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連載(30):人類の夜明|奉仕国家の政治

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

奉仕国家の政治

「政治とは何でしょう?。

『政』とは『国を治めること、あるいはまつりごと』、と辞典に載っておりますが、『政』とは、“整”なのです。人心を整え、物を整え、環境を整えることです。

『治』とは、自然を生かし上手に活用してゆくことです。昔から“治山”“治水”は国を治める不可欠な要素といわれてきましたが正にその通りで、人間が自然と共存共生できたら豊穣はもとより、彼らから有意義な生き方を教わるでしょう。

したがって『政治』とは、人心を整え、物を整え、自然と相和し、住み良い社会環境と自然環境を調えることなのです。

さてそのような政治を望む中で、奉仕国家は都市国家という独特の政治形態を作り上げました。

先程も説明したように奉仕国家の特色は、中央集権的色合いを排除し、地方重視の政治を採用していますから、中央国家は都市国家を裏支えする脇役に徹し、主役は都市国家が演じることになります。

とはいっても、行き過ぎがあってはならないので、中央国家は情報の手綱を後方で握り、いざというとき伝家の宝刀が抜けるよう監視に怠りがあってはなりません。

また都市国家は、都市国家間同士の協力なしに成り立ちませんから、相互の交流は頻繁で、多岐に渡って行われるでしょう。もちろんこれは国内に止どまらず、世界のあらゆる都市国家とも、姉妹提携、情報交換、技術協力、人的交流、労働協力といったものを通して、独自のつながりを保つことになるでしょう。」

[自律した民主主義]

“生産手段は、権力を集中させることによってしか生み出せない”との世迷い言は、人類の歴史がつくった幻想です。生産手段などは、奉仕精神さえあればどこからでも引き出せるし、どうにでも生み出せるものだからです。

もっとも人それぞれの欲求は様々ですから、どれだけの生産手段をどの生産部門にどれだけ配分し、そこにつぎ込む資源をどこからどれだけ調達し、どのような物をどれだけ生産し、どのように配分するかといった意志決定者は必要でしょうから、その存在自体は否定しませんが、それは資本家や権力者でなくても良いはずなのです。

民主的に選び出された指導者の下に行政機構を作り、皆が納得できる生産や配分はいくらでもできるはずだからです。

『人類が発見した最大の功業は民主主義制度である』といわれるように、平和を目指す人類にとってなくてはならないものが民主主義制度でしょう。特に奉仕世界においては、民主主義の熟成度はどんな世界よりも要求されるでしょう。なぜなら、人を動かすのは権力でも武力でも金力でもない、国民一人ひとりの良心だからです。

その民主主義も、今日の民主主義とは少々違っています。今日の民主主義は主権が国民にあるというだけで、その内実を人の心に求めていません。つまり、外圧(規則あるいは利害や損得)に依存しているのです。しかし奉仕世界の民主主義は、内圧(良心)を母体にしています。この違いは天と地の差があるでしょう。

さて、都市国家を基盤とする国体においては、市民一人ひとりの政治に対する関心は高くならざるを得ないでしょう。なぜなら、完全なる地方分権制度が導入された都市国家においては、その組織自体が一つの国家としての役割を果たすからです。

したがって、都市国家の政治動向が直接市民生活に影響を及ぼすという切迫感と緊張感が、市民に政治参加の重要性を認識させるのです。熟成した民主主義が国民の手に掌握され、かつ血の通った奉仕経済が駆動力となれば、もうそこに何の不安も不都合も生まれないでしょう。

ただひとつ弱点があるとすれば、人々の良心が何らかによって毒され、民主主義が大きく歪められた時でしょう。しかしそれさえも、成熟した労働本位制の下では一時の現象であり、はやり病が治るがごとくすぐに正常化してしまうでしょうが・・・。

さて民主主義が正しく運用されるには、やはり主権者である国民自らが政治の最終決定権を持つことが大切でしょう。その主権行使の場はやはり選挙です。したがって選挙は、国家の死命を決する重大行事となりましょう。

都市国家議会は都市国民が選んだ奉仕議員によって運営されますが、都市行政は都市国民が直接選んだ都市国政総理大臣(都長)の付随機関である行政庁がこの職務を遂行することになります。

この奉仕議員も都長も、職域選挙という予備選挙によって選ばれた資格者の中から、都市国民全員の直接選挙によって選出されます。

私が職域選挙という予備選挙を重要視するのは、『国を治め指導していく者は哲学者でなければならない』というプラトンの哲人政治論に共鳴するところがあるからです。

たしかに、多数決による民主主義政治は安全運転の代表かも知れないが、それだけに目先の安全ばかりを追い求める安易な政策に偏ってしまい、気がついて見るとそれがいつのまにか危険な流れに乗っており、慌てて舵を切らねばならない羽目になる。これでは、いつまでたっても視野の狭い政治から抜け出せないでしょう。

職域選挙がなぜ哲人政治論に結びつくのかと疑問に思うでしょうが、人徳者の多くは人心を洞察する力を備えており、このようないい方はしたくはないが、高い魂の持ち主が多いからです。彼らの人生観にはしっかりとした信条があり、そこから培われた見識があります。だから迷いも少ない。また、何事にもくじけない忍耐力と行動力も兼ね備えているので、時勢に即した対応も期待できる。

この差はどこからくるのでしょうか?。

人格には長い歴史があり、そこからくる思慮の深さの違いがあります。人格の高いものは巨視的なものの見方ができ、低いものは微視的な見方しかできない。

これは誰が悪いのでもなく、単なる人生経験の不足(輪廻転生の数)から来る差なのです。

当然未熟な地球上においては、高い人格者の数は少なく、低い者の数は多いといったピラミッド型を形成するでしょう。多数決原理が絶対だといえないのは、これらの理由からです。

私が職域選挙を重視するのは、そのピラミッド層を上に押し上げ、少数層の絶対多数を実現しようと思うからです。

今日の政治家のすべてがこの中間層より下だとはいわないが、やはり占める割合は多いでしょう。その彼らは、金権と組織を利用してのし上がってきた者だけに、利権に惑わされ易く優柔不断に陥りやすい。

そのような者の行う多数決政治が、国家を間違いない方向に導いてくれるでしょうか?。職域選挙で選ばれる者は、普段の有りのままの姿が評価されるのですから、その時だけよい恰好をしても真にその人格から来ていない限り、すぐに化けの皮が剥がれ人に見向きもされなくなるでしょう。お金のない世界で人に認めてもらうには、不断の努力と人の心根がものをいうのです。

さて私が今日の政治を憂える一つの理由に、目的と手段が不明確になっている点が上げられます。

つまり、派閥争い、権力争い、利権争い、選挙戦略などに力点が置かれ、何のための政治か、誰のための政治か、何を目指すべきか、この肝心なものが忘れられているのです。

ただ経済を成長させ物質面から国民の期待に応えよう、あるいは上辺だけの平和を続行させることで政権を維持しよう、といった薄っぺらい政策しか取られておらず、国民を一体どこへ向かわせるのか?、どういう世界を目指すのか?、この肝心要な目的が忘れられているのです。

ですから国民は金儲けを唯一の目的とし、気違いじみた経済戦争に明け暮れているのです。それが自らの足元を掘り崩し、亡国への影を深めているのです。これは良くよく心すべきことでしょう。」

(つづく)

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