六段の調べ 序 初段 三、我が祖国
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序 初段 一話へ
シャシャテンが自宅に来て一夜が過ぎた。空き部屋だった和室は彼女の部屋として与えられ、昼下がりの今は襖を通して箏の音が聞こえてくる。二階の自室から居間に向かおうとしていた清隆は、少し前にやめたばかりなのに懐かしく感じるその音色に足を止めた。昨日見せられた鳳凰の箏を、シャシャテンは弾いているのだろうか。
階段を下り、和室の襖をわずかに開ける。向かいの窓より差し込む光を受け、シャシャテンは箏の糸を親指と人差し指、中指に嵌めた白い角爪で押さえている。昨日とはまた違う装いで、蘇芳色に染められた小袖の上に白の打掛を羽織っている。打掛には様々な色で、大きな羽を広げた鳥や雲が描かれている。楽譜もなく流暢に演奏する彼女をもう少し見ていたかったが、不意に別の思いが込み上げてきた。シャシャテンは、昨日自分が箏を弾けると明かしたことを覚えているだろう。もし「弾いてみろ」とでも言われたら。箏を学んでいた当時の孤立感が蘇り、そっと襖を閉めようとする。
「人の部屋を覗き見るとは、褒められぬのぅ」
いつの間にか、シャシャテンは気配に勘付いていたようだ。清隆は階段を上ろうとしたが、襖を開け放った彼女と目が合った。動けなくなった隙に腕を掴まれ、六畳ばかりの部屋に連れ込まれる。
以前とは見違えるほど、室内は調度に溢れていた。箏だけでなく箪笥や大きな葛籠、文机などこの家にはなかったはずの品が、あちらこちらに置かれている。変わっていない点といえば、窓際にある仏壇くらいだ。家財をよく見ると、黒や茶などの木材で出来ていながら、その表面は磨かれたように照明の光を跳ね返している。シャシャテンが何か言っているのを無視してそっと板に触れると、吸い付くような滑らかさが指に伝わってきた。中には金や銀、鮮やかな色で図柄が描かれている家具もある。
「――おい、なぜ黙って私が箏を奏でておる様を見ておったのじゃ。言ってくれればいつでも聴かせてやったものを」
シャシャテンに袖を引っ張られ、ようやく彼女が話していた内容を知る。どうやら盗み聞きを咎めていたようだ。
「この部屋にあるものは、どこから持ってきたんだ」
話題を変えられたからか不機嫌な様子を表しながら、シャシャテンは答える。
「瑞香からに決まっておろう」
室内を改めて見直し、清隆は目を瞬かせる。ほとんど着の身着のままでやって来たはずのシャシャテンが、どのようにこの部屋へ家財を運んだのか。
「瑞香と日本の間には、目に見えぬ結界があってのぅ。これを手繰れば、いつどこからでもものを持ち込めるのじゃ。無論、瑞香へ直に行くこともな」
そう言うと、シャシャテンはそっと右の掌を正面に突き出した。それを斜め下へ素早く払う。手に炎がまとわりついたと思った瞬間、輪のように広がった火の中に、雪が残りながらも緑を茂らしつつある地面が見えた。
まだ冬を思わせる冷たい風が草を揺らすと共に、室内で見ている清隆の顔に触れてくる。雪のそばにある葉から顔を出すように、花びらの細い紫の花が六輪ほど固まって咲いている。それにシャシャテンが手を伸ばし、一輪を摘み取った。花を持つシャシャテンの手が和室に戻ると、異界の景色を見せていた輪は小さくなる。やがてそれが消えた後は、元通りに畳が広がっていた。
奥に置かれた小さな花入れに、シャシャテンは摘んだ花を生ける。その間、清隆は今受けた感覚を繰り返し思い出していた。東京とは全く異なる、冬が残っている自然の光景だった。そこから直接流れてきた風の温度と感触が、別世界の実感を強く訴え掛ける。清隆は思わず景色の映っていた辺りに触れたが、そこはもう畳のざらついた手触りがあるだけだった。
「どうじゃ、これでそなたも瑞香を感じられたであろう?」
得意げなシャシャテンの声を聞き、今目の前にあったものが瑞香だったのか清隆は考える。確かに見たことのない土地らしきものを垣間見たが、これが日本のどこかであるとも限らない。東北か北海道辺りは、まだ雪が残っているだろうか。
ふと思い立ったようなシャシャテンが襖を開け、階段を上っていった。どこに行くつもりか尋ねると、茶を振る舞うべく美央を呼びたいのだという。彼女は茶道も出来るのかと思いつつ、清隆は再び部屋の調度を見渡す。高級そうな家財といい、箏や茶などの趣味といい、彼女がここに来る前はどのような生活をしていたか、想像がつかない。
連れられて部屋に入ってきた美央と並んで、清隆は座らされる。畳の下に炉が埋まっていないことに文句を言うシャシャテンは、再び異界に手を入れて風炉を持ち込んできた。妹が作業を目で追っているのも気にせず、居候は慣れた様子で茶を振る舞う。
自ら立てたにもかかわらず、シャシャテンはなかなか茶碗に口を付けようとしなかった。どうも熱いものは苦手なようだ。冷ましているうちに菓子を取りに行こうとシャシャテンが居間へ赴き、やがてそこから声を上げた。
「菓子と言うのは、昨日見た貝の如きものしかないのか?」
マドレーヌのことを言っているのだろうと、清隆は様子を見に和室を出る。台所にある戸棚の引き出しには、昨日も茶請けに使われたマドレーヌがあるだけだった。別に怪しいものではないから持っていくよう勧める。仕方なく三つを手に戻ったシャシャテンだったが、畳に置いたきりしばらくはその袋にさえ触れなかった。
「斯様な菓子は食したことがなくてのぅ」
怪しむように言いながら、シャシャテンの目はちらちらと二枚貝型の洋菓子へ向けられている。
「気になるなら、一口でも試せば良いだろう」
清隆に促され、シャシャテンはようやく袋を持ち上げた。しかし開け方が分からないのか、適当な部分を引っ張っては闇雲に動かしている。やがて思い付いたように箪笥の一番下を開け、昨日も手首を切った際に使ったと思われる懐刀を取り出すと、袋の端に軽く刃を入れた。甘い香りの漂ってくる菓子に、シャシャテンは思い切ってかぶりつく。初めは強張っていたその顔が、次第に綻んでいった。
「……何とのぅ。これ程美味なるものがあったのか!」
砂糖や卵をふんだんに使った洋菓子は、シャシャテンにとって初めて味わうものだったらしい。あっという間に完食してすっかり満足げな彼女は、茶を飲み干してからもなお恍惚とした表情を浮かべていた。
「ところで、敦子殿と英幸殿はいずこへ行かれたのじゃ。まだ帰ってこぬのか?」
窓に目をやって問うシャシャテンに、清隆は両親が市民吹奏楽団の練習に行っていると話す。二十年ほど前に父たちが設立した「アモローソ」なるアマチュアの楽団で、両親は揃ってトロンボーンを担当している。吹奏楽が何かも知らないシャシャテンのために、管楽器と打楽器で構成された音楽だと伝えると、彼女は興味を持ったようだった。
「雅楽より多くの者が一斉に楽を奏でるのか! 合わせるのも苦労するじゃろう」
「そのために指揮者ってのがいてな」
演奏を率いる存在として父も楽団で担っていると教えると、シャシャテンはより驚きを見せた。
「して、そなたたちも吹奏楽とやらをやっておるのか?」
「中学校で、妹は今もやっているところだ。俺は三年続けていて、これから――」
高校ではどうするか決めていなかったと気付き、言葉に詰まる。吹奏楽の件になると、何より苦い記憶が真っ先に浮かんでくる。いっそ今やめてしまった方が、今後あの記憶に長く苛まれず済むもしれない。
シャシャテンが今度は、妹へ質問を向けてくる。
「美央は何をしておるのじゃ? 箏か?」
吹奏楽で基本的に箏はないと言い、美央はオーボエを吹いていることを明かす。早速見せるようシャシャテンがせがんだが、学校にあるからと妹は渋った。それでも引かない居候に押され、何だかんだでオーボエを見せる約束が取り付けられた。
「清隆は何じゃ、やはり『おーぼえ』とやらか? これからも続けるのか?」
自分で所持しておらず、簡単に学校から持ち帰れもしないテナーサックスだと答え、清隆は口を噤む。まだ高校で吹奏楽をやるか、心が定まっていない。
「その様だと、そなたは奏楽を捨てられぬであろうよ。たとえ昔に、何か気に障ることがあったとしてものぅ」
思いがけない言葉に、清隆はわずかに顔を上げる。どこから判断してそう口にしたのか、疑問を告げる代わりに軽く睨む。
「奏楽は良いぞ。私が瑞香にいたころは、毎日のように箏を弾いておったわ」
「そういえばシャシャテン、ここに来るまで何をしていた」
ちょうど知りたかったことに話が移りそうだと察して、すぐさま清隆は尋ねる。
「都の北、薄雪山という所でな、四辻姫様に仕えておった。あの方は十年程前まで、女王として国を治めておったのじゃが」
そばに寄せた箏の糸を指ではじきながら、シャシャテンはぼんやりと前を見ていた。四辻姫は鳳凰の箏を避難させるきっかけになった戦乱の後、妹婿であった大友正衡に都を追われ、幽閉されてしまったという。大友は四辻姫から無理やり王権を奪って即位し、今も瑞香を統治している。
「じゃが、奴は正しき王ではない。奴が即位する前に、王の証である三種の神器は日本に移したからのぅ。神器を手にしていない奴を、誰も王として認めてはおらぬじゃろう。国の正史に載ることもあるまい」
神器のうち、太刀・無銘「栄光」は既に行方知れずとなっており、四辻姫は残りの二つを日本に送り込んだ。一つは瑞香の正史が書かれた絵巻物である『芽生書』であり、もう一つが平井家にある鳳凰の箏であった。
「これらを四辻姫様のもとに届けるのが、私の務めじゃ。とはいえ、追われておる今はどうにも出来ぬがのぅ」
清隆はそばにある箏へ目を落とす。鳳凰の箏かと思っていたそれは、よく見ると別物であった。表面には銀の雪に閉ざされた屋敷の戸が描かれ、金で何やら文がある。シャシャテン曰く「玉水」と名付けた箏の意匠は、よく分からない。
「務めに勤しんでいただけではないぞ。芸事を教わり、書を読み、あとはあやつが……おっと」
シャシャテンの言いかけた続きを聞こうと、清隆は彼女を見る。目を逸らす居候がどうにも怪しく、余計に不審が募る。じっと視線を送り続けていると、ようやく彼女が折れた。
「あまり人へ言うでないぞ。山住という護衛に雇われた者がおるのじゃが、そやつとはつまり……思い合う仲、と呼べば分かるか」
しばらくその意味を考え、やがて理解する。まだきょとんとしていた妹は、シャシャテンの補足でやっと気付いた。山住とは二年ほど前から親しいと言う居候の口ぶりは、いくらかはっきりしなくなる。
「その山住とは、瑞香に戻るまで会えないのか」
「如何にも。まぁ文でやり取りが出来る故、寂しくもないが」
胸を張って笑みを向けるシャシャテンだったが、その言葉は強がりのようにも聞こえた。見知らぬ土地で親しい人々と離れて暮らす彼女を思い、清隆は何も言えなくなる。一方でシャシャテンは、山住を懐かしむかのように止まらず話し続けている。
「あやつは硬く見えてな、そうでもないのじゃよ。歌や笛が達者でな。私より年は上で、常ごろは頼もしいのじゃがたまに――」
「山住が年上なら、シャシャテンはいくつなんだ」
「女子に年を聞くでない」
すぐに突き返されてしまったが、清隆は彼女が自分より大人びて見えた。さらに清隆には、もう一つ疑問があった。これまでシャシャテンの話で聞いた瑞香人の名前は、どれも日本人に近いようだが。
「シャシャテンはなぜ、そんな変な名前なんだ」
「変な、とは何じゃ!」
それまで上機嫌だったシャシャテンが、一気に怒りを露わにする。母に付けてもらった思い入れのある名であるとのことだが、こちらにはどうも不自然でならない。しかし目を見開いて声を荒げるシャシャテンを前にすると、今は触れるべきではない話だと勘付いた。すぐに部屋を出て、彼女が落ち着くまで待った方が良いかもしれない。立ち上がって襖を開けた清隆に、シャシャテンの怒鳴り声が届く。
「待て、せめて詫びの一言でもくれぬか! そういえば私の箏を立ち聞きしておったことに、そなたは何も言っておらぬではないか!」
まだあれを根に持っていたとは思わなかった。清隆はすかさず和室を出ると、シャシャテンから逃れるように急いで階段を上がっていった。
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