コンプレックスの告白、地方の濁った閉塞感【読書記録】#10
僕は地元から出たことがありません。
ですので、現在通っている医学部も地元の大学です。
医学部には一浪を経て入学しました。
この事実をnoteで発信することに大きな抵抗がありました。
なぜなら、「世界が狭い地元至上主義者」とか「典型的な地元のエリートコース」などといったレッテルを貼られることが嫌だからです。
僕のnoteを読んでくださっている方なら分かるかもしれませんが、僕は自分の生い立ちと現状(と将来)に激しいコンプレックスを抱いています。
僕が出会う人全てに知ってもらいたいのは、僕が地元に残ることを好んで選んだわけではないということ。
不安に打ち勝つことができず、色々な選択を誤った結果として今に至るのです。
無論その責任は全て僕自身にあるため、大きな声でそれを言いふらすのは情けないことです。
ですが、今回は恥を忍んで知っていただきたいのです。
僕は、地元に残りたくて残ったわけではない。
本当は一刻も早く都市部で生活したい。
自分の弱気な部分に呑まれた。
全ては医師になるという目標のためだった。
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さて、今回はそんな自己矛盾を告白してまで紹介したい本があります。
●ここは退屈迎えに来て
最近だと『あのこは貴族』で有名な山内マリコさんの作品です。(コンプレックスがえぐられるのではないかと怖くなり、『あのこは貴族』はまだ読めていません。)
このタイトル、『ここは退屈迎えに来て』が全てを物語っています。
それぞれの事情により、地元でくすぶりながら日々を過ごす若い女性たちのお話です。
とにかく地方のリアルというか、地方の低水準で鬱々とした閉塞感の描写が見事なんです。
取材を終えた車は夕方のバイパスを走る。大河のようにどこまでもつづく幹線道路、行列をなした車は時折りブレーキランプを一斉に赤く光らせ、道の両サイドにはライトアップされたチェーン店の、巨大看板が延々と連なる。ブックオフ、ハードオフ、モードオフ、 TSUTAYAとワンセットになった書店、東京靴流通センター、洋服の青山、紳士服はるやま、ユニクロ、しまむら、西松屋、スタジオアリス、ゲオ、ダイソー、ニトリ、コメリ、コジマ、ココス、ガスト、ビッグボーイ、ドン・キホーテ、マクドナルド、スターバックス、マックスバリュ、パチンコ屋、スーパー銭湯、アピタ、そしてイオン。 こういう景色を〝ファスト風土〟と呼ぶのだと、須賀さんが教えてくれた。
須賀さんは地方のダレた空気や、ヤンキーとファンシーが幅を利かす郊外文化を忌み嫌っていて、「俺の魂はいまも高円寺を彷徨っている」という。
1 私たちがすごかった栄光の話
固有名詞の羅列に凄まじい説得力があります。
多くの施設が集まっていながらも、その中身はどれも大衆的で空虚なものばかり。
"ファスト風土"、頷くことしかできません。
そう、丁度こんな感じに。
休日は親に頼み込んで TSUTAYAまで車を出してもらい、ビデオや CDを吟味して選ぶ。それが至福の時間だったが、十分も経たずに「早くして」とせっつかれるので、朝子は業腹である。雑誌で読んで楽しみにしていた新作映画がなかなかビデオにならなかったり、インディーズの CDが入荷しなかったり、イライラすることは山ほどあった。この町には、好奇心を満たしてくれる店ひとつない。
6 東京、二十歳。
そんな地元で育ち、年だけ食って大人になるとこんな光景に出会う。
田舎はみんな結婚が早い。森繁あかねは毎朝、幼馴染みの車と道で鉢合わせるが、彼女の目にはファミリーカーに付けられた「赤ちゃんが乗っています」というステッカーすら、母親であることのエゴを振りまいているように映った。
2 やがて哀しき女の子
こんなふうに予期せぬ再会が起こるから地元は窮屈だ。気づいていないフリをしながら、ちらちら横目で椎名の働きぶりを観察する。指紋がべたべたついた UFOキャッチャーのガラスを磨いたり、機械を叩いてメダルを落とそうとしている人をやんわり注意している。
なんかつまんない大人になってるな、とゆうこは思う。少なくとも中学までは、学年でも目立つ存在だったのに。今や水垢まみれの風呂場の鏡みたいに曇りきって、ただの人になっている。
3 地方都市のタラ・リピンスキー
小学生のころから兄は、クラスの人気者だったし、県の選抜メンバーに選ばれるような活躍をしたものの、結局はタランティーノが誰なのかもわからないほど、文化水準の低い田舎のあんちゃんに成長してしまったと、朝子は内心バカにしている。高校を卒業した途端、普通の人になってしまった。彼は最初にありあまる輝きを与えられて、ゆっくりとそれを失くしていっている。朝子の目にはそのように映った。
6 東京、二十歳。
都市部からUターンして地元に戻ったとしても、結局そこにあるのは廃れた環境だけなんです。
それでも高い家賃や過酷な電車の乗り換えに耐えて東京に住みつづけたのは、都会のヒステリックなテンションがいろんなものを紛らわせてくれて、それが心地よかったからだ。全然パッとしない自分も、行き当たりばったりに無意味に過ぎていく人生も、東京の喧騒にごたまぜになれば、それなりに格好がついて見えた。
ヒールで街を闊歩するようなキラキラした気分、広く浅くの友人知人との、楽しいようなそうでもないようなわいわいした時間。
でもそんなのはもうぜんぶ、嘘か幻みたい。
いまはこの、ぼんやりトボケた地方のユルさの、なんとも言えない侘しさや切実な寂しさだけが、すごくすごく、本当に思えた。
1 私たちがすごかった栄光の話
そして、最も印象に残った部分がこちら。
この町に暮らす人々はみな善良で、自分の生まれ育った町を心底愛していた。なぜこんなに住みやすい快適な土地を離れて、東京や大阪などのごみごみした都会に若者が流出するのか解せないでいるし、かつて出て行きたいと思ったことがあったとしても、この平和な町でのんびり暮らしているうちに、いつしかその理由をきれいさっぱり忘れてしまうのだった。
この町では若い感性はあっという間に年老いてしまう。野心に溢れた若者も、二十歳を過ぎれば溶接工に落ち着き、運命の恋を夢見ていた若い女は、二十四歳になるころには溶接工と結婚し家庭におさまった。
2 やがて哀しき女の子
そう、井の中の蛙たちが半径5メートルの世界で幸せそうに暮らしているのが田舎です。
普通に生活する若者の時間をドブに捨てさせるのが田舎です。
こうして次の世代も同じ"田舎"を歩むのです。
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この本から得た共感と恐怖は、僕にとって忘れられないものとなるでしょう。
濁った閉塞感のなかでどれだけ自分の意志を貫き通せるか。
僕の人生はそこに懸かっているのでしょう。