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六段の調べ 急 五段 二、美央は大変なものを

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序・初段一話へ


 昨日貰ったオルゴールを自室の棚に並べ、美央は一階へ下りる。たまたま開いていた襖に目をやると、シャシャテンが手紙を広げて厳しい面持ちでいた。普段なら瑞香で何があろうと気にしないが、今日はなぜか興味が湧いて和室に入った。
「鳳凰の箏がのぅ……妙音院殿のもとにあるそうじゃ」
 長くこの家で保管され、今は内裏にあるはずの神器が盗まれた可能性があるという。箏は深夜のうちに妙音院邸へ運ばれたと考えられている。紙面をじっと睨んでいたシャシャテンが、不意に顔を上げた。
「よし、瑞香へ探りに行くぞ。そなたも行くか? 清隆は忙しいじゃろうし」
 いつも連れが必要なわけではないはずなのに、誘ってくるのは不可解だ。しかし、今の美央にはありがたかった。妙音院や鳳凰の箏などはどうでも良い。日本から離れれば、少しはあの男を忘れられるだろう。いっそ記憶がさっぱりなくなれば、もう彼を考えなくて済む。それを期待し、美央はシャシャテンの誘いに乗った。

 夕方の迫る空は晴れているが、道の端には雪の塊が積み上がっている。瑞香に着いてまず向かったのは、妙音院の屋敷だった。シャシャテンは何度か行ったことがあるらしいが、美央にとっては初めての場所だ。人通りがなく滑りやすい道を進みながら、雪の対策がされていない靴で来たのを美央は少し悔やんだ。何度も転びそうになりつつ、目的の屋敷へ到着する。家族数人で住むには広過ぎる邸宅の扉から出迎えたのは、左目を髪で隠した長身の男だった。その人が妙音院だとシャシャテンに紹介され、美央は軽く頭を下げた。
 火鉢が隅に置かれた部屋へ通され、そこに山住も待機していた。そして彼の前には、自宅で見た気のする箏が確かにある。紫の布が広げられた上にある楽器の表面には、切金で出来た鳳凰があった。シャシャテンがそばでこれを見、本物だと断言する。
「一体誰が盗んだかじゃが……思い当たりはあるか?」
「誰が、というのではありませんが」
 山住が小さく手を挙げる。四辻姫によって婉曲的に宮中を追い出されても、山住はそこの様子を調べてはいた。彼曰く、箏が盗まれたと思われる日、四辻姫は行幸で内裏にいなかった。犯人はその隙を突いたのではないか。
「そしてこの屋敷に神器があるというのは――その盗んだ者が、師長様に王の座を渡したかったのではと思われます」
 山住の隣に座っていた妙音院が顔を伏せる。王権の象徴である三種の神器を手にしていることは、その者が王であると認めるに等しい。うち一つだけとはいえ、それを第三者が勝手に現役の王以外へ譲渡するなど、歴史から見ても考えられないようだ。シャシャテンが顔を曇らせ、腕を組んだ。
「伯母上を快く思わぬ者の仕業か? 加えて、宮に詳しくなければ盗めぬじゃろう。……それに、何ゆえ妙音院殿へ箏を託そうとした?」
 一人で悩んでいるシャシャテンへ、山住と妙音院はただ黙っている。口を引き結んだ彼らの表情は、何かを不安げに見守っているようだった。誰も疑問へ答えてくれず腹を立てたシャシャテンが、美央にも考えはないか聞いてくる。しかし急に問われても、すぐ返せるはずがなかった。返事に戸惑っているうちに、シャシャテンが諦めたように伸びをした。
「しかし、この箏は如何にすれば良いかのぅ」
「それなら、わたしは必要ありません。御所へお返しいただければ」
 即座に告げた妙音院は、王になるなんぞに興味がなさそうな人物だった。顔こそ若いのに、柄もない地味な色合いの着物と羽織りからは隠居人のような印象が漂う。王権の象徴たる宝物をすっぱり手放そうとする態度も、それに拍車を掛ける。
 美央が思った通りで、妙音院は王になるつもりがないと言い切った。これを置いていった者には善意があったかもしれないが、それはあまりにも重い。妙音院の言葉に頷き、山住が手早く箏に敷かれた布で楽器を包みだした。
「しかし私も姫様も、宮城への立ち入りが出来ません。誰がこれを返しに――」
「それは美央で良かろう」
 山住の疑問を振り切ったシャシャテンへ、美央は顔を向けた。彼女はこのために、自分をわざわざ瑞香へ連れて行ったのではないか。こちらの気持ちも知らなそうに、シャシャテンは続ける。
「出来れば、この騒ぎと直に縁のない者に請け負って欲しいのじゃよ。頼めるか、美央?」
 四辻姫に会いたくない、と言えばシャシャテンは怒るだろうか。顔を見る度に覚えてきた寒気が、まだ行く決断をしていない美央を震わせる。あの女王は、おぞましいものを隠し持っている。根拠はないが、一目見た時から抱いてきた思いは美央の中で変わらなかった。かといってここで断れば、誰が箏を返せるのか。妙音院は女中に呼ばれて部屋を出、どうも自分以外の人々は動けないようだった。
 美央はまず、布にくるまれた箏を持ち上げてみた。今まで学校の授業などで運んでいたものと同じく、これも一人で抱えられないほどではない。問題はここから宮城まで無事に運べるかだったが、休憩などでいくら時間が掛かっても良いと言われた。
「まぁ早いに越したことはないが……くれぐれも無理はするな。引き返しても良いぞ」
 シャシャテンはそう勧めるものの、むしろまっすぐ行った方が早いように思える。雪が残っている地面でも歩きやすいという下駄を借り、美央は屋敷を出る。手袋を嵌めると滑りそうなので外したが、そうすると急に冷たさが肌を刺した。日は傾き始め、空気には全く暖かさが感じられない。
 かじかむ指先に力を込め、美央は箏を横向きに抱えて歩く。しかし身長ほどもある楽器を持ち運んでいると、その大きさが嫌でも目立つ。都の大通りに入って人通りが増えると、周囲の町人たちがちらちらと視線をやってきた。初めは無視を決め込んでいたが、どこへ行っても向けられる目に雪玉を投げ付けたくなった。急に湧いてきた敵対心を抑え、目的地へ急ごうとする。
 足の着地した所が濡れていたと気付けば、それに滑る。姿勢を立て直そうとするにも遅く、箏を抱えたまま転んでしまった。すぐさま周りの人が駆け寄り、ある者は箏を代わりに持ち、ある者は美央の手を取って起こしてくれる。彼らに礼を言いながら、美央は耳元が熱くなっているのを感じた。鼓動も転ぶ前よりずっと速い。些細な出来事で動揺している自分が馬鹿らしい。
 再び箏を持ち、暗くなる道を急いで歩きだす。やはり自分は弱くなった。あの男は「強い」と言っていたが、とんでもない――そう浮かんで、首を振る。彼を忘れるためにはるばる瑞香まで来たのに、これでは意味がない。今は箏を無事に持っていくことへ集中すべきだ。切り替えて足を進めたが、途中で何度かつまずいた。それでも派手に転びはせず、かがり火の明るい宮城の門に辿り着く。
 美央が近寄るなり箏へ目をやった衛士に、盗まれたものを返しに来たと伝える。衛士に呼ばれた複数の女官たちが、美央の手元を見るなり騒ぎだした。すぐに宮城の入り口より先、女王の住む御所へ通じる門前へと案内される。女官の一人が門の奥へ引き返し、長い髪を引きずる女を連れて戻ってくる。左袖をだらしなく下げ、疲れた表情をして向かってきたのは、あの四辻姫だった。やはり不吉な印象が拭えない。全身の毛が立つような感覚に、美央は動けなくなる。
 女官たちの用意した台に箏を置くよう指示され、言われた通りにする。四辻姫は片手で布をめくり上げると、腰を屈めて箏を端から端までじっと検分し始めた。龍を模したとされる楽器の姿を、彼女は事細かく見ていく。やがて女王は姿勢を起こし、大きく頷いた。
「うむ、これは紛うことなく正銘の神器よ。……じゃが、何故そなたが持っておる? そなたが盗んだのか!?」
「いえ、わたしは事件と関係ありません。これはえっと……妙音院って人の家に――」
「言い訳など聞かぬ! おい、こやつを『花籠』へ留めよ!」
 説明しようとしても、声を荒げた四辻姫には届かなかった。命を受けた女官たちがすかさず美央を捕縛し、内裏の離れへ連れて行く。振り返って声を上げても、女王はこちらを見向きもしなかった。

 後ろ手に縛られた縄を解かれて入れられた場所は、美央にも覚えがある。ただ記憶より狭く、横に並んで三人ほどしか入れそうにない。正面の壁は固い板で出来ており、八重崎のような力のない身には容易く壊せないだろう。後ろの縦格子に鍵が掛かり、その向こうには明かり一つない廊下や別の牢が広がっている。時々見回りに来る女官が持っている手燭と、壁の高い位置にある小窓から差す外の光だけが頼りだった。今は誰も廊下におらず、格子を背に美央は隅で座り込んだ。
 ズボンのポケットにあった感触を、美央は今さらのように思い出す。鞄は妙音院邸に置いてきたが、スマートフォンだけは所持していた。この牢へ突き込んだ女官も、この小型通話機を何だか理解できず、そのままポケットに入れ直して雑な手荷物検査を終えたのだった。しかし日本では役に立つ文明の利器も、ここではただの重しと化している。連絡を取りたくても、電波が通じなかった。救出要請は諦め、美央は体育座りの身を縮こませる。ほとんど暗い部屋の中では、考え事をするしかなかった。
 もしシャシャテンの目が節穴なのなら、それを潰してやりたい。居候の女王を思う態度に、美央は吐き気を覚えた。女王は素晴らしい人などでもない。むしろ人の話を聞こうともしない、わがままな独裁者ではないか。そんな人物を思い返しているうちに、本当に吐いてしまいそうになった。床を汚さないよう、別のことを考えるべく努める。
 なぜか、あの男が浮かんだ。彼は贈ったオルゴールの曲について、詳細を知っていたのだろうか。もしただ自分のイメージだけで選んだとなれば、ぜひ教えてやりたいものだ。しかし現状では、それが出来そうもない。
 寒さで握っていた拳に、美央はさらに力を込めた。あいつを忘れたいと思っていたのに、結局こうしてより考える羽目になってしまった。しかも会いたいとまで願っている。どうして当初の思い通りにならないのか。拳を床に打ち付けると、手に痺れがじんわり広がった。
 諸田寺で一度「死んだ」あの少年は、自分が人を心配していると言った。元々は自分の勝手でなろうとした不老不死を、彼は自身に責任があると思い込んでいた。それは違うと言いたくて、当時は反論したのだ。その言葉が、彼には「人を思っている」と読み取れた。確か諸田寺の僧侶も、自分が昔から人に心を掛けていた可能性を指摘してきた。果たしてその通りだったか考えて、否定する。少なくともシャシャテンたちに会う前まで、人を気にしてこなかったはずだ。
 一体なぜ、こうなったのだろう。明らかに自分は変わった。こんな見苦しい、弱い自分のまま生きていくのは耐えられない。思わず上下の歯の間へ舌を持っていき、ぐっと力を入れる。しかし寒さのせいか、はたまた元から力がないからか、噛み切るほどまでにはいかない。そもそも舌を噛んで死ねるのだろうか。口を閉じ、別の方法を思案する。
 壁に仄かな光が跳ね返されたのはその時だった。女官が見回りに来たのだろう。鍵の開く音がしたかと思えば、数秒もせず閉まった。手燭の明かりが遠ざかっていく。辺りが暗くなり、美央はようやく扉のそばを見やった。竹皮の小さな包みが、窓から入る月光に照らされている。開いてみると、丸い握り飯が三個と申し訳程度の漬物があった。もう深夜に近いはずだが、この時間に食べるのもどうか。美央は包みを元のようにしながら、ふと再び笑みを零した。
 食べなければ良いのだ。そうすれば、いずれ弱い自分とおさらばできる。これ以上、人間云々で悩みはしなくなる。何と優れた思い付きだろう。包みを格子の方へ押しやり、美央は壁へ目を向け直した。

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