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連載(3):人類の夜明|不思議な老人との出会い

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

第一章 資本主義社会からの脱出

1. 不思議な老人との出会い

それは春もたけなわの夕暮れのことだった。
私は仕事で会社の車を利用しそのまま帰宅する時には、必ずある川辺りに立ち寄り瞑想することにしていた。

その日も私は、いつものように川辺りの土手に車を停めると、早速その日の反省をかねた瞑想に入った。
川の流れが小気味良いリズムで耳に届いてくる以外、全くの静けさが辺りを支配している。

今日の私の言動を振り返り、どこか誤りがなかったかチェックし、与えられた課題がどのくらい達成できたかなど振り返ったのち、いつものように今日人類が抱えている難問をどう解決すべきか探っていた。

どの位の時が流れただろうか、私はふと人の気配を感じ目をあけた。
辺りはすでに夕闇にそまり、空には星が瞬きはじめていた。
私は気配の感じた方に視線を移した。
そこは私のところより一段高くなっており、石積みの土手が左右に広がっている。
その土手の上に一人の老人が腰を下ろし、しきりに私の方を伺っている様子なのだ。

私が軽く会釈すると、老人は待っていましたとばかり土手から飛び下りると、笑顔を見せながらスタスタと近づいてきた。

「瞑想の邪魔をしてしまいましたな、申し分けありませなんだ。」
老人は気さくにそういうと頭を下げた。

「いいえ、とんでもありません。」
私は窓を開けると、恐縮しながら応えた。

「ところで、あなたは人類の未来をたいそう憂いている様子でしたが、解決策は見つかりましたかな?。」

「えっ!?。」

突如心中を見透かされた驚きに、私は一瞬言葉を失っていた。

「どうじゃろう、一つ私と人類の未来について語ってみませんかな?。私も大いに興味がありますでな・・・。」

そんな老人の誘いに、私は不思議と何の抵抗もなく同意していた。

二人は一段高い土手に腰を下すと、ポツリポツリと世間話をはじめたのだった。

老人の年はゆうに八十歳を越えているように見受けられたが、顔の艶、眼光、身のこなしなどはまだ五十代の若さがあり、老いてますます意気盛んの感があった。

言葉を交わすうちに私は、人柄のせいかそれとも年齢差のせいか、老人を慕う気持ちが次第に強くなっていくのを感じていた。

「今の世の中をどう思いますかな?。」

老人は論点に触れた。

「私は常日頃から、資本主義社会が究極の社会システムなのだろうか?、この外に道はないのだろうか?、と疑問を持っていましたが、共産主義社会の崩壊を目の当たりに見せられた今、やはりこれしかないのかと落胆的妥協に迫られているところです。」

「落胆的妥協とな?。」

「ええそうです。資本主義社会は確かに物質的豊かさはもたらしてくれました。
しかし一方、環境破壊や人心の荒廃を生み出しています。
私にはどうしても、この矛盾多い社会がこのまま続くと思えないのです。
かといって、これに代わる社会システムがあろうとは思えません。」

「たしかに現段階では社会主義社会は敗者で、資本主義社会が勝者のように見えますじゃろう。
しかし、本当に資本主義社会は勝者となり得たのじゃろうか?。
この疑問はあなたばかりでなく、おそらく誰の胸の内にもあると思う。」

「ええ、たしかに。」

「資本主義経済は自由経済です。

つまり人間の本能的欲求を出発点とした、いわゆる利益追及経済です。
その世界においては、物の生産、流通、配分、消費に至るすべてを個人の自由にまかせ、国家の干渉を許さないのです。

まあ、ある程度の法的規制はあるにしてもほとんどは自由です。
したがって個人も企業も、どう利益追及するかの一点に絞られることになります。

当然競合経済になるところから、企業はいかにコストを下げ、いかに良い品物を市場に提供するかの知恵のしぼりあいとなり、したがって企業努力は昼夜を問わず行われ、商品の高品位化と多様化は進み経済は活性化していきます。

これに対して社会主義経済はどうじゃろうか?。
欲望を刺激しない、競合がない、自由がない、個人の努力が報われないなどから経済は衰退していきます。
社会主義経済の低落は、当然ともいえる結果だったのです。」

すでに話の主導権は老人がにぎっていたが、不思議にその話ぶりには何の厭味も感じられない。

「これによると資本主義経済の勝利は明らかで、事実今日、社会主義経済はその身を市場経済に移しつつあります。

さてそれでは、私たちは勝利宣言をしてよいのじゃろうか?。
そうはいかないのです。

なぜなら、資本主義経済は行く先知らずの、白蟻経済だからです。」

「白蟻経済?。」

「そうです。白蟻は土台や柱をトコトン食いあらし、家が倒壊するまで決して進撃を止めようとしません。
資本主義経済もこれと似ていて、自然をトコトン食いつくし自らの居所(地球)を破壊するまで終わらないでしょう。
また富の均等配分も、これからは期待できない。
いや期待できないどころか、その格差は広がる一方です。

私たちはこれを、『人間が生きている限りある程度の環境破壊はやむを得ないし、また弱肉強食の世界において能力のないものが貧しいのも当然である』、ともっともらしい言いのがれをしてきたが、果たしてそんな屁理屈がいつまでも通用するものじゃろうか?。

富の分配が適切でなかったにも関わらず、何とかここまでやってこられたのは、地球の大きさに比べ人口が少なかったせいと、他の生き物とそう変わらぬ生産手段(肉体労働・畜力)に頼ってきたからです。

しかしその人間が道具や機械を発明し、また強大なエネルギーを獲得するに至って、がぜん自然に与える影響力が大きくなってきました。

そして二十世紀後半になって曲線的人口増加をみるに至り、その脅威は放置できないところまでやってきたのです。

特に資本主義経済(競合経済)は環境を破壊する最も過激なシステムだけに、地球に与える影響はまことに絶大です。

このようにみてきますと、どんなに物質的豊かさが提供できても、それが制御不能な環境破壊をもたらすようでは、お世辞にも人類にふさわしい経済とはいえないのです。

この経済に依存する限り、人類に明るい未来はないでしょう。」

「ではご老人は、資本主義社会も究極の仕組みではないとおっしゃるのですか?。」

「そうです、資本主義社会は人類進化がたどる一つの道にしか過ぎない、と私は思っています。つまり人類発展段階説、これが私の信ずる歴史観です。」


老人は白いあごひげを自慢げに撫でながらいい切った。

「人類発展段階説?。」

「そうです。

人類は常に進化の道を歩んでいます。
当然万物の霊長といえども、初期の段階では動物的な生き方をまねるでしょう。

しかしそれも進化がとる一時の姿であって、やがてもう一段上の生き方を身につけるようになるのです。」

「では今の社会は、ワンステップの一つに過ぎないといわれるのですか?。」

「そうです。ワンステップ、ワンステップ、人類は進化の階段を上っていくのです。
今日の資本主義社会も、そのワンステップの一つに過ぎないということです。」

「しかし、今の私たちは物質文明に満足しきっています。
よほどのことがない限り、この慣れ親しんだ生活を捨てようとは思わないでしょう?。」

「それが恐ろしいのです。

人間というものは不思議なもので、物質的満足感に浸っているときには、何かわずらわしいことが起こっても、一度手にした豊かさを放棄してまで他に道を求めようと思わないものです。

したがって正しい道を示す異端児が現れても、ただ疑い深い目で見るだけで一向に耳をかそうとしません。

ところが身に危険が迫ってくると、これまでの態度を一変させ、あわてふためきながら助けを求めてくるのですが、その時にはすでに病が進行し手遅れになっているか、回復手術が可能だとしても多くの苦しみを味わうはめになるのです。

そうなる前に、どこに病根があるかつきとめ、その根を勇気をもって切り取ることです。」

「今の社会は病んでいる、とご老人はおっしゃるのですか?。」

「そうです。先程もいったように、ゴールのないゴールに向かってひた走る経済、それが資本主義経済の姿といって良いでしょう。

自動車の生産量をみても、家電製品の生産量をみても、エネルギーの使用量をみても、まさに曲線的勢いで増えており、その勢いは、とどまるところを知りません。

それが全人類の生活安定に寄与するならまだしも、いまだに年に十億人近い極貧者を出し、数億人という失業者の群れをつくり、二千万人以上もの難民を生み出しています。

それだけではない、果てしのない民族戦争は多くの同胞人の血を流しているし、車社会は年間数十万人という痛ましい犠牲者を出している。

また、生きる目的を失い自ら命を絶つ豊かな国の人々や、暖衣飽食に酔いしれ文明病で苦しむ先進諸国の人たちも、形こそ違うが同類の犠牲者といえるでしょう。

そして最悪なのは、自ら作った環境汚染でジワジワと死の絶壁に追い詰められていることです。これが病いでなくて何でしょう?。

まあ、これもすべて資本主義経済が生み出した歪みですが、人類はこの歪みを少しも直そうとしません。

いや直そうとはしているのですが、現体制の中で行っているために、張りぼて的な修正にとどまっているのです。

ですから、こちらを直せばそちらがおかしくなり、そちらを直せばあちらがおかしくなる、といった歪みが出てくるわけです。

何せ私たちは、資本主義社会が究極のシステムだと信じて疑わないわけですから、場当たり的な修正にとどまるのも無理はないわけです。

よろしいですか。

『経済はすべてのはじまり』といわれるように、社会構造の柱をなしているのが経済です。

木にたとえれば、経済は幹で、政治、教育、文化などはその幹の上で茂る枝葉のようなものです。その幹が病めば、当然枝葉も病むでしょう。」

「たしかに、資本主義経済は万能でないかも知れません。

しかし、良いところもあるはずです。その良いところを別な形に再生できないものでしょうか?。」

「それは難しいでしょう。なぜなら、資本主義経済には回避できない根本的欠陥があるからです。

その第一の欠陥は先程もいったように、資源やエネルギーを食いつぶして成長する白蟻経済であるという点です。

資本主義経済という生き物は、たえず増殖を続けなければ生きられない体質をもっています。

つまり、売って、儲け、資本を蓄積し、また売って、儲け、資本を蓄積する、この繰り返しが必要なのです。

しかしどうでしょう。

有限な地球上において無限の成長が可能でしょうか?。

もしこれを強引に推し進めるとすれば、私たちの子孫に大変な環境蘇生負担を強いることになるでしょう。

いや、今すぐ発展途上国の人たちが先進諸国の人たちと同じ生活を望むとすれば、恐らく私たちの生きている時代にそのつけは返ってくるでしょう。

『ねずみ講』にも似た不健全な経済、それが資本主義経済の正体なのです。

二つ目は、この仕組みからは決して貧富の差はなくならないという、配分の欠陥です。

弱肉強食を唯一の配分原埋とするこの経済から、平等な配分など考えられませんからね・・・。

そして三つ目は、モノ豊かなる社会で果たして世道はどうなるか?、といった人心の不安です。

モノが豊かになればなるほど人心の荒廃が進む現況を考えれば、今後ますます対立や抗争が激化するのではと悲観的にならざるを得ません。

こうしてみますと、資本主義経済下で迎える二十一世紀は、どうも多難な時代になるのは避けられそうもなさそうです。」

老人はここで口を結ぶと、憂いのこもった目を空に向けた。

「それではここで、資本主義経済の矛盾と歪みを具体的に暴露してみることにしましょう。その矛盾のひどさに、改めて驚かれることでしょう。」

(つづく)

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