちに、ゆっくりお風呂に入りリラックスする、休める仕事は休む、ずっとやってみたかったことに挑戦するなど、自分のバランスをとりながら上手に付き合いましょう・・・。

あっ、と思った。
とにかく気持ちを落ち着けよう、お腹もすいたし、贅沢なものを食べよう、と、クリニックを出て真っ先に飛び込んだハンバーグレストランで、ダブルバーグのセットを食べながら、スマホであらためてポロロピン病について調べていた、その時。
私の咀嚼したハンバーグのかけらが、食道をポロロと通り、胃の中にピンと落ちたのだ。
あっ。
まさか。
信じたくない、と思った。
もう一度、今度はライスを口に入れてみた。
舌がポロと動いて、ロとうねり、かみ砕いた米をピンと奥に押し込み、食道を先ほどよりも少し柔らかい質感でポロロ、そして胃にピン。
あっ。
ああ。
確かめるように、もう一口。そしてもう一口。
こんな風に確かめていてはダメだダメだと思いながら、ポロロピンポロロピンポロロピン、もしかしたらお腹がいっぱいになればと期待してポロロピンポロロピンポロロピン、そしてランチセットを2つとデザートとコーヒーをお代わりまでしてポロロピン、ああ、私は自覚した。
病気になってしまったのだ。私はポロロピン病なのだ。
そのまま、職場にメールを送った。ポロロピン病なので休職させてください。それだけ送って、スマホの電源を切ってしまった。今日は午後から出社の予定だった。どうにでもなれと思った。それからすぐに、なかなか仕事は好きだったのにな、もう戻れないだろうな、とも思い、胸がポロロピンとなった。
輸入雑貨を扱う小さな会社の営業補佐をしていた。一番好きな仕事は資料を作ることで、買い付けた雑貨の細かい情報や、アンティークであれば歴史を書き込んだり、実際の使い勝手が伝わりやすくするために小さなイラストを添えたりする、ちみちみした仕事が性にあっていた。神は細部に宿る、が理念だったから、他の業務に差し支えなければ、私が好きにこだわって資料を作ることに誰も文句は言わなかったし、時々、取引先の人に君の資料が褒められたよなんて、言ってもらえるのもなかなか満足だった。必要かどうかはわからないけれど、決して不必要ではない。私にちょうどよかった。今日はフランスから仕入れたトイピアノのイラストを仕上げようと思っていたのにな。働きすぎ、過度なストレス、長期的な悩み、自己との不一致。どれも自分にとってはしっくりこない。私は、頑張ってきたし、私は、こなしてきたし、私は、応えてきた。私は、充実していたし、私は、満足していたし、私は、これでいいと思ってきた。
この世の歯車から、急にポロロピンと弾き飛ばされてしまったようで、急にとても悲しい気持ちになった。お腹がはち切れそうなはずなのに、身体の中ががらんどうになってしまったみたいだ。
しっかりしなくちゃ。視線を上げてみる。
ランチタイムのレストランには忙しなく人が出たり入ったりしていて、八階の窓からは品川の街が見え、人々がすれちがう横断歩道のその向こうに高層ビルが乱立し、その中にまた人が人が人がひとが。
この中に混ざって二十人のうちのひとりになれば、なんてことないかもしれない。病気は珍しいことでもなんでもなく、当たり前のものになるのかもしれない。
私は、人混みの中に溶け込んでみることにした。

あれから二十日ほど経っている気がする。
私は毎日、あてどなく、人混みを歩く。一日の大半を、できるだけ人通りの多い場所を歩き回ることに費やしている。むしろ休職する前よりも運動している。おかげでよく眠れる。ポロロピン夢とはまだ無縁だ。どうだ。私は見事にポロロピンとのバランスを会得している。参ったか、へへへん。
週末の午後。年末が近いこともあり、銀座のメインストリートはごった返すような人の波だ。ナイスチョイス、と心の中で、銀座を選んだ自分に満足する。私は人々の波に溶け込み、紛れる。いなくなる。誰も私がポロロピンなことは知らない。すれちがう人がポロロピンであろうと、私には知る術がない。そのことは、私をとてもとても安心させる。ほら、大丈夫、私は。

「あの、すみませんが」
不意に呼び止められて振り返ると、高級そうなスーツ姿の男性がこちらを覗き込んでいる。きちんと短く切りそろえられた前髪が好印象だ。ほのかに爽やかな香水の香りもする。
「これ、落としませんでしたか?」
高級そうなイケメンは、掌を差し出した。エアポットイヤホンの片方が、すらりとした掌にちんまりと乗っかっている。こんなもの落としたらいくらなんでもその場で気が付くだろう、私のはずがない、と思って自分の耳を触ると、左耳のイヤホンだけがなくなっていた。
「ありがとうございます、すみません、全然気が付かなくて」
「いえ、いいんです。落とされた時、ポロロピンと音がしたものですから?」
え?
と言いかけたときにはもう、高級そうなイケメンは高級そうな美女と共に銀座の街に溶け込んでいくところだった。
反対側から、不自然に高すぎるハイヒールを履いた女が歩いてきた。ヒールの高さがそろっていないのか、左右の歩幅のリズムが違う。下駄のような音がする。右足からポロ、左足からロピン、右足からポロ、左足からロピン。ええ?小さな子どもがショーウィンドウを覗きこの世の終わりのように叫ぶ。「ママ!ポロロピン買ってー!」大きなツリーにはランダムにアルファベットの飾りがあしらわれ点滅しているPOLOLOPIN。見上げれば鳥がポロポロと鳴き、どこからか時刻を告げる鐘の音がロピーンと響く。ビルがポロロポロロと崩れ出し、コンクリートの破片が落ちてピンピンとそこらじゅうに刺さる。すれ違う人の疲れた瞳の中に、貼りついた笑顔の中に、乾いた声の中に、早すぎるエスカレーターの速度の中に、ビル風の中に、重ねた年齢の中に、これから重ねる年齢の中に、私はポロロピンを見る。歩けば歩くほど、この世界はポロロピンに満ちている。誰もかもが私に向かって、心の底でポロロピンだと言っている。ポロロピンが重なって、重なって、めちゃくちゃなオーケストラのように、不協和音になって頭の中を鳴らす。
これはポロロピン夢なんだろうか?私は眠っているのか?起きているのか?起きているのに夢を見るの?現実感があまりにもない。私の身体がどこにもない。私がいない。私を結び付けておかなくちゃいけないのに、うるさくてとても出来やしない。
当たり前のように、銀座駅からメトロに乗り、地下鉄を乗り継いで最寄り駅を降り、帰宅する人の波を渡って家に帰った。
その間中、聞こえるありとあらゆるポロロピンのオーケストラは、私の内側がひとかけらずつ、崩れ落ちていく音だった。

信じられないぐらい長く眠った。
目覚めると夕方のようで、窓の外にはぽつぽつと明かりが灯っていた。
静かだった。
ただ、静かだった。
天井の隅に、小さく蜘蛛の巣が張っていることに、初めて気が付いた。
視線をずらすと、テーブルの上には置きっぱなしの食器やグラスが見えた。それと共に紙が散乱し、何枚かは床に落ちていた。
トイピアノの絵を描いていたんだった。と思い出した。
必要かどうかはわからないけれど、決して不必要ではないもの。
あっ。
それは窓の外からだったのかもしれないし、散らばったスケッチからだったのかもしれないし、私の内側からだったのかもしれない。
どこからともなく、ひっそりと、か細いピアノの音色が聞こえてきた。
ポ。ロ。ロ。ピーン。
優しかった。優しくて優しくて優しかった。一音一音が、撫でるようで、気付くようで、見守るようで、空洞の中を満たしていくようだった。

人間の中にいつも、当たり前に聞こえている音だ、と思った。

ポロロピン。これは、私が、私自身を取り戻していくための音なのだ。
涙がポロロ、とひとつぶ流れて、音もなく枕に染み込んでいった。


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