『斜陽』太宰治
はじめに:現代にも通ずるセオリー
本作は、戦後没落していく貴族の家族を描いた作品である。戦後、財産を失った貴族の母親、娘、息子は、時代の波に揉まれる。
最終的には母親は死に、息子は自殺し、娘だけが強く生きていかんとする。
本作品をただのかわいそうな貴族の没落と恋愛の話として読むのも興味深い。
だが、女史的観点ではむしろ、環境適応能力の重要性を改めて感じることができ、得るものが大きいポジティブな作品であった。
そして、女史のnoteをどう読むか、こちらを参考にしてくれ。
時代の変遷:淘汰される過去の勝者
主人公は貴族の娘である。終戦後、母親と2人で、伊豆に移り住んで暮らしている。彼らは底のつきかけた財産を頼りに、生きている。そこに、戦地からやっと帰ってきた元アヘン中毒者で現在アル中の息子が合流し、家族の歯車が狂っていく。
母親は、優雅な風格ある貴族として描かれており、”日本最後の貴婦人”とまで表現されている。一方で、ちょっとしたことで寝込んでしまうなど、体と心の弱さが描かれている。
息子に関しても同様、戦地から帰国後も、東京で遊び歩き、酒ばかり飲む。現実逃避ばかりして、仕事を探そうともしない。意中の女性にも消極的で、思いを伝えようとも思わない。
この2人とはうって変わって、娘はたくましく生きようとする姿が描かれる。母親に野菜を食べさせるために、足袋を引っ張り出して、近所の農家の手伝いをする。意中の男性にも積極的に手紙を出して思いを伝える。
さて、物語の終わり、最後まで生き残ったのはもちろん娘である。
母親は、貴族としての品格を保って死んだ。息子は、貴族としての品格を保とうとして自殺した。娘は、貴族の品格など捨てて、生きることを選んだ。
環境に適応できたのは、娘だけだったのだ。
おわりに:試される適応能力
社会的地位とは、流動性のあるものだ。特に戦後など、偉い!凄い!と言われていた地位が、あっという間に軽蔑される地位になっていたりする。
近所の農家が、主人公たち家族を「ままごとのようだ」と揶揄するシーンがある。時代の変遷に適応しようとせず、いつまでも過去の栄光に固執する貴族は、農家にとっては、まるで喜劇や時代劇のように映ったのであろう。
人は、常に変化にさらされている。社会的地位、技術、制度の変化etc...挙げればきりがない。過去の経験や実績を投げ捨てて、これらの変化についていける人間こそが、次世代での勝者になるのである。
本小説は、環境適応能力の重要性を説かんと、一つの家族に焦点を当てたケーススタディであると女史は感じた。
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