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六段の調べ 破 六段 二、筑紫賢順斎が倒せない

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序・初段一話へ


 元いた場所へ妹を連れて行くと、倒れていた僧侶の肩が軽く動いたように清隆は見えた。徐々に男はゆっくりと起き上がる。袖から水気の多い泥を垂らして顔を両手で拭う賢順へ、山住が刀を地面と水平になるように構えた。そして迷いもなく、背の上辺り――恐らく心臓のある所へ突き立てる。一瞬だけ賢順は前に倒れそうになったが、すぐに手を後ろへ回して刃を掴んだ。掌の流血も構わず、彼は刃を体から抜いていく。柄を握っている山住も、それに押されるように後ずさっていった。
 刺さっていた刀から自由になった賢順の傷に、もう出血はなかった。その衣服こそ泥と血で汚れているが、体は負傷の影響など受けていないように軽々と動いている。ようやくこちらを向いた賢順の口元は、赤黒く染まりながら醜く歪んでいた。その胸元には刺突の痕があるものの、生存しているのは清隆たちが今目撃している通りだ。
「皆様、ここにいた不死鳥を手分けして探してください。いずれはあなた方も、そして瑞香の民全てを私のようにします」
 指示を受けた賢順の弟子や、梧桐宗信者たちが行動を始める。それに待ったを掛けたのが、一連の様子を見ていた女王だった。呼び掛けに応じて、伽藍の中に控えていた武装の男たちが出てきたのに合わせて命ずる。
「あの破戒僧を殺せ。血を一滴も残さず搾り取ることも許す。もちろん、山住殿も受けてくれるな?」
 兵たちと揃って返事をした山住が、四辻姫と清隆たちに下がるよう頼む。武器を携えた者と入れ替わるように伽藍の壁沿いに移ってから、清隆は遠目に賢順の特異となった体質を理解した。いくら矢を撃たれ、槍で突かれても僧は平然としている。むしろ巧みに太刀と鞘を捌き、防御に間に合う攻撃は余裕で跳ね返していた。
 一向に倒れる気配のない僧侶に、同じく様子を見ていた四辻姫も苦い顔をしている。奮戦している臣下の一人を呼び、一羽でも不死鳥に会ったらただ逃げるよう伝えてくれと求める。了承した男が山門の方へ去ってから、四辻姫は誰に言うとでもないように叫んだ。
「あやつの――大友の『建国回帰』などさせぬぞ!」
 それから彼女はきつと清隆たちを振り返り、手招きをする。まだ起きない妹を壁に寄り掛からせ、清隆は四辻姫のそばに立つ。信とシャシャテンが、策を請い願うかのように女王を見つめている。しかし彼女の口から出たのは、既に諦めが混じっているような声だった。
「さて、あの僧を如何にすべきじゃと思う? 此度は、さすがの私も敵うはずがない」
「伯母上、斯様なことはありますまい!」
 言い返すシャシャテンを止め、清隆は改めて攻撃を受け続ける賢順を一瞥する。彼がどれほど負傷しても、傷はすぐに癒えるだろう。治りが遅くなることもなさそうだ。出血多量を待っているのでは、時間が掛かり過ぎる。それならシャシャテンでも弱いという毒は効くだろうか。だが、これもすぐに用意できるか。
 清隆が頭のみで考えている横で、信はスマートフォンを操作している。ここで調べたところで分かることがあるのか。清隆が怪訝に思った時、何か見つけたか信が声を上げた。彼の見せる画像は、かつて北の家で撮影された『芽生書』――後に偽物だと分かったものだった。岩屋に人を封じる絵を、信が示す。
「これってさ、前に差流なんとかで見た歌と同じ場面じゃない?」
「八重崎殿の持っておった奴か? ……そうか」
 シャシャテンが口角を上げる。あの歌詞には、不老不死となった刀鍛冶を岩屋に閉じ込め、人に影響を与えるのを防いだとあった。これと同じく、賢順をどこにも出られない場所へ封じるのはどうか。シャシャテンの提案は良さそうだったが、清隆はそれをすぐに実行できないように感じた。
 伽藍を取り囲み、山肌も覆っていた木々を思い出す。この辺りにあるものといえば、医王山を形作る手付かずの自然だけだ。念のためシャシャテンにも尋ねたが、人が入りそうな洞窟も近くにはないらしい。わざわざ封じ込めるためだけにここを離れて長く歩くとなれば、その間に賢順が思惑を勘付きかねない。何か他に僧の動きを止める術はないか、清隆が悩んでいる中で壁際から物音がした。立ち上がりながら今にも転びそうな妹に、シャシャテンと信が駆け寄る。
 シャシャテンに賢順が宿願を果たしたと聞かされた美央は、目覚めた直後でぼんやりしていた表情をはっきりとしたものへ変えた。体を前に乗り出し、彼女はいまだ健在の僧侶へ呼び掛ける。
「お願いです、賢順さん。わたしも、『人でなし』に!」
「だから美央さん、それはだめだって!」
 歩きだそうとする美央の腕をシャシャテンと同時に掴み、信が声を上げる。まだ妹は本気なのか。清隆も同じく止めようとして、賢順に阻まれた。
「わたしは、日本の者を不老不死にするつもりはありません。兄が望んでいたのは、あくまで瑞香に住まう者の安寧。日本の者とも関わりはあれど、その身を大きく変えはしないと」
 矢種尽き、戦意も喪失したのか攻撃をやめていた武人たちの間を、太刀片手に賢順は進んでいく。彼にただ一人、山住がまだ刀を握ったままついて来ている。清隆たちの前で賢順が止まると、山住も彼から少し後ろでそれに倣った。
「平井美央様、でよろしかったでしょうか。お尋ねしたいことが一つありまして」
 シャシャテンの手を振り払った妹へ、賢順は低い声で問う。昔から人に何も思わない存在なのだと、美央は言っていた。しかしそれは、本当に正しいのかと。
「あなたは移ろいゆく身を恐れているようなれど――昔から人に情を覚えてきたとは考えられませんか? 例えば……その珍しき髪筋をとやかく言われて、など」
 頭にやった手で髪を根元から引っ張り、妹は固まる。自分では気付いていないだけで、本当は人を気に掛けない人間などではないのではないか。問うてくる僧侶へ、美央は顔を上げつつも目は合わさない。
「あなたは心の奥で、周りの方々と同じく正真正銘の『人』になりたいと思っておられるのでは、ございませんか?」
「そんなこと……」
 思わぬ指摘に戸惑ったか。ゆっくりと太刀を振り上げながら賢順が近付いてきても、彼女は動かない。
「悩み苦しむあなたを救ってあげましょうか。それともここで死の恐ろしさを分からせてあげましょうか――」
 シャシャテンと共に美央を左右から挟んでいた信が、突然彼女の前に立った。その足は、ここから動くまいとするように強く踏ん張られている。
「信、馬鹿なことをするな!」
 清隆の言葉に同調し、シャシャテンも信の腕を掴んで彼を逃がそうとしている。
「そうじゃ小僧、賢順に抗するのは城秀に任せておけ。早う下がれ!」
 山住が賢順の後ろで足を速める中、信は誰の言うことも聞かず目を閉じるだけだった。いつの間にかそのすぐ近くにいた賢順が、まっすぐに太刀を振り下ろしてきた。清隆だけでなく山住も駆け足となり、信のもとへ回り込もうとする。山住が刀を賢順に向けたように、清隆はシャシャテンから借りた短刀での応戦を図った。得物を目の前に掲げ、今にも鞘を抜かんとする。
 その時、鍔に付けていた紙縒りに赤い染みが付いた。それは柄と鞘を握っている手の甲にも落ちる。手の周辺に降る雨は、次第に激しくなっていく。その光景と落ちてくるものの感触に耐え切れなくなり、清隆は腕を下ろした。そして短刀に向けられていた焦点を、さらに遠くへ移す。
 横から割り込んだ山住の刀が、太刀の動きを押さえ込んでいる。しかし賢順はそれも無視するかのように武器を持つ手に力を込め、刃を進めていた。無銘「栄光」の鋒は、彼の着ていたコートも貫いて、少年の胸を縦に抉っている。山住が賢順のそれを貫こうとして失敗した部位に近いようだった。
 抵抗した山住を蹴り倒し、僧侶は太刀を相手から引き抜く。すかさず刺された部位から鮮血が吹き上がった。山住が身を起こして片袖を破り、信の胸にそれを覆って押さえ付ける。シャシャテンもその上で掌を強く重ねる中、山住は必死に信へ呼び掛けた。
「今すぐ医者を呼びに行きます。どうかそれまでご辛抱を!」
「……別にいいですよ、山住さん。おれは死んで当然なんです」
 努めて明るい声を出している信を見て我に返り、清隆は彼のもとへ駆け寄った。姿勢を崩した信を支え、楽にさせようとこちら側に頭を向かせて横にする。そこで、その陰にいた人物の存在に今さら気付いた。庇われた妹は、折った膝を信の背の下に差し入れる。
「なんて、ばかなことを」
 美央の言葉はもっともだった。信がわざわざ攻撃を受ける必要はなかったはずだ。清隆はそう言おうとしながらも、声がすぐに出なかった。
「申し訳ない、美央さん。おれが誘ったから不老不死に興味持って、それでここまで――」
 去年の夏、箏教室だと思って諸田寺に連れて行ったのが間違いだったと信は話す。美央が「人でなし」――不老不死になりたいと思ったのは、それがきっかけに違いない。責任を感じて、彼は必死に妹を止めようとしていたのだ。しかし美央は、不老不死を本気で目指そうとした。こうなったら、何とか自分がその罪を償うしかない。
「それが命一つで済むなら、安いもんだよ」
 笑う信の後頭部へ美央が左手を伸ばし、無理やり顎を引かせた。そして右手は彼の手を握りながら持ち上げ、さらにその耳元に顔を近付けて言い返す。
「生田さんは悪くありません。あなたがここに誘う前から、わたしは不老不死に興味を持っていました。だから気にしないでください。そんなに、自分を責めないでください……」
 声は次第に聞き取りづらくなった。それでも信は理解できたらしく、小さく感謝を呟く。相変わらず、表情は笑顔のままだ。
「やっぱり、美央さんは『人でなし』になるべきじゃないよ。人を思ってないとか言ってたけど……全然違うじゃん」
「いいえ、わたしは『人でなし』になりたいんです! 前みたいに、誰のことも気にしないで――」
 首を振って声を荒げる美央が言い終わるのも待たず、信は尋ねる。
「じゃあさ……どうして美央さんは、おれを気遣ってくれるの? ……人がどうでもいいなら……なんで、おれがおれを責めるなって、優しいこと言ってくれるの……?」
 美央が息を呑み、その右手を離した。同時に信の手も、だらしなく下へ落ちる。妹がぼうっと自身の掌を見ている間に、清隆は信の腕を取って脈を探ろうとした。しかしどの辺りで判断すべきか分からなくなり、何度も袖の上を往復する。それをシャシャテンが跳ねのけ、コートとシャツの袖をまくってから手首に触れる。彼女が首を振ったのが信じられず、清隆はシャシャテンが脈を取った部分の感覚を確かめた。自分のものとも比べてみて、ようやく事実を認識する。
「……信、聞こえているか」
 それが気休めにさえならないなど、頭で理解しているはずだった。それでも清隆は、もう残ってもいないはずの可能性にもがいて声を掛け続ける。やがて返事が一向にないことに、現実を突き付けられる。彼を地面に寝かせて立ち上がると、すぐに美央が信の上体を抱え起こした。片腕を彼の背に回し、またも耳元で何か言っている。それを清隆は少しも聞き取れなかった。
 信の胸に裂いた袖を載せたまま、山住が深く頭を下げる。
「申し訳ございません、生田殿。もう少し早く来ていれば……」
「城秀、己を責めるでない。信のようじゃぞ」
 シャシャテンが低い声で叱責していると、まさに命を奪ったばかりである男の声がした。
「余計なものを斬ってしまいました。あまり人は手に掛けたくなかった故、惜しいことを」
 太刀を鞘に収めていた賢順が、こちらに背を向ける。遠ざかろうとするその姿に、山住が反応した。地面に捨てていた刀を拾い、再び賢順へ斬り付ける。喚き声交じりに刃を振るう彼の動きは、これまでの剣捌きと違って闇雲だ。
 いくら攻撃しても、無駄でしかない。清隆が訴えても、山住は止まらなかった。そこに賢順が振り向き、山住の持つ刀の刃を拳で握る。動けなくなった男に、僧侶は問い掛けた。
「わたしが斬った方とあなたは、どうやら親しかったようで。ぜひ名前を聞きたく」
「……姫様の、恩人でございました――」
 山住がその名を口にすると、賢順はちらりと信に視線をやった。そして低く独り言を言ってから、またはっきりと話しだす。
「生田というのであれば、案ずる必要はないでしょう」
 それを耳にした山住が顔を上げ、賢順と同じように信を見やる。彼は何が分かったのか。清隆が考えていた時、思いがけぬ言葉が飛び込んできた。
「運が良ければ、その方は蘇りますよ」

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