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『TENET テネット』問われる物語の楽しみ方 DV描写について

 この記事は、『TENET』の感想に対する感想です。したがって、ストーリーや設定にかかわる重大なネタバレはしておりませんが、本記事のテーマである描写には触れているのでご注意いただければと思います。

 ほとんどストーリー以外のことながら、それなりに長いです。文章はしばしば順行したり逆行してるかもしれません。『漠然とした注意喚起を危惧する理由』のところだけでも読んでいただけたら嬉しいです。

暴力描写に関する注意喚起の必要性についての議論

 『TENET』を観た後、当たり前のようにTwitterにて感想やネタバレを見ていると、一部で「描写に関する注意があったほうが良いのでは?」と言った内容のつぶやきがいくつか見られた。それに対する賛同の意はいいねやRTなどで多く見られており、公開から1週間が経とうとしている現在では、それなりに増えているように見える。同時に反対の意見も目にするようになり、賛否両論が巻き起こっているように見えている。

 もともとポリコレという概念に対して関心の高かった私は、無視できない話題だった。確かに事前の情報は、そのリスクを回避したい者にとって有効な手段の一つでもある。でも、当事者のためにできることって注意喚起のほかにも何か方法があるのではないか?」と謎のお節介な気持ちが沸いてきて、この記事を書いた。

自分の立場と、個人的な考え

 まずは暴力描写に対する自分の立場をはっきりさせておきたいと思う。

 あくまでも個人的には、どんなコンテンツであれ、描写に関する注意喚起はいらないという(=年齢制限のみで十分機能していると考える)立場である。

 呪怨のポスターを見ただけで気持ち悪くなり、そこで観る予定だったポケモンの映画が最悪になったことがある幼少期なら注意喚起はしてほしかったと願うだろうが、今となってはホラー映画にはそれなりのリスペクトもある(自ら観ることはないけれど)。

 話は逸れたが、注意喚起いらない派の人間が、自分逆の立場の感想を見た時にどうなったか。ほんとうに率直なことを言ってしまうと、そういう議論よりも、世界観の考察の方が知りたいよーーー!!っていうお気持ちがあったことは認めます。

「○○だから注意喚起が必要!」(←まあわかる)
「(注意喚起しないのは)完全に製作側のミス!」(←そこまで言う?!)

 こうした議論がノイズとして入ってくることに怒りさえ覚えた。その議論は私が必要としていないものだったから。その怒りはこの記事を書くための原動力となったわけですが、そうした怒りの吐露だけで終わっていいわけがないのでなんとかしたかったわけです。


それって本当に当事者を助けてる?という疑問

 もしも、過激な暴力描写が苦手であると知っている個人的な知り合いが、それでもTENETを観たいと言った場合には、刺激の強いシーンがあるから気をつけた方が良いよくらいの注意は言うと思う。それだけDV描写が全体を通してみても、印象的なシーンであったことは間違いないので。

 だが、SNSは個人に向けられたものではない。映画の感想ともなれば、たくさんの知らない人からのアクセスがある(Twitterなら自分のアナリティクスを見てみてほしい)。その中でも、「今の時代に○○」とか「この描写は古臭い」とか、そういったフレーズがSNSでは好まれる傾向にある。だからこそ、強い言葉を使うよりもまず、万人への偏らないススメをするのが助言としては誠実であると思う。

 SNSにおける拡散は、それを見た人にとっての選択肢の一つというよりも、選択肢は他にないといった印象を与える傾向にあるということも頭に置いておかなければならないと思う。

あなたの過去を想起させうるシーンはある。それを避けるために観ないという選択肢を選ぶことが出来るし、あなたがあなたの過去や暴力に対する感情を抱えながら、当該の暴力シーンを物語の一部と捉えて観るという選択肢も選ぶこともできる。

 書き出してみても回りくどいけれど、苦痛を感じている見知らぬ人のためを思うなら、これくらいのことを述べる必要があると思う。理由は以下に。


暴力描写の前提として

 確かに、暴力はフィクションであっても観ていて気持ちの良いものではない。私がそのシーンを実際に見た時も、見ていて息が詰まる思いだった。

 この記事を書いている私は当該のシーンから想起されるような暴力を受けた経験がないために、暴力を受けたことのある当事者がそのシーンを見たときに起こる心情や反応は容易に想像は出来ない。

 フラッシュバックなどの心理的な反応は、本人の意思とは無関係に自動的に起こってしまうものだから、無理にでも見ろとは言えない。特に映画館は途中退室しづらい環境なので、少しでもそうした環境を避けるため、そうした注意喚起があるとありがたいというのも理解できる。

 負荷の高い心理的ストレスの渦中にある人が、十分に休息を取るということは1つの大切な選択肢だ。こちらの感情を揺さぶってこようとするエンターテインメントの性質上、そうしたものから少し距離をとるのは賢明だ。


漠然とした注意喚起を危惧する理由

 私は当事者ではないものの、現代は、過去に慣習的に行われてきた描写について敏感にならざるを得ない時期であるという認識はある。そうしたエンタメ界全体の流れの中で、直接的な暴力描写を映画から減らしたり、製作側から注意喚起をすることは、受け手に何をもたらすのだろうか。作り手の寛大な配慮は、我々受け手の暴力にたいする感度だけをむやみに上げてしまう結果にならないだろうか。

 既に存在する年齢制限以外に、どこまで描写の注意喚起をすべきかといった議論は、作り手側が受け手の意見を聞いて、これから検討されていくべきことだろう。ただし、世の中にある「すべての」リスクに配慮するのは限界がある。受け手が作り手に求めた配慮が、実行されないことも様々な理由であるのが現実だと思う(実写版ムーランが記憶に新しい)


作り手や事前情報に依存しない物語を楽しむ工夫

 これから何らかの娯楽を楽しむ側の人間に必要とされるのは、自分の不快・みんなの不快を訴える力というよりもむしろ、

映画を始めとしたエンタメにおける表現を、個人の実際の経験と混同せず、コンテンツの一つとして区別できる力

にあるのではないかと考える。これは見る側の自衛である。作り手が配慮してくれるのなら、受け手側もそれ相応の配慮をする必要があるだろう。「共感すること」「感情移入すること」や「混同すること」が、100%悪いことなのではない。それらを「しすぎてしまう」ことが私たちに良くない影響を与えてしまうことがあるのだと思う。

 登場人物に自分を重ね合わせることができるなら、感情移入の程度を調節して、一人の観客として映画を眺めることもできるのではないだろうか。このような考えのもと、物語を楽しむときには「あなたの過去がどうであれ、観ない選択肢もあれば、それ以外の選択肢もある」ということを伝えたく、私はこの記事を書いたのでした。


おわりに

 あなたが実際に体験して、そこで気付いたあなたの考えや感情、ひらめきはあなただけのもの。私たちにポジティブな影響やネガティブな影響、ときに"無"という影響も平等に与えてくれるのがエンターテインメントである。

  観るか観ないかの葛藤がある人に対して、観ないともったいないよ!なんて、押しつけがましいことは言わないが、ネガティブな感情に向けて訴えられた一つの選択肢によって、他方の選択肢を見えづらくしてしまうことは、私はもったいないと思う。

 そしてなにより、作品にはそのシーンよりももっと広い世界が広がっている。人によっては目を覆いたくなるほどのそれを経験したヒロインが至るラストを、あなたが知りたいと思うなら、ぜひ観察してみてはいかがだろうか。

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