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六段の調べ 序 初段 四、八重崎小町

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序 初段 一話へ



 天井から床までの高さがある窓を通して、校庭で昼休み中の生徒が戯れているのが見える。その風景を眺めながら、清隆は学校のカフェテリアで弁当を食べていた。一方で丸いテーブルを挟んで座る信は、校庭とは反対側の窓を見ている。道路に面するあそこからは人の背丈ほどの壁と、先にある光景がわずかにしか映らない。やがて信が立ち上がって窓に近寄り、彼が景色ではなくそこに貼られた紙に興味があったと分かった。
「もうすぐ仮入部だけどさ、清隆はどこか入りたい部活ある?」
 戻ってきた信の言葉に、清隆は箸を止めた。少し前に部活紹介があったものの、まだこれといって入部したい所は決めていない。
「やっぱり吹部? あそこにチラシがあったんだけど」
 信が指差すのは、今しがた彼がわざわざ近くで見ていたものだった。清隆も弁当箱を置き、チラシへ歩み寄って内容を確認する。ちょうど今日から仮入部が始まり、特に低音楽器の団員を募集しているようだ。チューバ、ユーフォニウムと続く具体的な項目の中に、やはり低音部として重要であるはずのバリトンサックスがない点が気になる。既に団員がいて楽器を貸し出せないのか、そもそも楽器がないのか。
 テーブルに戻ると、弁当を食べ進めていた信がぽつりと零した。
「おれも吹部、行ってみようかな……。中学のリベンジもあるけど、清隆が吹いてるのが見たいんだよなぁ」
 そこから信は、やたらと清隆に楽器が出来ることを持ち上げてきた。サックスはかっこいいだの花形だの、ジャズでも大活躍だのとやかましく言い立てる。入部したからといって必ずしも希望楽器が出来るわけでもないのに、信はどうも清隆が吹奏楽部でサックスを継続すると考えているようだった。
「――だから、おれにもぜひ間近で清隆の演奏を見せてよ! お願いします!」
 信が語り終えて頭を下げるころには、周囲で昼食を取っていた生徒の何人かがこちらを凝視し、引け目を見せていた。呆れるようなその態度が、信だけでなく自分にも向けられているように清隆は感じる。そこに聞き慣れない少年らしき声が耳に入ってきた。
「ねぇ、サックスやってるのって、もしかしてきみ?」
 横に立っていた声の主を見るなり、軽く驚きが走る。少年によるものと思っていたのは、自分より少し背の低いだろう女子生徒の声だった。黒髪が肩の上辺りで切り揃えられ、下がり気味の眉に垂れ目と一見穏やかそうな雰囲気を放っている。制服をきっちり着こなしているが、何より首から下げた黒い紐――サックスのストラップが目を引く。
「新入生だよね? 吹部入ってた?」
 女子生徒の問いに二人はそれぞれ肯定し、うち清隆はテナーサックスをやっていたと明かす。すると彼女は、手を叩いて喜ぶ様子を見せた。
「嬉しい、同類だね! あ、わたしはサックスでもバリだけど」
「バリ」という言葉に首を傾げる信へ、バリトンサックスのことだと清隆は教える。同時に背は低くないとはいえ華奢な彼女が、構えると体の多くが隠れてしまうだろう大きさの重い楽器を本当に吹いているのか疑わしかった。
「今日の放課後って空いてる? ちょっと吹部の見学に来ない? とりあえず楽器は吹いても吹かなくてもいいから!」
 目を輝かせて勧誘してくる彼女に戸惑っていると、信が小声ながら早口で話し掛けてきた。
「こんなふうに期待してる先輩もいるみたいだし、一回くらいどう?」
 確かに興奮を抑え切れなさそうな先輩の喜びを、簡単に崩してはいけないように思える。その上、彼女がバリトンサックスを実際に演奏しているのかを確認したくもあった。
「分かりました。後で行ってみます」
 清隆がそう答えると女子生徒は笑みを浮かべ、部室への行き方としてカフェテリアから地下に通じる、道路側の階段を指差した。そして放課後に待っていると言って去ろうとした彼女の背を、信が慌てて追い掛ける。名刺を渡して見学へ行くことを伝えた彼に、女子生徒は礼を言ってカフェテリアを出た。その姿が見えなくなった後、清隆は信と揃って、彼女の名前を聞いていなかったと気付いた。
 
 
 放課後、女子生徒の言った通りに従ってカフェテリアへ向かった清隆は、階下に聞こえる音に耳を澄ませた。木管・金管や打楽器問わず乱雑に音色が交じり合う中でも、重みと張りのあるそれへ特に惹き付けられる。中学校でも聞き覚えのあるそれは、バリトンサックスのものだった。
 階段を下りて音の出どころを探ると、向かって右の「美術室」と書かれた札が扉近くの天井に下がる部屋だと分かった。ガラス戸の開け放たれた入り口から覗き込む先には、木製の長机が並ぶ上に、金銀と輝く楽器がいくつも置かれている。人は部屋の奥に一人いるだけで、譜面台を前に背もたれのない椅子に腰掛けた姿は、あの女子生徒であった。彼女が本当にバリトンサックスを吹いていたと判明し、清隆は息を呑む。
 顔以下をほとんどこちらから見えなくしてしまう楽器を、首に下げたストラップと細い腕で支えている。割としっかりした指でキーを押さえて奏でているのは、別れの曲として知られている洋楽の旋律だ。原曲の題はずっと前向きな意味を持っていたと思い出しながら、清隆はゆったりとした哀愁のある音色に聞き入る。
 演奏が終わると、女子生徒がこちらへ顔を転じた。楽器を机に置いた彼女が、昼に会った生徒か問うてくる。頷くと、美術室を抜けてすぐ目の前にある、やはりガラス戸の開いた広い部屋に案内された。
 楽器やケースの置かれた長机が端に寄せられ、その間にキャスター付きの黒い椅子が横に何列も並んでいる。既に楽器を持って座っている生徒も数人いた。入口近くにも長机があり、その上にリストの描かれた紙を見つける。仮入部に来た人の名前や希望楽器を書くようで、空欄の一つ上には信の名が記されている。室内をよく見渡すと、隅の方で複数の生徒に囲まれて談笑している彼がいた。リストに記入を終えてすぐ、バリトンサックスを吹いていた女子生徒が清隆の名を読み上げてから、自身を八重崎小町やえざきこまちと名乗る。彼女に勧められて荷物を壁際の戸棚へ入れてすぐ、楽器を取りに行こうと案内された。
 二階まで上がり、練習に使うこともあるという中学生の教室が並ぶ廊下を抜けて別の階段へ連れて行かれる。三階に通じる踊り場の壁に扉があり、その中が楽器庫だった。横に長い部屋の奥から、八重崎は黒いケースを引っ張り出し、勢いよく階段を駆け下りた。
 小走りで追い付いた清隆が部室に着くと、今度は何枚かの紙を八重崎に渡された。五線譜が数段描かれた基礎練習用のもの以外に、長い曲の楽譜もある。それがコンクールで演奏するものだと聞いて、清隆は顔を上げた。楽器経験があるから入部を強制されるかもしれないと身構える。
「先生から渡してって言われたやつだから。別にコンクールの譜面持ってたって、ほかに入りたい所があったら好きにしていいよ」
 八重崎が美術室へ楽器を取りに行く間、清隆は譜面を奥の長机に置いて楽器を組み立てた。成り行きでここまで来てしまったからには、今さら楽器を置いて出て行くなど出来ない。今日の仮入部はとりあえず最後まで参加してみて、明日以降についてはまた考えるしかない。
 中学校を卒業して以来、久しぶりにマウスピースを口に咥える。初めにこれだけで音を出し、吹かない時間が続いたことによる感覚の狂いを痛感する。どうも息がしっかり入っていないような気がする。管体を取り付けて音階を吹いたり、八拍伸ばしたりしながら音出しを一通り終えたところで、列になっていた黒い椅子の一つに座っていた八重崎が呼んできた。
 手招きする彼女の隣に移り、まだサックスを担当する上級生や希望者がいない中、二人で基礎練習をする。それから急にコンクール曲をやってみようと勧められ、八重崎の積極性に押されるように、初見の楽譜を吹ける箇所まで合わせることになった。途中で年上の生徒や新入生らしき人が加わり、時々練習が中断される。そしてまだ楽曲全体を把握し切れていないうちに、顧問の教師も現れて基礎合奏が行われた。清隆も体験させてもらったそれが終わると、部員たちは個人やパートでの練習を行った。
 いつの間にか周りには、大勢の生徒がいた。高校生とは制服の違う、付属学校の中学生もいる。サックスパートにも何人かの入部希望者が訪れ、自己紹介や軽い練習で時が過ぎていった。
 そして夕方も迫ってきたころだった。誰かがコンクール曲冒頭のものだという旋律を吹く。それにつられて、この部屋にいる生徒たちも次々と演奏に加わる。先ほどまで指導してくれていたパートの人々がそうするのに従い、清隆も流されて合奏に参加した。サックスだけで合わせた時とは違い、大人数ならではの華やかな演奏が繰り広げられる。
 まだ慣れていない楽譜を必死に追う中、清隆は自分がその音楽に引き込まれているように思えた。周りの音を聞きながらタイミングを合わせ、まだ名前さえ知らない生徒たちと一つの曲を作っているのが不思議だ。あっという間の演奏が終わると空気は一変し、満足した生徒の歓声や隣同士によるハイタッチの音が響く騒がしい空間になった。そこから取り残されたように、清隆はただ放心する。
「楽しかった?」
 八重崎の声で我に返った清隆の首は、勝手に縦へと振られていた。すぐに今の答えが自分の本心だったのか不安になり、清隆は楽器を手にしたまま動けなくなる。まだ上級生が来ていないうちから付ききりで導いてくれた八重崎を喜ばせるため、思わずついてしまった嘘かもしれない。
 やがて下校時間が近付き、練習後のミーティングを見学した後で帰ろうとした清隆は、カフェテリアから外へ出かけて立ち止まった。自動ドアのそばで八重崎を待ち、手を振って通り過ぎようとした彼女へ呼び掛ける。
「先輩、今日はありがとうございました。……明日も来ます」
 既に消灯して薄暗い中で、八重崎の笑顔がはっきりと見えた。
 
 
 初めて吹奏楽部を訪ねて以来、清隆は毎日のように地下一階の部室に足を運んだ。すっかり上級生とも顔馴染みになり、今さら別の部活を見学するのも気まずいと思いつつ、四月も下旬に差し掛かっていた。
 その日も清隆が日没後に帰宅すると、廊下の足音を聞いたのかシャシャテンが襖を開け放って呼び止めた。顔を向けるなり、縦に折られた皺の間に文がつらつらと書かれた紙を突き付けられる。だがうねったような崩し字のそれを、清隆は読めなかった。対してシャシャテンは気にせず口を開く。
「聞いて喜べ。もう私が追われることはなくなったぞ!」
 紙を握り締めたシャシャテンが、笑いながら小躍りするように和室を一周した。彼女が持っているのは、主である四辻姫からの文らしい。以前シャシャテンを負傷させた追っ手は、彼女を警戒した政敵・大友と通じており、四辻姫の働き掛けによって彼らの処分が決まったそうだ。
「四辻姫様は大友にも厳しく言い聞かせたそうな。日本にいる私のことは放っておけとな!」
 これで好きに外を出歩けると解放感に酔いしれるシャシャテンを尻目に、清隆は襖のそばで立ち尽くしていた。山に幽閉されている四辻姫が、現職の王に直接働き掛けられるのか。そもそも対立している二人が、互いに一部下の待遇を巡って意見を同じくすることがあるのか。
 本当に追っ手が来ないと確信できるかも気になり、清隆は念のため外出時の注意を言い聞かせようとした。しかし、既に文を畳に投げ捨てて机に向かうシャシャテンは耳を傾けもしない。
「四辻姫様には、早う『芽生書』を手に入れるよう迫られておるのじゃ。呑気にしてはいられぬ!」
 日本に残る神器を入手しようと意気込むシャシャテンに心配を募らせながら、清隆は自室へと階段を上っていった。
 
 
「清隆、せっかくだからゴールデンウィークにどこか行かない?」
 四辻姫から手紙の届いた翌日、いつも通りカフェテリアで昼食を取っている時に信がこう提案してきた。いきなりの言葉に箸を落としそうになった清隆へ、信はすかさず早口で謝る。
「いや、急にこんなこと言っても困るよね。申し訳ない。でもお休み中に何もないのもどうかと思ったから……。今度の祝日とか暇じゃない?」
「特に予定はないが、どこへ行くんだ」
 信が悩んで唸り声を上げてから、清隆に興味のあることはないか聞いてくる。途端にシャシャテンから和室で見せられた光景が浮かび、気付けば「瑞香」と返していた。以前清隆が教えた、瑞香にまつわるシャシャテンの話を信が確かめる。彼女が神器を回収し終えるまでそこへ行くことは難しいのではと呟いた直後、彼はすぐに別の案を思い付いた。
「瑞香についてわかるものがないか、いろいろ調べてみるのはどう?」
 昔に交流があったのだから、どこかに瑞香に関する本などがあるだろう。話し合った末、次の休みに定期券の範囲内にある古書店街へ行くと決まった。
「二人だけじゃつまらないからさ、妹さんとシャシャテンも連れていかない? あ、シャシャテンは追っ手がいるから厳しいか……」
「いや、シャシャテンなら追われる心配がないなんて言い張っている。本当かは分からないが」
 昨日の出来事を伝えると、落ち込んでいた信の顔はすぐさま晴れやかさを取り戻した。早速彼女も誘ってほしいと頼む信の声が大きくなっていく中、後ろで聞き覚えのある声がした。
「今日も仲いいね、二人とも。学校には慣れた?」
 八重崎の姿を認めるなり、清隆は反射的に「先輩」と呼び返した。すっかりこの高校には馴染んでいる。加えて瑞香やシャシャテンの件は伏せ、ゴールデンウィークについて話していたと明かした。気の置けない仲を羨む八重崎に、信が声を上げる。
「そっか、二人は吹部で会ってたっけ。道理で仲がいいと思ったよ。なんでおれには教えてくれなかったんだよ、こま――」
 信が八重崎の名を呼びかけた瞬間、カフェテリアに鋭い張り手の音が響いた。周囲の何人かが振り向く中、信がうっすら赤くなった左頬を押さえもせず呆然としている。割と細身な体型からは想像し難い力を間近で目撃し、八重崎が習い事として様々な武道を嗜んでいたと清隆は思い出す。彼女が重い楽器を楽に持っているように見えるのも、鍛えていたからだそうだ。下の名で呼び捨てにするのはやめてほしいときつく言ってから、八重崎は清隆に尋ねる。
「平井くん、まだそんなに仲のよくない人を気安く名前で呼ぶのってどう思う? 特に異性同士でさ」
「失礼にも程がある……と思います。先輩に向かってそんなこと」
 信を戒める気持ちも込めて答えると、彼がきょとんとした顔で清隆を見つめた。食事の手も止まっている少年に、どうしたのか尋ねる。
「先輩って呼ぶのどうなの? 八重崎、おれたちと同じ高一だよ?」
 今度は清隆が箸を止め、八重崎を凝視した。楽器庫や練習場所を教え、部活でも率先して導いてくれた彼女が、同じ学年のはずがない。
「ああ、黙っててごめんね。わたし、中学からここにいたからさ」
 この学校には付属中学校を経て上がってきた高校生もいたことを、すっかり忘れていた。昔からここに通う彼女が、自分より校内に詳しいのも当然だ。まともに八重崎を見も出来ず、清隆は動けなくなった。勝手に八重崎を先輩と決め付け、部活でもそのように接してきたのが恥ずかしくてならない。
「まぁまぁ、平井くんは今まで通りでいいからさ。また部活に来てよ」
 八重崎の励ます声を聞いても、清隆はしばらく顔を上げられなかった。さすがに敬語はやめようと決めたが、「先輩」という呼び方が自分でもすっかり染み付いて離れない。結局、八重崎に対する「先輩」呼びは続けようと決めた。彼女も「名前の呼び捨てよりは」と、信を見て受け入れる。これで今日も部活に行けるだろう。仮入部へ行く前より抵抗なく、清隆は自然とそう思っていた。

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