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連載(57):人類の夜明|幸福を求めて「価値観を越える」

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

価値観を越える

「いつの時代も、人は幸せを求めて歩む旅人でした。

“幸福の青い鳥はどこに?”探せども探せども幸福の青い鳥は見つからない。

本当に青い鳥は存在するのか?。

それとも夢か幻か?。

そんな疑心暗鬼な気持を抱きながら、人は諦めず今日まで幸せを追い求めてきました。

私は幸せの青い鳥は存在すると断言します。

なぜそういえるのか?。それはその気になりさえすれば、今すぐにでも、手に入れられるからです。

それは秘境にあるのでも、お金や宝石の中にあるのでも、ましてや地位や権力の中にあるのでも無く、一番身近な私たち一人ひとりの心の中に存在するからです。

さてそれでは、一人ひとりの心の中にどんな形で存在するのでしょうか?。

それには、価値観によって幸せの捕らえ方が違ってくると思いますので、まずはその価値観について考えてみることにしましょう。


卒業式に歌う、“仰げば尊し”の一節に、“身を立て名を上げやよ励めよ”という個所が出てきますが、これが長い間私たちが求めてきた価値観ではなかったでしょうか。

あなたは子供の頃、大きくなったら“偉くなれよ”と親や知人から激励されなかったでしょうか。

この“偉くなれよ”の中身は、一体何だったのでしょうか。

それは“末は博士か大臣か”のニュアンスが込められていなかったでしょうか。

最近では少々変わってきて、“一流学校に入って一流会社に勤めろよ”、あるいは“事業家になって金儲けしろよ”、もしくは“著名人になれよ”、というものに変わってきたかもしれませんが、いずれにせよ大衆が求める価値観は『立身出世』に尽きるでしょう。


昔から、家柄、血統、身分、といったものを何よりも重視する人がおりますが、これもその人たちにとってみれば大切な価値観の一つでしょう。

特に最近では、知識、頭の良さ、教育の程度といったものを重視する傾向がありますが、これなども、目にみえない価値観として、大切にされている一つでしょう。


形に見えるものとしては、お金、財産、絵や骨董品、宝石、といった物質的なものでしょうが、これらは特に肌で感じられる大衆向きの価値観として、現代社会では最も貴ばれているようです。

その外に、ボランティア活動に生きがいを感じている人、過疎地で病人を救おうと献身的な働きをしている人など、実に素晴らしい生き方だと思いますが、これはしっかりとした信条に支えられた価値観の一つでしょう。


変わったところでは、主義主張を振りかざし政治運動や社会改革に没頭している人、滝にうたれ山野をかけめぐり荒行で肉体を虐めている人、地下鉄や橋の下でたむろする人など、これも特殊な人生観の持ち主なのかもしれません。

さてこれらの価値観を整理してみると、次のように分類できると思います。

①は、物質的なものに価値観を置く者。
②は、精神的なものに価値観を置く者。
③は、その両方に価値観を置く者でしょう。

それでは現代人は、一体何に価値観を求めているのでしょうか?。

いうまでもなく、物質偏重時代に生きている現代人のほとんどは、一番目の物質的なものに価値観を求めているといってよいでしょう。

家柄、身分、地位といった価値観も、つき詰めれば、金や財産が下地となっていますから、結局物質的な価値観に舞い戻ってしまいます。

当然ながら、我武者羅に金儲けに走る、肩書を求める、権力にすがる、といった生き方に走ります。

でもいくら手に入れても心は休まらない?。

幸せ感が得られない?。

なぜか心にポッカリとした空白がある?。

一体その足りないものは何だろう?。

そうだ、永遠のものが足りないのだ!、そこで昔から大金持ちや権力者が求める究極のものは、不老長寿なる薬だったのです。

でも、そのようなものがこの世にあろうはずがない。

したがって、どんな大金持も、老後の日々は穏やかにならず、暗い憂欝な日々を送らなければならなくなるのです。

今日ではそのような夢を追う人はいなくなりましたが、それだけに再び振りだしに戻り、物に幸せを見いだそうと躍起になるのです。

しかし何度もいうように、物は永遠でないから手に入れても心は満足しない、そこで益々現代人の不安は高まっていくのです。


私たちは、外的環境である教育・思想・習慣・情報などによって知らず知らずのうちに価値観を身につけていきます。

もちろん、身につける要因は外的環境だけではありませんが、(輪廻転生でつけた価値観もある)大きな影響を受けていることは間違いないでしょう。

この外的環境によって身につけた価値観は、相対的なものですから浮草のように落ち着きがありません。

年令により、性別により、時代により、場所により、あるいは立場の違いによってもクルクルと変ってしまいます。

したがって、このような価値観にとらわれている限り、人の心は安らぎません。

だからそのことに気付いた人は、安らぎを心の中に求め宗教にのめり込んでゆくのです。


でも心がいくら大切だからといって、お寺や教会に入り浸っていて良いでしょうか?。

ろくに仕事もせず、瞑想にふけっていて良いでしょうか?。

滝に打たれ山野を駆け巡り、行に一生を捧げて良いでしょうか?。

いいえ、それではこの世に生まれてきた意味がありません。

心に価値観を置く生き方は、精神修養によって身につくものですが、それは決して社会を否定し人間味をなくすことではありません。

物を無常なものとしながらも、人間社会を不合理多いものとしながらも、そこに身を浸し生きてこそ三番目の価値観を輝かすことができるのです。

(つづく)

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