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自己実現とキリスト教

こんにちは。

今日はマズローの自己実現論と宗教(特にキリスト教)の関係性について書きたいと思います。
僕は大学の学部生で、卒業論文のテーマはこれで行こうと思ってます笑
先行研究なんて全然みつからなくて困ってます、好き勝手やれるから良いっちゃ良いんですが、、

今回のnoteは卒業論文の準備も兼ねて軽くまとめてみようかなというノリです。

このテーマ、人間性心理学や自己実現の説明で紙面食いそうですね笑

自己実現とは?

まずマズローの自己実現について知っていますか?
欲求の階層論の方が有名かもしれません。人間の行動はおよそ同期づけられていて、基本的な欲求は階層構造を成し、優勢な欲求が満たされればその上位の欲求が現れてくるという。人間は究極的には自己実現を目指すものであるという。下の図を見ればピンとくるかもしれません

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実はこの5段階の図はマズローのものではなく後の学者が作ったものなんですが、彼の学説を分かりやすくするとこのようになります。
マズロー自身も、これ以外の欲求が存在することも認めていますし、これほど単純化できないこと、成長を阻む要因も存在することを認めています。

今回はこの動機について論じるのはやめておきます。宗教との関連を見たいので、自己実現にフォーカスします。

自己実現とは、ある人が彼の持つ可能性や能力などを十分に発揮することで、原語だとself-actualizationになります。

彼は周囲にいた人、また歴史上の人物などから「自己実現した人」を選び出し、その特徴を記述するという研究方法を取りました。
彼が設定した「自己実現した人」の条件とは、神経症などの臨床的な負の傾向がなく、基本的欲求や認知欲求が満たされている(あるいはある程度克服されている)、そして自己実現の特徴でありそうなものが認められることである。
ここで注意しておきたいのは、完全な人間や完全な自己実現者はいなかったということである。どのような被験者もどこか欠点があり、完全とは言えないものである。

B価値について

自己実現した人は、B価値(Being Values)を追い求めます。基本的欲求に生きていたり、社会の文化や制度の下にいたりすると、B価値を追求する欲求を純粋に求められず、またその欲求は抑圧されます。

B価値とはなんでしょうか。B価値とは真・善・美・完全性・全体性・完成・独自性・正直・自己充足などのことです。同じような内容もありますが、あるB価値が他のB価値で説明できるようなものであり、完全に区別はできないと言っています。


こう見るとB価値はキリスト教の神や、仏教の仏など宗教における究極的関心と重なる概念であるように思えます。人が究極的に求めるもの、という意味でも合致します。マズローの検証において完全な自己実現者がいなかったというのも、人と神の同一視がタブーとされることに似ています。

至高経験について

マズローは自己実現論において、「至高経験(peak experience)」を取り上げます。自己実現した人においては至高経験が普通の人よりも有意に頻繁に起こっているのです。

至高経験とは、その時点において最高の幸福と充実を感じるモノです。一言で言い表すことは難しいですが、最も大きな特徴はB認識です。これも複雑なものなので、特徴を記述する方法で明らかにしていきましょう。

至高経験においてはB認識が起こります。B認識はあらゆる面で人間の持つものを超越します。

まず、自己の超越。至高経験においては、自己を意識しなくなる、つまり無我になることが挙げられます。例えば本を読んでいる時、ライブに参加した時、完全な没入感によって自分が何をしているのか、どこにいるのかを意識しなくなる、あのような感覚です。
自己の超越は、自分にとって役に立つかなど自己に即した審判的態度も超越します。例えば、ある人と話すときに女性という特徴を取り上げて女性の1人として接したら、煩わしい心配は軽減します。至高経験においては、このようにある特徴だけを取り出すことはせず、対象のすべての特徴をとらえます。

そして、時間や空間の超越。先述しましたが、何時に何があるとか今どこにいるとかを意識しないので、つまりその瞬間においては永遠に生きるということもできます。

次に、受動的態度です。自己の超越でも言いましたが、自己にとっての有用性等に基づいた対象の選択をせず、すべて受け入れる態度を持ちます。マズローは道教的態度と言い表します。

最後、B価値の認識です。至高経験においては世界や対象に対してB勝ちを認めます。世界は完全で完成されており、善であり美である。そのような意識になります。


このように見ると、B認識は神の視点と言えそうです。(詳しい議論は避けます)
そして、至高経験においては神に一時的に接近し、神の声を聞くことができる。私はキリスト教の人間なので、祈りの態度や神の声と結び付けたくなります。また、悟りも近いでしょうか。

至高経験は一時的なものですが、それはその後の認識に時々影響をもたらします。現実に対して以前よりより有効な認知を持てるようになる人もいます。
その影響が長期的・永続的に続く場合、これを高原状態と呼びます。至高経験を経て高原状態に至った人たちの中に聖人や預言者と言われる人がいるのではないでしょうか。

完全にキリスト教の話になりますが、救いは自己実現をし、至高経験を経て高原状態に至ることのような気がします。この論点についてはまだあまり詳しく精査してないのですが、、、

まとめ

いきなりですが、こんな感じで人間性心理学における自己実現とキリスト教というのは近いものがあるのではないでしょうか。自己実現の欲求が人間に本能的欲求として備わっているので、その環境や文化によって様々な宗教が出現したのではないでしょうか。多数の人々が一つの信仰を共有できるのは人間という種に共通する本能的な欲求、さらには自己実現欲求があるからこそではないでしょうか。

非常に拙い文章をここまで読んで頂いた方、ありがとうございました。
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