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六段の調べ 序 初段 二、不死鳥の国

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 頼みに応え、清隆は傷の消えていた女を自宅へ連れて行くことにした。なぜかついて来ている信も、女に対しては不気味に思ったのか、あまり彼女と話さなかった。家に着くと女は迷わず中へ入り、清隆たちを待たずに扉を閉めてしまった。
 清隆も遅れて廊下を渡り、階段の手前にある居間の戸を開ける。そしてそこからすぐそばにある座卓に向かって女が座り、奥の台所で母が茶を淹れているのを目にした。
「ちょっと待っていてね。とりあえずあっちで話でもする?」
 女と話している母の親しげな態度が、清隆にとっては奇妙でならなかった。彼女はこの客人と知り合いだったのか。思案するうちに母が清隆の帰宅と来客に気付き、四つ用意していた湯飲みをもう一つ取り出した。彼女は信を歓迎して部屋に入れると、少し待ってほしいと言って三人分の器を置く。そして盆に残りの湯飲みを載せ、居間向かいの和室へ行ってしまった。
 女もそれに続こうとして、階段の先を見上げる。二階にある部屋の戸を開け放しにしているのだろう。繊細なオルゴールの音が聞こえると同時に、それを持って自室に佇む少女の姿が清隆に容易く想像できた。母が呼んでいるのも無視し、女は階段を上がる。やがて彼女の声が階下の清隆にも届いた。
「のぅ、そなたは美央みおじゃったか。その箱の如きものから音が出ておるのか? 面白いのぅ、私にも見せてくれ」
 恐らく話し掛けられた側は、来客にもいつも通りの素っ気ない対応をして困らせるかもしれない。清隆は女を追って段を上り、オルゴールを手に目を輝かせる彼女とベッドに腰掛けて動かない妹――美央との間に割って入った。
「下で母親が待っているぞ。何か話があるんだろう」
「嗚呼、そうじゃった。すまぬな、美央。また後で見させてもらうぞ」
 オルゴールを突き返して和室へ行く女を、妹は無表情で見送る。突然の客にも動じない彼女を伴い、清隆は居間に戻った。座卓の前では、鞄を置いた信がきっちりと正座をしている。妹はそんな彼へぎこちなく会釈をし、少し距離を空けて腰を下ろした。
「……さっきから変だ」
 座卓に置かれた湯飲みを信と妹に渡し、二人の横に並んで座りながら清隆は呟いた。着物姿で髪の異様に長い女が追われている。彼女は負傷したはずなのに傷がない。初対面とは思えないほど母と打ち解けている。
「そして会ったばかりの男が、堂々と家に上がり込んでくる――」
「それは変じゃないだろう」
 清隆の視線を受け流し、信は茶を息で冷ます。妹は熱さを気にしてないのか、静かに湯飲みの中を服している。顔を見せてから一言も発さない彼女へ、信が声を掛けた。
「清隆のご家族ですか?」
 信に顔を向けたが目は合わせず、妹は自身の名を教えた。部屋着のゆったりとしたワンピースの背に、胸の下で切り揃えた生まれつき明るい茶――丁子色の髪を流している。
 信は美央にも名刺を渡した後、様々な問いをしてきた。彼女が現在中学三年生で吹奏楽部に入っており、オーボエをやっていると耳にした質問者はまたも食い付いてきた。
「お兄さんと並んでかっこいいなぁ。オーボエって、あの黒っぽい楽器だよね? うちの母校にはいなかったかな」
 反応に乏しい妹に代わり、清隆は彼女が今のところ学校で唯一オーボエを担当していると話す。途端に信の顔がより明るくなり、美央との間も迫っていく。
「誰に教わったの? やっぱり先輩とか? あ、一人で吹いていて寂しくない?」
「特に、何も思ってはないです」
 抑揚のない低い声で美央が返す。同じ中学校の部活に所属していた彼女だが、少なくとも一人で困っている様子は清隆には見えなかった。
「おれだったら心細いけどなぁ。どこかで発表とかない? 聴きに行きたいんだけど」
 自分に対してと変わらない信の付き合い方に、清隆は呆れつつ茶を口にした。そこに居間の扉が開き、母と女が戻ってきた。座卓の短辺側に座る女が、持っていた湯飲みを置き、わざとらしく咳払いをする。隣の母を見やってから、彼女は少し下がって袴帯に差していた扇子を取り出す。そしてそれを自身の前に置き、頭を下げた。
「待たせて悪かったのぅ。嗚呼、名乗りが遅れて申し訳ない。私はシャシャテンと言う」
 日本人とは程遠い名前だが、清隆はその単語に聞き覚えがあった。理解するより早く、母が口を開く。
「ちょっと変わった子だけど、覚えておいてね。これからこの子と一緒に住むんだから」
 そう言われて真っ先に驚き声を上げたのは、この家と関係がないはずの信だった。妹は何度か瞬きをし、シャシャテンと名乗った女を凝視している。
「いきなり見も知らない女を泊めるなんて、どういうことだ」
「だって、もう決まっちゃったんだから」
 清隆が事情を詳しく聞こうとしても、母の態度は変わらなかった。何があってもシャシャテンを同居させるつもりだという。まだ帰ってきていない父も彼女が住むのなら許してくれるだろうと、母は楽観視している。本当にそうなのか清隆が心の中で探っていると、シャシャテンが母へ呼び掛けた。
敦子あつこ殿。分からず屋な清隆も、あれを見れば私の話を聞いてくれるじゃろう。ほら、あれじゃ」
 少し迷っていた母が、すぐ納得したように立ち上がる。座卓の器にあるマドレーヌを好きに食べて良いと勧めて、彼女は居間を出て行った。信がすかさず手を伸ばし、菓子を人数分取って渡す。
「シャシャテンさんだっけ? 変わった名前だね」
「堅苦しくならずとも良いぞ。私のことも、『シャシャテン』で構わぬ」
 マドレーヌを受け取ったシャシャテンは、透明な袋をあらゆる角度から不思議そうに眺める。菓子が貝の形をしていることが分かるとそれに驚き、続いて毒は入ってないか尋ねてきた。安心させるように信が菓子を頬張っても、彼女は警戒を崩さない。
「『シャシャテン』というので思い出したが」
 じっと菓子を熟視していた来客の女に、清隆は気になっていた疑問を口にする。
「その名前、箏の技法にも同じものがなかったか」
「おお、知っておるのか!」
 シャシャテンが顔を輝かせ、清隆の方へ身を乗り出してくる。箏を習っているのか問われ、迂闊に話したことに後悔が走る。それでも黙るのは申し訳ない気がして、主に中学二・三年の時に実技教科の選択授業で習っていたと明かす。吹奏楽とは違う記憶が湧き上がり、話は手短に終えた。楽器の出来る人に憧れているらしい信はもちろん、シャシャテンも感嘆の表情を浮かべていた。
「この日本でまだ箏を弾じておる者がおったとは! 奇特じゃのぅ。さてはそなた、日本では宮部みやべ殿や妙音院みょうおんいん殿に劣らぬ腕か?」
 知らない名前に戸惑いながら、箏は二年ほど触れたきりで今はやっていないと話す。途端に、シャシャテンはがっかりしたかのように肩を落とした。それを見て、彼女は箏をやっていた自分を本当に褒めているのか清隆は考える。同居を許してもらうため、少しでも自分に良い顔をしておきたいのかもしれない。現代の日本ではまず普段見掛けない恰好をした彼女だ。安易にその言葉を受け入れてはいけないようにも思える。
「それにしても、ここは眩いのぅ。何じゃ、昼なのに灯りが付いておるのか?」
 天井の照明に目を細め、卓に置かれたリモコンを適当にいじり、テレビが付いて驚き引っくり返る彼女を見ると、その不審感は余計に募る。テレビの消し方が分からず慌てるシャシャテンに代わり、信がリモコンの電源ボタンを押す。
「シャシャテンはお箏をやったことがあるの?」
「如何にも。昔から母上や伯母上に教わっておった。小僧、そなたはどうじゃ?」
「ちょっと待て。小僧ってなんだよ、小僧って」
 呼ばれ方に不服を示しながら、信は楽器が出来ないと伝える。いくらか仏頂面へ変じたシャシャテンは、湯飲み片手に黙っている美央の方へ姿勢をわずかに前傾させる。
「美央、そなたは箏をやっておるか? 奏でる様が似合いそうじゃが」
 名前を呼ばれて軽くシャシャテンへ視線を投げてから、美央もまた同じく中学校で箏を習っていると答える。
「母も近所で箏を教えているので、その流れといいますか……」
「硬くならずとも良いと言っておるであろう!」
 突然立ち上がったシャシャテンが美央の後ろに回り、彼女の肩を強めに叩く。妹が唇を引き結んで固まる間に、戸口から母が入ってきた。何やら紫色の布でくるまれた、横に長い大型の物体を抱えている。
「待たせてごめんね。シャシャテンちゃん、あなたが欲しいのってこれでしょう?」
 床に置かれたものから布が取られ、中身が姿を現す。それはうっすらと埃を被りながら、木材の深い色味が目を惹き付ける一張の箏だった。黄色っぽい十三本の糸が張られ、少し弛んでいる。木の表面には金で絵が描かれており、よく見るとそれは鳳凰を模していた。いくらか金箔が剥がれているものの、照明を受けて所々眩しく光を放つ。箏自体は古びているようだが、それでも趣は失われていなかった。
「これは『鳳凰ほうおうそう』と言ってな。私の故国・瑞香ずいこうに伝わる宝じゃ」
 瑞香という言葉を、清隆はすぐ訝る。聞いたことのない名だ。信もぽかんとした顔を崩さないでいる。
「そなたたちが知らぬのも無理はない。この日本との深き関わりは、とうに絶えておるからのぅ」
 箏の糸にそっと触れ、シャシャテンは故郷とする国について語りだした。遠い昔、遣唐使の船が難破して陸奥沖の島に漂流し、現地の住民に助けられたという。その住民こそ実は人に化けた不死鳥――永遠の命を持つ瑞鳥であり、容易に帰れない漂流者へ島に住むよう勧めた。
「やがて不死鳥と島へ流れ着きし者の間に生まれた者が出てきてのぅ。千年か経ったその末の一人が、私よ」
 急にシャシャテンは、扇子と揃って袴帯に差していた懐刀を取り出した。そして鞘を抜き払うなり、少しまくった左手首に刃を当て、一気に柄を持つ手を引いた。白い肌に鮮血がじわりと浮かび上がる。いきなりの行動を清隆は咎めようとしたが、シャシャテンは痛がるそぶりもなく右手で傷辺りを拭う。次にその手首を目にした時、確かにあったはずの傷はどこにも見当たらなかった。
「この通りよ。軽い傷であればすぐに癒える。先も驚いておったが、斯様なことじゃ」
 いまだ血の付いているシャシャテンの右袖を見、そこの傷がなかった光景を清隆は思い出す。あの傷も、今と同じく瞬時に治ったのだろうか。
 懐刀を仕舞うと、シャシャテンは再び話を始めた。遣唐使が島に漂流して数百年後、瑞香と日本の間に関わりが興った。それ以来長く両国は親しくしていたが、百五十年ほど前から次第に疎遠となってしまった。
 夢物語のようなそれに、清隆の理解は追い付かない。架空の存在だと聞いていた不死鳥も出てきて、真実とも思い難い。しかし目の前で女の傷が治ったのは明らかな事実だ。そんな彼女が来たという瑞香を、どう認めれば良いのか。
「清隆、もしや我が故国が存ずるかも怪しんでおるな? この家に住むことを許されれば、より多くを話してやろう」
 自慢げに鼻を鳴らすシャシャテンが、清隆をまっすぐ見る。後は自分だけが認めてくれれば良いとでも言いたげだった。いつの間にか、信は瑞香の話に興味を持ったかのように姿勢を軽く前へ傾けている。そして妹は相変わらず微動だにせず、シャシャテンを歓迎しているかもよく分からなかった。
 瑞香についてさらに知るには、シャシャテンを受け入れるしかないようだ。しかし彼女の話が嘘だとも限らない。もし瑞香が実在しない国だとしたら、その話をまともに聞いた身が恥を掻きかねない。そう考えていると、不意に鳳凰の箏へ目が留まった。この宝物こそ、瑞香にまつわる動かぬ証拠かもしれない。
「この箏は、なぜここにあるんだ」
「嗚呼、瑞香で戦があった折に日本へ移しておってな。此度はこれを取り戻しに来たのじゃ。瑞香も昔に比べれば穏やかになったからのぅ。じゃが」
 それまで得意げに語っていたシャシャテンの表情が、急に曇る。
「そなたたちも見たであろう。私はどうやら追われておるようじゃ。私にはもう一つ手に入れねばならぬものがあるのじゃが、それを得るまで国には帰れぬ。しかしあの様では、外に出るのも厳しいやもな……」
 清隆はシャシャテンの血に濡れた袖へ視線を落とした。今回は軽傷だったようだが、今後もしこれ以上の傷を負うことがあったら。
「あいつらは、シャシャテンを捕まえる気だったのか」
「そうやもしれぬのぅ。捕らわれておったら私は……責め苦の果てに殺されておったに違いあるまい」
 面持ちこそ強気なままだったが、その声には震えが混じっていた。この女は恐れているのだろう。向こうには存在さえほとんど知られていない国に一人で向かい、そこで予期せず襲われたのだ。心の奥では戸惑っているかもしれない。そして彼女を執拗に追っていた男たちの姿も浮かぶ。下手したらシャシャテンを殺していただろう彼らの、執念を滲ませていた様が忘れられない。これ以上彼女が傷付けられてはならないと思った瞬間、清隆は口を開いていた。
「良いだろう。助けてやる」
 シャシャテンの顔から暗さが消えたのを認め、この判断で正しかったのだとの思いが清隆の胸に灯った。安堵しながら浮かれているようなシャシャテンに、清隆は思い切って頼みをぶつけた。
「代わりに教えられる限り、瑞香について教えてほしい。俺は瑞香なる国があると信じ切れていない。ここにいる間に、俺の中で瑞香とやらを確信させてくれ」
 ただ知りたいという思いが、清隆を突き動かしていた。シャシャテンはしばらく黙った後、声を漏らす。
「何とのぅ。今の話だけでは足りぬか。まぁ良い、心行くまでそなたに我が祖国を分からせてやるわ」
 清隆の前に、小さめの手が差し出される。握手をしてほしいというのか。清隆は迷った末、ゆっくりと自身の手を伸ばしていく。しかし互いに触れるより前に、横から別の手がシャシャテンの手を掴んだ。
「おれのことも忘れないで! おれにも瑞香を教えてよぉ! 今日はいろいろ聞いておなかいっぱいだし、今度でいいからさぁ!」
 突然割り込んできた信に、シャシャテンは呆れて息をつく。
「分かった、いずれそなたにも聞かせてやるから落ち着け、小僧」
「だから小僧って呼ぶのはやめてよ。じゃあ長居しちゃったみたいだし、ここで失礼します。また瑞香のこと聞かせてね」
 そう言って鞄を取り、立ち上がろうとした信をシャシャテンは押し留めた。
「待て、聞く分には構わぬがのぅ。今の話は誰にも言うでないぞ。小僧、そなたのご家族であってもな。瑞香はまだ、秘されねばならぬのじゃ」
 人差し指を口元に当て、シャシャテンは厳しい顔で清隆たちに目を向ける。その口止めにどのような意図があるのか。清隆は尋ねたい気持ちに駆られたが、シャシャテンの真剣な眼差しに阻まれる。いずれ、今抱いている疑問の答えも分かるかもしれない。ひとまず心を抑え込み、清隆は深く頷いた。

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